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第27話

 あの白浜の断崖絶壁で彼の手から白い錠剤を奪い取り、強引に東京に連れ帰ったくらいだ。自分には彼の頑なさへの免疫がついている。しかしだ。 (なんかいつもとちがって、怖かったんだよな……)  神野の意思の強そうな双眸の奥に、とり残された(おき)のようなものを見た。その瞳に腰が引けて強引に踏みこんでいけなかったのは、彼のせいだったのか、それとも自分に欠片でも卑屈な気持ちがあったからなのだろうか。 「……そっか、わかった。お前にとっては春臣のほうが歳が近いぶん、気が楽でいいかもしれないな。でもまぁ、無理はしないで、なんかあったらちゃんと俺に云えよ? 俺のほうが年上なんだし、頼ってくれたらうれしい」  本当はすぐにでもここに帰ってこいと云いたかったが、切羽詰まった様子の神野のために、篠山は彼の心が楽になりそうな言葉を選んでいた。  背中に嫌な汗が伝ったのは、決して遼太郎とのことが疚しかったからではないはずだ。  それに無理にここに留まらせたとしても、いま篠山には彼の不安を取り除き安らぎを与えてやれるという自信がなかった。  強く出られなかった自分がもどかしい。それでも神野が春臣のところにさえいるのならば、まだ安心できたし、影ながら見守ってやることだってできる。  挽回するチャンスはまだあるのだと自分に云い聞かせた篠山は、ふと、自分が必要以上に彼に執着していることに気づき、いよいよ自分のお節介な性分に苦笑いを零したのだ。 「神野がお前んとこに行って、もう三週間になるか?」  遼太郎と時間差でとった昼休み、春臣が買ってきてくれた弁当を食べ終えた篠山は、ソファーに移ってたばこに火をつけた。 「それぐらいになるんじゃないの? 匡彦さん俺にも一本。俺のたばこ、末広さんが持って行っちゃった」  末広は女だてらにヘビースモーカーで、一日一箱までに決めていると宣言しつつ、その一箱を吸いきるたびに周りの者からたばこをせしめていく。  十も歳の離れた春臣によくもまぁしょっちゅうたかれるものだと呆れながら、篠山はサイドボードから取りだした未開封の箱をひとつ彼に渡してやった。 「ありがと」 「いや、こちらこそ、悪いな。わさわざ拝島から呼び戻して。今夜は降るみたいだから、戻るときはバイクはやめて車にしとけよ」 「はいよ」 (それにしても、後悔さきに立たずだな…‥)  どう考えても、神野が出ていくと云いだした原因は、自分がほかの男とセックスしていたのがバレたせいだろう。それ以外に思いあたる節がない。  せっかく落着いてきた神野にいらぬ動揺を与え、気遣いまでさせた自分の下半身のだらしなさに痛んでくる頭を押さえながら、ふぅと煙を吐きだした。 (いや、下半身の問題ってより、俺が遼太郎に甘いのが問題か?)  とにかくあの日は遼太郎の虫の居所が非常に悪く、タイムカードを押すや否や休憩室に引きずりこまれた篠山は、まんまと彼に乗られてしまったのだ。  遼太郎にはいまいい感じの相手がいると春臣に教えてもらっていたが、どうやらその男とはソッチ方面がうまくいっていないらしい。計算高いところのある彼は、おそらく自分のことを当て馬にでもするつもりだったのだろう。  遼太郎とはつきあってはいたが、当初から恋人としての相性の不一致には気づいていた。それでも関係が数年つづいたのは、ただただセックスのほうの相性がよかったからだ。  そんな相手にベッドに押し倒されて断る理由がないのならば、男ならふつうは応じてしまう。 「なんでお前らが帰ってきたことに、気づかなかったんかなぁ……」 「今さらなこと訊くね」  立ったままの春臣は天井に目をやると、ぷかりとたばこの煙を吐いた。 「……。いや、実は、邪魔しちゃ悪いと思ったんで。あんとき、そーっと家の中に入ったんだよ」 「お前なぁっ!」  遼太郎が客室にあるシャワーを使っているあいだに、のうのうと咥えたばこでリビングに戻った篠山は、春臣の残した書置きに気づいて、ぽろりと口からたばこを落としてしまった。とっさに手で受け止めて、「あちっ!」と飛びあがった自分に、うしろからやって来た遼太郎は「なにやってんの?」と目を丸くしていた。  『今日、祐樹は俺んとこに泊めます』と書かれただけの文面に、篠山はそれはもう心不全をおこすかというくらいに動揺したのだ。 「しまった」と蒼くなって、さまざまな云い訳と算段を脳内に過らせた。それはまるで嫁に浮気が見つかったときの亭主のようで、そんな自分に気づいた篠山は、いや、いや、いや……、いったいなにを考えた、俺は……と、即座にそれを否定した。生真面目で潔癖な嫌いのある神野に、色狂いだと侮蔑されたくないだけだと――。  焦燥感に駆られてすぐに春臣に送ったショートメールを、「わかった」のひとことだけにしておいたのは、混乱した頭のままでは、春臣に余計なことまで云ってしまいそうだったからだ。  あれだけ神野のことを慎重に見守ってきたというのに下手を打ってしまった。 (まぁ、どっちみち、あいつのことはちゃんとしてはやれるんだけど……)  神野にはこれからも金銭的なことは遼太郎を、生活に関しては春臣を通じてサポートはいくらでもしてやるつもりでいるが、本当なら自分の手でフォローしてきちんと独り立ちさせてやりたかったというのに――。  じかに彼の顔を見ながらそれをしてやることができなくなってしまいそうなこの状況が、悔やまれてしかたない。なにかをしてやったときの彼のはにかむ顔や、不満に眉を寄せる姿を思い浮かべた篠山は、逃したそのチャンスに苦々しい気分でたばこのフィルターを咬んだ。   このさき、もちろん神野に関しては結果オーライであろうが、その工程にいささか不満が生じてしまったのだ。 「お前、どうせ相手が遼太郎だって気づいてたんだろ? だったら、こっそりノックでもして知らせてくれよ。水くさい」 「ごめんって。俺だってまさか祐樹があんなに動揺するとか、思わなかったんだもん。なんか痴情のもつれみたいになっちゃうとか?」 「勘弁してよ……」  たばこを灰皿に押しつけると、妬ましい気持ちで春臣を見あげた。  神野が春臣のもとへ行ったというより、春臣のもとに逃げられてしまったという気持ちが大きいのだ。不満のひとことふたことを春臣にぶつけてしまってもしかたない。 「店に行くって云うから、てっきり遅くなると思っていたのに」 「祐樹をあんなとこに、長居させるわけがないでしょうが」  騙されたとぼやいた篠山は、たちまちに云い返され臍を噛む。  一見、ちゃらんぽらんな学生に見えなくもないのに、春臣はほんとにしっかりしている。  彼には神野の職場の送迎を頼んでいるが、その合間には国立(くにたち)にある大学と拝島の職場を日になんどか往復して授業もそこそこ出席しているようだったし、アパートの管理人として任せてある仕事も期待していた以上にこなしてくれている。今日こうやって昼にここへ顔を出しているのも、彼に任せている仕事の件でだ。  そして篠山がいつまでも根に持って春臣に文句を零してしまうのとおなじように、春臣にもまた自分にたいする愚痴が、多分にあった。 「そりゃあ、同居人に気も遣わずに平気で別の男連れこんで、家でずごばこヤってるだらしない家主とは、祐樹もいっしょに住んでいられないでしょうが」  確かにそうだろう。ついこのあいだまで童貞だった奥手の神野には、相当刺激が強かったに違いない。でもそれだけではないこともわかっている。  あれが彼の留守を狙ったようなタイミングだったことが、神野に自分のせいでこの二ヶ月のあいだ篠山に不自由を強いていたと勘違いさせたのだろう。篠山のプライベートに気兼ねして、生来遠慮がちな彼があんな云いかたをして出ていってもおかしくはない。  但しだ。そこまではなんとなく想像がついた篠山だが、先日春臣に聞かされた、神野がいもしないその恋人とやらを、春臣だと思いこんでいたという話にはびっくりさせられている。 「なぁ、相手が遼太郎って気づいたかな?」 「さぁね」  この質問はなんどかしているのだが、そのたびに春臣は答えをはぐらかす。  「あぁ。かっこいい大人だと思われていたかった……」 「そりゃこっちのセリフだよ! まったく鈍くさいっ! なにやっているんだよ、ふたりとも!」   がくっと首を垂らすと、灰皿にぐいとたばこを押しつけた春臣に負けじと叫び返された。  春臣は自分と篠山が恋人同士だという神野の誤解を解くために、自分たちの関係、――過去セフレであったことを教えたそうだが、つまりは神野に隠しておきたかった自身の貞操観念の低さを、露呈させたということになる。  神野にはやたらいい顔している春臣にとってそれは本意であるはずがなく、お冠りな彼に篠山はこの間から顔をあわせるたびに、ちくちくちくちくと嫌味を云われつづけていた。

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