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第28話

「まったく俺になんてこと白状させるんだよ。はぁ、もうっ。祐樹にはさわやかな好青年だと思われていたかったのにっ」   どうせ神野があてずっぽうで云っていることだ。事実自分たちは恋人関係になったことなど一度もない。だからなにも春臣が自分たちに関係があったことまで神野に暴露する必要はなく、ただ彼には勘違いだと云って押しきればよかったんじゃないかと、篠山は思った。  しかしそれを云ったら「ひとつでも隠しごとが混じっていることがバレたら、ほかのすべても疑われることになるんだぞ」と叱責されたのだ。  春臣としては神野を慰めるために手段を選んでいられなかったらしいのだが、こちらとしても彼と同様、神野からの信頼は失墜だ。 「とんだ飛び火だよ。俺の株、だだ下がり」 「悪かったって。あの日はちょっと遼太郎がイライラしててさ」 「なに? 遼太郎くん、そんなに拗らしてるの? でもだからってこっちに迷惑かけられてもね。まったく……。こりゃ遼太郎くんもおしおきだな」 「やめてやってくれ……」  春臣のサドっ気をよく知っている篠山は、それだけは勘弁してやってくれと春臣に嘆願し、「あいかわらず遼太郎くんに甘すぎる」と怒られる。 「まぁ、俺の株は下がっちゃったんだけどね。賢明にも俺、匡彦さんの足をひっぱる言動はしてないから、ありがたく思ってね」 「助かります」 「祐樹がまた変な方向に思いこまないように、自分の身のまわりのことはちゃんと考えて行動してよ?」 「わかったよ。ありがとうな」  文句を云いつつも、ちゃんとこちらを(おもんぱ)って動いてくれる彼に感謝の言葉を述べるとその話はおしまいにして、篠山は忘れないように訊いておきたかったことを口にした。 「ところであいつ、ちゃんと寝てるか?」  神野は心理的なストレスのせいか不摂生が祟ってか、まれに眠れなくなることがあるのだ。おそらくそれは彼にとっては慢性的なもので、彼が持っていた睡眠薬だってそれが理由で家に置いてあったものなんだろう。 「布団にははやくから入っているよ。でも眠れているかどうかまでは知らない」 「ときたま部屋にいって、見てやってくれよ」 「見にいくもなにも、俺のベッドでいっしょに寝てるけどさ、俺のほうがさきに寝ちゃうから無理だわ」 「いっしょに寝てるのかよ……」  鼻白んだ篠山は、神野の貞操が心配になる。 「仕事は? 人間関係ちゃんとやれているのか?」 「俺が見ている限りは、日に日に良くなっているような……。職場のひとたちが祐樹と話やすくなったって云っているのは確かだよ。俺ってホントいい(かすがい)」 「だったらいいけど、……専務の甥ってのは?」  篠山が春臣に神野の送迎や職場での様子を見てもらっているのは、なにもふたたび彼が自殺しようとしないかという心配でだけではなかった。  実は神野の職場には、彼にたいしてよからぬ考えをもっている男がいるそうなのだ。これについては神野本人はまだ知らない話だが、春臣が職場への送迎をはじめた初日に、彼の同僚から忠告を受けて帰ってきている。   その同僚曰く、神野は二、三年前から専務の甥っ子に懸想されているそうで、そうとうのセクハラとパワハラを受けているらしい。おそらくそんなちいさな摩擦も長い時間をかけて、彼の精神を煩わせていくひとつの原因になっていたのだろう。 「あの甥っ子は、最近姿を現してないよ。卒論で忙しいんじゃない?」 「だったらいいけど。あぁ。じゃあさ。親のほうはどうなんだ? あれからあいつの親、なにも云ってきてないか?」  時計を見てから、篠山は新しいたばこを取りだした。吸い口を指ではじきながら、家を出る準備をしはじめた春臣に、ほかにもなにか訊いておくことはなかったかと考える。するとジャンバーの袖口に腕を通した春臣が、動作を止めて冷たく見下ろしてきた。 「…………匡彦さん、ちょっと祐樹に過保護すぎない? 遼太郎くんのときで凝りてないの?」 「そんなんじゃない。そもそも遼太郎と神野はぜんぜん違うだろ? あいつは自分自身に鈍いから。また気づかないうちに無理して、許容範囲越えたらだめだろうが」 「まぁね。祐樹はホント生真面目だからね。頑固でまったく融通が利かない。わかってるよ。ちゃんとストレス溜めないように遊びに連れだしているし、できるだけ話しも聞いてあげてる」 「遊びにって、どこにだ? お前とはタイプが違うんだから、むちゃな遊びを教えるなよ?」 「はぁっ」  上着を着、鞄を背負った春臣にいよいよ呆れた目を向けられ、これみよがしの溜息をつかれた篠山はたじろいだ。 「……な、なんだよ」 「いぃいえぇ。なんでもないですぅ。もう、おれ拝島に戻るよ?」 「見積もりもちゃんと渡したし、じゃあまたね」と云って踵を返した春臣を、篠山は「あぁ、ちょっと待て」と呼びとめた。 「これ」  春臣に用意していた万札を一枚、握らせる。 「なに? このお金」 「あいつ、あんまり食べないだろ? 肉とかカロリー高いもんしっかり食べさせてやって。……て、なんだよ、春臣、その目」  渡した紙幣をぴらりと指で閃かせた春臣に、半眼で見つめられて顎をひく。 「……まぁ、いいけどね」  フンッと荒い息を吐きつつ、それでも金を財布にしまってくれた春臣は、リビングで見送る篠山に背を向けると手を振りながら玄関へと消えていった。「はぁ、ホント、甘々だねぇ!」という聞こえよがしを残して。 「そんなんじゃない」  篠山はひとりになったリビングで、そう呟やくと、ソファーに座りなおした。  少しまえ篠山が近藤の結婚話に憂鬱になったとき、その煩わしい気分も十一月にはいりさえすれば、忙しさでどうにかなるのにと、思ったものだ。  それだけ税理士の仕事は十一月からが激務なのだが、あの時は繁忙期などまつ必要もなく、たった一度神野を好きに抱いただけで、すっかり苛立ちは消え失せていた。  ところが皮肉なことにその繁忙期のまっただ中、仕事のせいだけではなく篠山は神野のことが気がかりで疲労困憊気味だった。  出ていくと云うのならば、もっと暇な時期にして欲しかった。だったらいったん春臣のところに行かせたあと、いくらでも尽くす手を考えて、二、三日もあればうまく云いくるめてここに連れ戻せていたのだ。   それがだ、いまは忙しくてそれができないでいる。彼ときちんと向きあって話あう時間も、余力もないのだ。 (皮肉なもんだな。今となっては一瞬でも繁忙期を待ち望んでしまったあの時の自分が憎らしい)  自分で命を絶とうとするほどに追い詰められた神野と出会ったのは九月のことだ。それからずっと、彼が持て余していた苦痛をとり除いてやろうとしてきた。  それなのにやっと彼が落ち着きを見せてきたこの大切な時期に、彼を動揺させ神経を過敏にするようなことを、自らしでかしてしまったのだ。彼はいまごろ調子を崩しやすくなっているに違いない。  ここにきてひとつであった彼の問題を、軽率な行動でふたつに増やしてしまった自分を呪いたい。  もしもこのタイミングで、しかも自分の目の届かないところで、彼にトラブルが起きたりでもしたらと考えると、気が気じゃなかった。かといって神野がいまこの家にいたとしても、仕事で忙しい自分は彼になにかあっても、すぐに気づいてやれそうにないのだ。  だからいまだけは身動きが取れない自分といるより、彼は春臣といたほうが無難なのだ。  神野に出ていかれたことにいつまでも納得できないでいた篠山は、なんどもそう自分に云い聞かせていた。 「ほんと、失敗したな。くそっ」  時刻を確認すると僅かに休憩時間を過ぎていた。そろそろ遼太郎がひとりがんばっている職場に戻ってやらないといけない。  篠山は最後の紫煙を吐くと、灰皿にたばこを押しつける。その灰皿の中に転がる無数の吸い殻にやたらと咬み痕がついていることに気づくと、顔を顰めて舌を打った。                   *  誰とでも気さくにつきあえる春臣は、学校でも友人が多いようで、アパートには彼の友人が頻繁に訪れる。神野はここにきてから、年の近いひとたちとたくさん知りあうようになった。

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