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第22話
まさか篠山と遼太郎がそんな関係だとは思いもしなかった。彼らがいっしょにいるのを見ていても、そんな色恋が絡むような雰囲気に見えたこともない。
篠山が彼を気にかけるような言動をとっていても、それは彼が部下であるまえに、年の近い同僚であるからだと思っていた。お互い気心が知れているのだろうと。
「遼太郎さんは、篠山さんのこと、好きなのかな? 本気……?」
遼太郎はおなじ空間にいても、自分たちと特に馴染もうとしないで、いつもマイペースに絵を描いているだけだ。常につんと澄ましているが、必要に応じて会話にもはいってくるので、自分や春臣のことを嫌っているわけでもなさそうだった。
じゃあたいして愉しくもないのに、仕事が終わったあともわざわざここに残っていた理由はといえば、やはりそこに篠山がいるからなのだろうか。
篠山はプライベートで、そしておそらく仕事においても、遼太郎によい活動の場を与えていて、そして遼太郎もそれに応えるように働いている。
自分もいままでにずいぶん、篠山に頼まれた彼に助けられてきた。それもすべて彼が篠山に特別な好意を持っていたから、篠山の役にたちたいと思ってのことだったとしたら――。
(でもほんとに、恋人同士が持つような甘い空気感は、まったくなかったと思うんだけど……)
「……なんか、裏切られた気分だ」
いつも篠山にやさしく寄り添い、細やかな気配りを見せている春臣が、当然、篠山の恋人なのだというのに。たぶんいまは自分が邪魔になっていて、ふたりはそういうことをいたせていないはずだ。それなのに、春臣の目を盗んで篠山と遼太郎は――。
(やっぱり関係を隠していたのだろうか。春臣くんにバレないように?)
鼓動はようやく治まってきたが、けれども心のほうは、どんどんと重く沈んでいく。
(篠山さんは、もう春臣くんよりも遼太郎さんのほうが好きなのかな? それとも単なる遊び?)
彼は自分に手を出したときのように、遼太郎のことも軽い気持ちで抱いているのだろうか。
ズキッと胸が痛んで身を縮めた神野は、篠山を非難すればするだけ自分が惨めな気持ちになっていくことに気づいた。
「違う……」
鼻の奥がつんと痛み、呟きに湿り気が混ざる。
(軽い気持ちで手を出したんであっても、篠山さんはひとを些末に扱ったりなんかしない。きっと、ちゃん遼太郎さんにたいしても、なにかしらの気持ちがあるはずだ……)
情事のときに自分に触れる彼の手の温もりや、事後の丁寧な扱いを知っている神野は、いまでは決して彼が浮薄 な人間でないと信じている。だから――。
(そうだ。軽薄な気持ちだけじゃなくて、きっとちゃんと遼太郎さんのこと、考えているはずで……)
神野はいつだったか遼太郎を怒らせたんじゃないかと、篠山に相談したときのことを思いだした。彼はそれを否定して、遼太郎を擁護するようなことを云っていたではないか。
もしかしたら、あれは親愛からくるものではなく、情人にもつ気遣わしさからの答えだったのかもしれない。
(まさか、遼太郎さんが本命だったとか……?)
神野は水位を上げていく浴槽に、右手を挿しこんだ。手のひらを叩く水圧を感じながら、少しでもいいから、この胸に渦巻く淀んだタールのような不快感が、払拭することを願う。
(なんで? なんで俺はこんなに苦しいの? なんで?)
自分がこれほどに心を乱す要因はなんだったのだろう。睦みあうふたりの光景の中に存在したなにかが、これほどにも自分を動揺させている。
「どうして」ではない。まずは「なにに」なのかを知らなければならないのだ。自分と篠山とのセックスと彼らでするセックス。その行為の中におなじであるものでなく、違いをみつけなければならないのだ。
神野は眉間に皺を寄せると、覚悟し、強張った瞳に軋む瞼を下ろしていった。
「祐樹っ!」
いきなり名まえを呼ばれ背中をひっぱられた神野は、後ろにひっくり返って洗い場の床に尻をつく。目を見開くと、そこには逆さまになった春臣の険しい顔があった。
「春臣くん? ……びっくりした」
彼は仰向けになった神野の全身に目を走らせると、ひと息吐いて表情を緩めた。
浴室の床に転んだ神野は、ちゃんと春臣の胸に受けとめてもらっていたが、彼が退いてしまうと、後頭部から床にゴッチンだ。慌てて身体を起こす。
「びっくりしたのは、こっちだよ。まったく、人騒がせな」
湯に浸していたはずの右手は、いつのまにか浴槽から取りだされている。どうやら春臣に手首でも切ったと勘違いさせたらしい。強く掴まれた手首がじんわりと痛むので、神野は濡れた手を拭くふりでボトムに擦りつけ、こっそりと痛みを散らした。
「すみません……」
「いったいどうしたの? リビングから居なくなってると思ったら、こんなところで――」
「あ……と、えっと……。ちょっとぼーっとしていて……」
春臣はもう一度神野を上から下まで確認すると、果 せるかな「手首とか切らないでよ」と叱った。
「はい。でも、そんなことはもうしません」
「ほんとかな? でも、祐樹。……顔色悪い。どうしたの?」
「大丈夫です」
強張った口でなんとか答えてみたが、彼は自分の顔に浮かんだ憂いを見逃さなかった。「ああ」と呟くと額を掻きながら、また溜息を吐く。
「もしかして祐樹。客室、気づいた?」
「あ、と」
ぎくりとして、言葉に詰まる。
「そっか。知っちゃったか。そっか、そっか。じゃあ仕方ないか」
春臣はあの部屋で行われていたことを知っていたらしい。いつからだろう。
(そっかじゃないだろ? 怒るとか悲しいとかないの?)
なんでもないことのように振舞う春臣がじつは傷ついているだろうことは、容易に想像がつく。
(なんで、そんな平気なふりするんだよ)
それとも、我慢しないといけないとでも思っているのだろうか。
「……あの、篠山さんは春臣さんのこと大切に思っていて、……えと」
どう声をかけたらいいのか、わからない。慰めたくても気持ちが焦るだけだ。そもそも口下手な自分に、恋人の浮気現場にでくわした友人のフォローなんてできるわけがない。そんなことができるほどの口さきと要領がよければ、いままでだってもっと器用に生きてこられたはずだった。
「祐樹、祐樹? 落着いて」
(落着いて、じゃないだろう?)
「……とりあえず、あっち戻ろう?」
引っ張り上げられて立ちあがり、手を引かれてリビングへ連れ戻される。座らされたソファーで「あ」とか「う」とか意味をなさない言葉を発していると、ペチペチと左の頬を叩かれた。
「だめだ、祐樹にゲイのセックスは刺激が強すぎたか」
たとえ見たのが男女のそれであっても、最近まで情欲事とは無縁に生きていた自分には充分に衝撃があっただろう。だったら次の春臣のセリフにも、素直に頷けばよかったのだ。
「祐樹、匡彦さんと遼太郎くんがやってるの見て、そんなにショックだったん?」
「ち、違う!」
篠山と遼太郎という名まえにかっと身体が焼けついた。泣きそうになるのはぐっと堪えたが、切りつけられたような胸の痛みは深く、シャツの胸を鷲掴む。
(これじゃ、まるで自分のほうが彼らの関係に傷ついているみたいじゃないか)
「……祐樹」
顔を覗きこんでくる春臣の眉間に皺が寄っていた。
(いや、違う。春臣くんのほうがもっとつらいに違いないんだ)
どうしたらいい? こんな顔をする彼にかける言葉がみつからない。せめて心をこめて彼の肩を抱いてやればいいのだろうか。
彼が心臓を抉られるほどの痛みを感じているのではないかと思ったのは、まさにいま神野自身がそう感じているからだ。
つらい。痛い。苦しい。
確かに篠山は神野の恋人ではなく、自分にはまったく傷つく権利なんてない。それでも形だけとはいえ温もりを知った篠山がほかの誰かと情を交わしていたことに、これだけ胸が痛むのだ。ならば恋人の立場である春臣のつらさは、それ以上なのだから。
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