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第26話

 それにしても出会って二ヶ月にもならない春臣に、これほどの情をかけてもらえることが不思議でならない。それを云いだすともちろん篠山にだって人並みならない親切を受けている。  仕事帰りに立ち寄ったことのある春臣の行きつけのゲイバーが、彼らが出会った場所だと聞いていた。四年ほど前にそこで知りあったふたりは、それからずっとつきあいがつづいているそうだ。きっと似たもの同士で引きあうものがあるのだろう。 「匡彦さんにはうまく云っておいたけど、祐樹の気持ちが落ち着いたらでいいから、ちゃんと自分の口からも改めて説明するんだよ?」 「わかりました」 「あと、俺が祐樹の傍にいられないときは、文句云わずに匡彦さんのところに行くんだからね?」 「わかりました」  今日明日とかいきなりでは無理だろうが、しばらくすれば気持ちも治まり、篠山と平常心で向きあえるはずだ。ほんの数時間程度なら、きっと平気だろう。 「ひとりで大丈夫だと俺が思えるようになったら、祐樹に隣の部屋を使わせてあげるけど、それまではぜったい俺といっしょのベッドだからね」  そう念押ししてくる春臣に、いつになったら彼の信用を得られるのだろうかと神野は細い首を捻るのだが、服毒自殺未遂からまだ二ヶ月も経っていないのだ。しかもそのあともなんどか情緒不安定になっている。当面は周囲がはらはらと過剰に心配してしまうは、仕方がないのかもしれない。 「そもそも祐樹は思考が頑固で極端なんだよ、全部自分で解決しようとするけど、そういうの向いてないからやめたほうがいいよ。あとね、よく判断して、場合によってはちゃんと周りにアドバイスをもらったり、助けを求められるようになってはじめて、自立っていうんだよ。それができるようになるまでは、俺は絶対に祐樹から目を離してあげません!」  そう、腕を組んだおない年の春臣に偉そうに説教されても、いたしかたのないことなのだ。                    *  アパートは篠山の所有するもので、薄いブラウンの外壁に緑色の屋根が載った、落着いた雰囲気がする三階建てだ。おもに近所の大学に通う学生が住んでいて、春臣もそのうちのひとりだった。  若い男性への部屋の貸しだしは、部屋が傷みやすいだけでなく破損されることも多い。そのうえルームシェアとなれば家賃滞納のリスクも高いのだが、篠山はその供給の少なさに目をつけて、ここをあえて男子学生専門のアパートにしているらしい。  ただし住居人同士のトラブルや家賃滞納などの問題を最低限に減らすために、管理人を住まわせ目を行き届かせているそうで、「俺がその管理人をやっているんだ」と、春臣が教えてくれた。  篠山と春臣の関係が友人というだけではなく、雇用者と被用者でもあったんだとはじめて知り、とても驚いた。  春臣には少し前まで自分の代理でバイトに行ってもらっていたが、それ以外で彼が働いている様子などまったくなかったのだ。それでいてひとり暮らしをし、お金だって出し惜しみせずにばんばん使う。  神野はてっきり彼の実家が裕福だなのだろうと思いこんでいたのだが、蓋を開けてみれば春臣には管理人としての安定した収入があって、しかも贅沢な独り暮らしをしていたわけではなく、ただ職場に住みこみで働いていたというわけだ。  アパートから駅までは歩いて行ける距離で、青梅線を使えば一時間もかけずに職場に行くことができる。それなのにいまも春臣の送り迎えはつづいていて、神野は満員電車に揺られることなく通勤できるお陰でとても楽をさせてもらっている。仕事も順調だ。休日には意外に忙しい春臣の管理人の仕事を手伝ったりもして、あっという間に日々は過ぎていった。  睡眠の量も食事のバランスも春臣にしっかり監督されている。その過保護ぶりに首を傾げてしまうこともあるのだが、お陰さまで神野はここ数年で一番元気で、そして充実した毎日を送ることができていた。  ずっと興味のあった中国語の勉強に手をつけられるようになったこともうれしい。  春臣に誘ってもらって遊びに出かけることも、楽しみのひとつになっていた。ちゃんと眠れて食べられて、自分はいま幸せなんだと思う。  このアパートは年頃の男子学生が少々やんちゃをして破損させたとしても、充分に原状回復できるように、敷金の設定が高めになっているそうだ。それでもその金額は正社員雇用で働いている神野に出せない金額ではない。  学生だけでなく男であれば社会人でも住めるそうなので、来春、もしどこかの部屋に空きができるのであれば、自分に貸してもらえないか相談してみるつもりだ。  経験上、職場に近いアパートに住んだほうが、身体が楽なことはわかっていたが、篠山たちにこれだけ頼ることを覚えてしまった今となっては、神野は独りでいることに多少なりとも不安を覚えるようになっていた。   アパートに住むようになってからも、篠山のマンションで食事をとることは多かった。  ひさしぶりに篠山に会ったときはとても緊張してしまったのだが、それでも彼がいままでと変わらない態度でいてくれたので、次第に肩の力を抜くことができるようになっていた。遼太郎とだって普通に接することができている。  篠山と遼太郎のことであんなに動揺してしまったことが、まるで勘違いだったのかと思えてくるくらいだ。鬱から抜け出したばかりの自分だ、きっとまだ精神が安定していなかったせいなんだろうと――。  しかし、それは明るいリビングで、みんなと賑やかに過ごすひとときにおいての錯覚であり、アパートに戻って部屋でひとりきりになってしまうと、途端にそうでなかったんだと思い知る。  すぐに溶解してなくなるだろうと甘く見ていた棘は、いまもじわりじわりと神野を蝕みつづけていた。しかもその棘は、いつのまにか陰湿で妬ましげなものへと、姿を変えていた。  胸の奥でその存在を主張する悪因とは、いつかきちんと向きあって自ら消しさらなくてはいけないものなのだろう。  マンションを出てから、神野はたびたび篠山のことを考えているようになっていた。  とくに夜シーツのうえに横たわると、彼といっしょに眠っていたことを思いだしてしまう。  男ふたり寝るには狭いベッドの中で、春臣と触れることがあれば篠山の肉体を、春臣の体温を感じたときには篠山の温もりを思いだし、神野はせつなく胸を疼かせていた。  自分がいなくなったあの部屋で、彼はいったいどうしているのだろう。少しは物寂しさを感じたりしているのだろうか。それとも自分が出ていったことでようやく羽を伸ばせたと喜んで、夜には遊びに出かけたりしているのだろうか。  ともすると、誰かをあの部屋に呼んでいる可能性だってあると考える。また遼太郎を抱いているのかもしれない。  神野は篠山が恋人と過ごす時間がどんなものだろうかと、想像するようになった。それで胸にちくりと痛みが走ったとしても、そんなものは慢性化している疼痛にすぐに紛れてしまう。  篠山にとって神野といっしょにいる時間は、あくまでも危うい自分を見張るためであったのだが、例えば恋人と過ごす時間の十分の一くらいは、自分がいて楽しいと感じてくれていたことはあったのだろうか。  そんな詮無いことに想いを巡らせながら、眠りに落ちていく。  神野はこのアパートに来てから、悪い夢に目を覚ますことが多くなった。自分が逃げだしてきたあの部屋に、篠山に、こうやって未練を残していることがどういうことなのか、気づかないふりをつづけるのも、そろそろ限界のようだ。                   * 「篠山さんは、その、頼りがいがありすぎるので、私はついつい甘えてしまうんです。それではいつまでもあなたに迷惑をかけつづけてしまいますので……」  これ以上は迷惑をかけられないと、思いつめた表情をして神野は云った。  放埓に抱いた翌日、彼はこの部屋を出ていったのだ。あの時篠山は彼の帰宅が遅いのをいいことに、遼太郎と部屋に籠ってセックスをしていた。  まるでそれに気づいたかのようなタイミングでここを出ていった神野が、数日後、自分を訪れてきてそう告げたとしてもそれは建てまえにしか聞こえなかった。  もともと神野の凛とした顔つきは他者に心を開かない雰囲気を持っている。男にしては白い顔に細い顎、そして頭のさきから背筋にかけてのしなるような緊張をもった美しい背筋。それらは彼を上品に、また儚げにも見せていた。  篠山は神野をはじめて見たときに、喪服の似合う未亡人をイメージしたことを覚えている。  触れれば簡単に崩れ落ちそうなのに、なにせ彼はひとを寄せつけさせない特殊ななにかを持っているのだ。そして彼はここを出ると告げに来たとき、篠山に自分の云いぶんを跳ねつけさせないだけのそれを発揮させていた。  あんなにも厳しい面持ちで目のまえに立たれてしまえば、とてもじゃないが触れ難く、かけるべき言葉まで呑みこまざるを得なかった。 (いままでなら、あいつの強情なんて気にならなかったのにな……)

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