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第23話
(どうしよう。俺、本当に春臣くんにずっとひどいことしてたんだ……)
これほどの苦しみと喪失感を春臣に与えるリスクを、自分はいままで軽く考えてきて、単なる処理だと卑怯な云い訳をつけて篠山と寝てきていた。
(俺、最低だ。許されることじゃない)
遼太郎に嫉妬することで、やっと身勝手で春臣を裏切りつづけていたことの残酷さが胸に刺さる。
(ごめんなさい。ごめんなさい)
かといって、そのことを口に出して謝ることはできない。
遼太郎だけではなく自分までもが篠山と寝ていただなんて知ったら、春臣はもっと追い詰められるだろう。そんなことは絶対にしたくなかった。
(それに……春臣くんに恨まれるのは、嫌だ)
ポタリと涙が床に落ちた。
「祐樹、ほら、泣かないで」
「……うぅ」
(まただ。また俺は自分のことだけを、考えている)
しかもいまいちばん傷つく権利がある春臣に、逆に心配まで掛けさせこうして慰めてもらって――。
自己嫌悪に苛まれ、身体ががたがたと震えはじめた。
「ごめん、なさ、ぃっ」
戦慄く唇で紡げたのは陳腐な謝罪の言葉だけだった。
自分は最低だ。所詮、彼を慰めなければという気持ちだって、自己保身のためなのだろう。その証拠に、自分は春臣にかける言葉のひとつも持ちあわせていない。
「ぅっ……春……、おみ、くん……」
背中をやさしく撫でさすってくれる彼の胸を震える手で縋るようにして掴むと、彼はそのまま神野を迎えいれるように抱きしめてくれた。
重く伸しかかる罪悪感に押しつぶされてしまいそうだったが、それでも腕をまわしてくれた春臣はとてもやさしくて、嗚咽がますますひどくなる。
「うっ…‥うぅ、……う……っく……」
春臣は自分までもが彼を裏切っていたと知ったら、どうするのだろう。この胸から引き剥がして、自分を罵倒するのだろうか? それとも悲嘆にくれて、神野との一切のことを切り捨て部屋を飛び出していくのだろうか。彼が自分を押し退けて出いってしまったらと思うと、血の気がひいてくる。
春臣と篠山との仲も、ダメになってしまうのだろうか。
絶対にそんなことにはなって欲しくない。春臣の腕の中で、どうにか自分の犯した悪辣な所業がバレませんようにと、ぎゅっと目を瞑って強く祈る。
(篠山さんとのことは、絶対に最期まで内緒にしなきゃ)
得体の知れない衝撃と春臣に犯した罪に対する悔恨から、つぎつぎと涙が溢れてくる。それは頬を滴り、皮肉にもなにも知らない春臣のやさしい胸の中に吸いこまれていった。
篠山の不貞を、彼と遼太郎にかわって――そしてなによりも、自分の気持ちを伝えるためにと、嗚咽を咬んでいた唇を開く。
「ご、ごめんなさい」
「いいよ、いいよ。胸くらいいくらでも貸してあげるさ。よしよし」
「よ、くな……いっ。ごめんなさいっ。ごめんなさいっ……」
理由は明かせないままに、神野はひたすら春臣に謝った。
「しかし、そんなにショックだった?」
「ち、ちがっ……」
それもあるが、そうじゃない。
「春臣くんだって、嫌な気持ち、なるでしょっ? なんで、怒らない……ですかっ⁉」
強がってなのか、軽い口調の春臣に、神野のほうが悔しい気持ちになってくる。なぜ篠山に、遼太郎に、怒らない? 悲しまない? どうしてあの部屋に乗りこんでいかないのだ。
それともふたりの関係をもうずっとまえから知っていて、そんな気持ちを持つことを諦めでもしているのだろうか。
「見てて、わかります……。篠山、さんは……、春臣くんのこと、ちゃんと好きだか、らっ。だから、」
たどたどしくそう言葉を紡ぐと、それまで背中を撫でてくれていた春臣の手がぴたりと止まり、彼は「へ?」と、場にそぐわない声をだした。
「ああ。…………祐樹、気にしてくれているんだ」
こくっと頷いた頭上で、くすっと笑った気配がした。
「そっか。……そっかそっか……」
そんな諦めたような笑いかたをしないでほしい。それとももうどうでもよくなるぐらい、それほどに追いつめられている?
自分も彼を欺く人間のうちのひとりでありながら、それでも春臣には篠山と幸せになって欲しいと切実に思う。しかしそう思った途端に、目頭に痛みが走った。
「うぅぅ…」
「うわっ、ほら、泣かないでぇ~」
「……ふたり、っ……つきあって、いるっ……の、に、ごめ、んっ、なさい」
「あーあー。もう、そんなかわいい勘違いしてないで。俺のことはいいから、祐樹は素直に傷ついていなよって」
「ひっぅっく、……? っく」
みっともない顔を承知で顔をあげる。
「うわぁ。ぐちゃぐちゃだ。祐樹、これ明日、顔が腫れるよ?」
「?」
手のかかる自分に気が削がれでもするだろうか。着ていたパーカーの袖口で濡れた顔をぐいと拭ってくれる彼の顔には、暗鬱さの欠片もない。相当気丈なのだろうか。春臣がどうしてこんな態度でいられるのか神野にはわからなかった。
「よっし、じゃあさ、祐樹。俺ん家ち来ない?」
そのうえ春臣はそんなことを提案した。
「はっ、春臣くんの、家に……?」
「うん。どうせそんなんじゃ、祐樹は遼太郎くんの顔も匡彦さんの顔も見たくないんじゃないの? それともこのあと勇気を出して、匡彦さんに慰めてもらう?」
篠山が遼太郎を寄り添ってあの部屋から出てくるところを想像した神野は、ぶるりと震えると、ぐしょぐしょに泣き濡れた顔を思いきり横に振った。
*
よくわからないが、春臣に着いていくことにした。今夜はもう平常心で篠山の顔が見られそうになかったからだ。だから春臣の厚意はありがたく、飛びつくようにして彼の誘いに乗ったのだ。
神野は身のまわりのものだけを持って、こっそり春臣とマンションを出た。春臣がテーブルのうえに書置きをしていたので、篠山も心配はせずにすむだろう。春臣のそつない行動はいつも頼もしい。
春臣に連れてきてもらったアパートは、篠山のマンションからバイクで五分もかからないところにあった。アパートの前には大学の敷地である塀が長くつづき、周辺には住宅しかない。そのうえに、幹線道路からも離れているので、まだ夜のはやい時刻だというのに、周辺はとても静かだった。
部屋に入ると、春臣は神野にひとり掛けソファーを勧め、さっさと風呂の準備をはじめた。
結局篠山のところで用意した風呂はそのままにしてきたが、もしかしたら今頃ふたりが使っているのかもしれない。仲良く湯舟に浸かるのだろうかと考えると、また涙がポタリと転がり落ちた。
いつまでもぐすぐすやっていると、春臣が温かい飲み物を握らせてくれる。マグカップを両手で包むようにして、ぼんやりと湯気のたつ中身を見つめた。
(こんなこと、前にもあった……)
それは大阪のホテルでのことだ。こうして熱いお茶の入ったマグカップを自分に握らせたのは、篠山で。あの日は他にも誰か、もうひとりにもやっぱりこういうふうにコーヒーの入ったマグカップを渡されている。
「落ち着いた?」
心配そうに覗きこんできた春臣から、顔を伏せて隠した。涙は止まっていたが、いつもひとに世話を焼かせている自分が恥ずかしい。
「ごめんなさい」
「どうしてさっきから、祐樹は謝ってばかりなの?」
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