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第25話
「いや、べつに悲しんで欲しいわけでもないし、祐樹の失恋が決まったわけでもないけどさ。むしろ……」
「私が、ショックだったのは、そんなことではなくて……」
わからなくて、またもやもやしてくる。胸の奥のどろっとした不快感は、ずっと自分の身体の中で、その存在を主張しつづけていた。
篠山の貞操が思いのほか緩かったことに、落胆したのだろうか。いや、多少はがっかりしたのかもしれないが、そもそも彼の好色ぶりは初見のときに身をもって知っており、彼にはなんの期待もしていなかったはずだ。
自分の胸を重苦しくする、そして頭の片隅に引っ掛かりっぱなしの、棘のようなものの正体を、神野は瞼に焼きついたあの光景のなかから探り出そうとするが、そうするとまた胸の上澄みの痛みがぶりかえし、目頭が熱くなってくる。
「祐樹、大丈夫? そんなに泣かないでよ……」
「……はい。べつに篠山さんを好きとか、そういうんじゃないですから。それよりも春臣くんは大丈夫ですか?」
春臣を気遣うセリフが、涙で上擦ってしまう。
「……あのね。どんだけ頑固なの? もっかい云うよ? 篠山さんとはセ・フ・レ! もうこれ以上おんなじこと云わせないでよ」
ついに頭を叩かれた。
「痛いです」
「って云うか、もしかしたらあのひととは、それ以下かもね。たまたまお互いが溜まっているときにやる程度だから滅多にしないし、しかも最近匡彦さんは、誰かさんとほぼ毎日発散してるっぽいし? 俺なんて必要ないじゃん?」
「ご、ごめ――、ふがっ⁉」
「いや、だから謝んないで。俺にはいくらでもいるから、セフレなんて」
恥ずかしいことを云われ、火照った顔でそれでも重ねて謝ろうとすると、今度は手で口を塞がれてしまう。
「祐樹しつこい。もう謝んないで!」
奇しくもそれは、いつか遼太郎にも云われたセリフだった。
「あのね、祐樹。世の中そんなきれいなカップルばっかりじゃないよ? ってか、これ以上祐樹を納得させるための話をしてると、俺の株がどんどん下がっていっちゃうから、もうホントに勘弁してくれないかな? そもそもおとなのお話なんで、お子さまの祐樹がいちいち気をまわして間に入ってこなくたっていいいからっ」
「……なんかそれって、ひどいです」
すぐ隣で横たわる春臣に、口を尖らせて見せると「ははは」と笑われた。
「だから、祐樹は素直に匡彦さんに腹を立てるか、遼太郎くんに嫉妬していればいいよ。っていってもまぁ、アレも遊びなんだろうけどね」
春臣は気楽に云うが、それは彼があのベッドで行われていた行為を、実際に見てないからだ。ふたりはちゃんと愛しあっていた、決して遊びなんかじゃない。
彼らを想うと反射のように痛みだす胸に身じろぐ。すると勘違いしたのか、絶対逃げだすなよと春臣にきつくホールドされてしまった。
伸しかかった彼の重さと掴まれた手首の痛みが、胸の疼痛を紛らわせてくれた。だったらいまのうちもう寝てしまおうと、泣いて赤く腫れた瞼をぎゅっと瞑る。するとほどなくして、昨夜の寝不足のもあってか、疲れた体は休息を求めて深い眠りへと落ちていった。
*
翌日、仕事があがったあと、神野はどうしても篠山と顔をあわせられないと云って春臣に帰るのを渋ってみせた。一日充分に考えて、もうあのマンションには帰らないと決めていたのだ。
もちろん世話になった篠山のまえから、砂をかけるようにして逃げる気はさらさらないので、どれだけ時間がかかってもきっちりそれ相応の礼をする気持ちはある。そのうえで、彼のところを出るつもりでいた。
今日このまま篠山のもとへ戻って彼の顔を見てしまうと、自分は訳も分からないままに取り乱してしまうに違いない。瞼の裏に篠山の顔を思い描くだけで無性に腹立たしくなり、そしてせつない気持ちが湧き上がってくるのだ。喉の奥からぐぅっと熱い塊がせりあがってくるようで、お角違いではあるが、いっそ泣きながら彼を責め立てたいという衝動にかられてしまう。
しかし神野はそこでまたわからなくなるのだ。自分はいったい彼をなんと云って責めるのだろうか。
その時になればこの口から、自然に言葉が迸りでるのだろうか。だとしたらそれが自分が未だだせないでいる、彼らの情事に起因する不信とわだかまりの答えなのだろう。
それならばいっそさっさと篠山と対峙してしまえば、自分の想いがすべて吐露されてこの胸を締めつける苦しみから解放されるのではないか。
しかし神野は二十二年間生きてきて、これほど誰かにたいして不愉快で苛立つ感情を持ったことがない。そんな自分を誰かに、そして自分自身にすら晒すのは怖かった。
最近自分の身勝手さや自己欺瞞を思い知り、打ちのめされたばかりだ。これ以上自分の醜悪さを知りたくはないし、篠山にも見せなくはない。
それに恩のある彼を傷つけるばかりか、怒らせてしまうかもしれないということを考えると、やはり足が竦んだ。ましてや彼に憎まれてしまうんじゃないかと考えると、絶望感すら湧いてくる。
「自分が勝手で我儘なことを云っているのはわかります。でも、すいません。篠山さんの顔、いまは見れないです……」
実際にはそれだけではなかった。
あのマンションの玄関に足を踏み入れて、篠山と遼太郎が抱きあっていたあの部屋すら目にいれたくないほどだ。いまはまだあの扉を思い浮かべるだけでも、あの部屋まえを歩くことを想像するだけでも、喉が熱くなり呼吸が乱れてしまう。
「じゃあ、今日も俺の部屋でいいの?」
「……春臣くんがいいのなら、今日はそれでお願いしたいです。お礼はちゃんとします。でも、ダメなら断ってください。一日くらいならネットカフェもありますし、この時間なら実家にも帰れます」
春臣には、神野がさっさと篠山と顔を会わせることによって事態が丸く収まるという料簡があるらしく、とりあえずマンションに帰ることを勧められたのだが、そんなことがあるわけがない。いまのこの複雑な心奥 が、神野には彼の云うように簡単に晴れるとは思えなかった。
春臣にはまた頑固だと思われそうだったが、黙りこんでいると思いのほか彼は「わかった」と軽く頷いて、バイクに乗るように促したのだ。
「それなら、祐樹はここに住んだらいいよ」
春臣のアパートに着くと、彼はなんでもないことのように云った。
「隣の部屋に?」
春臣の部屋はルームシャア用の2DKで、ダイニングキッチンの他にふたつの部屋がある。その両方にベッドの用意があるのだ。
彼が使っていないほうの部屋を使ってもいいのかと訊ねると、荷物を置いたりするのはいいが、目が届かなくなるからひとりで過ごすのもそっちのベッドで寝るのもダメだと却下されてしまう。
それでもこれでしばらくは住居には困らなくてすむ。最低限のお金と住むところさえあるのならばいい。胸にわだかまっている感情のほうはそのうちに薄れていくのだろうから。
「じゃあ、いっしょのベッドでいいので、しばらくここにいさせてください」
正座で話していた神野は、そのままちょこんと床に三つ指をつくと、丁寧に頭をさげた。マナーとしては軽いお辞儀の部類にはいるが、それでも弦を張ったような背筋の美しい神野が、それをして見せると、それは妙に艶めいていて――。
とくに匂いたつような首筋に思わず春臣が生唾を飲んでいただなんて、鈍い神野には知る由もない。
最悪実家から通勤することを覚悟していた神野は、春臣の申しでに厚かましくも乗らせてもらうことになった。
彼にはずいぶん負んぶに抱っこで面倒を見てもらっていて、悪いと思っているのだが、できることなら当面、静岡の母には会いたくない。彼女の顔をみるくらいなら、春臣に迷惑をかけているほうが、精神的にはまだましだというのが、いまの正直な気持ちだ。
ちなみに春臣は、「絶対に祐樹を実家にだけは行かせない!」と声を荒 らげている。
「どうせまた祐樹にタカってくるんじゃないの? 伯母さんの病院代がいらなくなったぶん、ローン返済の金額増やしてちょうだい、とかさ。家に家賃入れろ、とかさ。云いだすよ? きっと!」
それを聞いたとき、神野は彼の鋭さに驚かされた。春臣の憶測は見事にあたっており、じつは先週母に電話でお金を無心されていたのだ。
もちろんバイトを止めてしまい、篠山への借金がある神野は「どうしても工面ができない」と告げてそれを断ったのだが、電話を切るときの母は相当機嫌を損ねていていた。そのことも神野が実家に帰りたくない理由のひとつだ。
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