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第29話

 春臣は彼らに出席しそびれた講義の代返を頼んだり、ノートを借りたりしているそうだが、そうかといって借りばかり作っているわけでもなく、ときには彼らの課題の手伝いや頼まれごとも引き受けていた。恋の相談なんかもあったりする。青春だ。  そしてこのアパートには帰宅し損ねた友人が泊っていくこともたびたびで、今夜もふたりが風呂を済ませたころになって、池田という男がやってきた。 「いつも悪いねぇ。はいこれ、お土産」 「やったね、祐樹。ビールゲット。飲も、飲も」  池田はひとり掛けソファーにちまっと納まっておとなしくしている神野にも、親しげに話しかけてくれる。 「祐樹くん、ひさしぶり。元気してた?」 「はい。この間はありがとうございました」 「いえいえいえ。また困ったことがあったら声かけてね。手さえ空いていればいくらでも協力できるから」 「はい」  先日春臣にも遼太郎にも用事があって、どうしても迎えに来てもらえない日があった。その時に代打で会社に来てくれたのが彼だ。  なにもそこまでして送迎などしてくれなくても電車で帰ればいいだけの話なのだが、春臣は相変わらず意見を曲げてはくれない。  池田は神野がストーカーに狙われているという春臣の作り話を鵜呑みにしていて、本心から心配してくれていた。  神野としては後ろめたい気持ちもあったが、ストーカー云々が嘘であることを彼に告げてしまうと春臣の信用を損ねることになってしまうのでそれもできず、池田が心配してかけてくれる思いやりのある言葉に、毎度複雑な心境にさせられているのだ。 「あれ? 祐樹くんちょっと太った? まえ会ったときは、もっと顎とんがっていたよね。顔色もよくなったみたいだし」 「ですかね? だったらよかったです」 「その調子でもうちょっと太れるといいね。んじゃ、俺、風呂入ってくるわ。袋んなか、つまみもあるからさきにやっといて」 「うわっ」  池田よりも十センチは背の低い自分の頭は、彼にとってちょうどいい高さにあるようで、彼は気軽にくしゃくしゃと髪をかきまぜるとさっさと脱衣所へと消えていった。 「サンキュー。って、うは。祐樹、頭ぐちゃぐちゃ……」 ちなみに池田以外にも神野の送迎に協力してくれたひとは数人いて、そのなかは聞いていた春臣のセフレとやらもいた。無事に神野をアパートまで送り届けてくれたその男と春臣が、玄関で濃厚なキスをするのをみて、神野はその場で見事に凍りついてしまったことがある。 「なに? 祐樹もしてほしいの?」とちゃめっけたっぷりに春臣に問われて、首を千切れんばかりに左右に振ったことはまだ記憶に新しい。    春臣と同居していてほかに知ったことは、彼には友人だけでなくセフレもたくさんいたという、とんでもない事実だった。  べつに春臣は連れてきた相手を、彼は単なる友人だとか彼はセフレだなどと、いちいち紹介しはしない。春臣が誰かと部屋でことに及んでいて、それでその相手がそうなんだと知るわけでもない。  けれどもその手のお相手との過ごしかたは、一般の友人とのときと微妙に空気が違ったので神野にも勘づくことができた。  例えばさりげなく手を振れあわせたりだとか、話すときの顔の位置が近かったりだとかだ。そういうシーンを見てしまうと、自分の心臓はぴょこんと跳ねてしまう。  アパートやバーで出会う春臣のセフレは、ひとりやふたりだけではなく、三人、四人、五人……といて。指を折って数えているうちに、篠山と春臣は本当に恋人同士ではなかったんだと、やっと心に落ちてきた。  それまでずっと春臣の云うことを疑っていたのだ。春臣の云う、自分が頑固者だということを認めなければいけないのかもしれないと思いつつ、反省した神野はこのあいだ彼に頭を下げたばかりだった。 「いまごろなの⁉ ってか、あんだけ違うって説明してあげたのに、そのあともずっと疑ってたの⁉ 今日まで? ずっと⁉」  素っ頓狂な声をあげた春臣に自分の疎さを恥じた神野が、うっすら目もとを染めて頷くと、彼は苦笑しながらも許してくれた。  神野は最近になって学校で自分がうまく打ち解けられなかった理由に思い至った。自分の性格も多分に問題があったのだろうが、当時はそれに加えて周りもまだ経験値の少ない十代の子どもだったのだと。  彼らがあと数年して生活環境や文化の違う多くのひとと出逢い成長していくと、いま神野が巡りあっている素敵なひとたちになるのだろう。  そして数年前、狭い校舎で三年という短い時間をともに過ごした彼らは、いまごろは神野のような不器用な誰かに、手を差し伸べることができるようになっているのかもしれない。成長しているのは彼らだけではない。挫折を知ったばかりの神野もまた、ひとに頼るということを覚えた。  寝られなくても、食べられなくても、自分はなんとかなっている、ひとりでどうとでもできる――。そう思っていたことが実は思いあがりだったということに、ようやく気づくことができたのだ。  自分がなにもかも打ち捨て、あの空虚なアパートをあてもなく出るはめになった原因は、自分の能力のせいでなく頑な性分にあった。  もうあんなつらい思いは二度とごめんだと思うし、あの日、死のうとした自分を止めてくれ、手首を掴んでここまで引っ張ってきてくれた篠山の恩に報いるためにも、これまでと違う意味で謙虚に生きていこうと思う。自分が正しいと思っていた生きかたで絶望を見るほどの失敗した、だから新しい生きかたを模索するのだ。  「自分でできるのだから」「もっとしっかりしなければ」「甘えていてはいけない」、もうそんな言葉ばかりを、自身に向けるのはやめにする。  いまはこれだけ篠山や春臣、そして遼太郎に頼っていて、ときには初対面のひとにも助けてもらっている。勇気をだして素直に周囲の好意を受けとり、なんのお返しもできていないぶん、常に感謝だけはしているが、しばらくは慣れないその状況にも甘んじてみるつもりだ。  もちろん、いつかはしてもらったぶんだけ相手に返していけたらいいと思っている。  このやり方がうまくいったならば、それが自分の新しい生きかたになるのかもしれない。そうしたら自分にも友だちができるだろうか。 (少しは上手くやれているのかな? それともまだできていないんだろうか……)  時折立ち止まり、指を顎にあてて考える。 「はやくひとに頼るだけでなくて、自分も困っているひとを助けられるような人間になりたいです」  そう春臣に云うと、彼はちょっと困ったような顔をして笑ったのだ。 「祐樹は、いままでも困っているひとを助けてきたんだし、これからも助けてあげられるよ。ただ、もっと正しくひとに頼るってことをしないとね」 「……?」  彼の友人たちと比べると、春臣はやはりちょっと違っていて。  彼の思考や言動には確かに光るものがあり、神野には彼の言葉を決してないがしろにしてはいけないのだと思えた。しかし彼の云うことが、うまく呑み込こめないこともある。                       *  それでも神野の精進の成果は出ていたらしく、十二月に入ってしばらくすると春臣がつきっきりという状況もへってきていた。  風呂にもひとりで入れるし、空いていた部屋も明け渡してもらえ、彼とは別々のベッドで眠るようになった。但し、部屋へのスマホの持ちこみが、禁止になってしまったのだが……。  神野に母からの連絡があったのはつい数日前のことで、それはまるで給料日を狙ったかのようなタイミングだった。  着信音に気づいてスマホを手にとった神野は、ディスプレイに母の名まえを見た途端、息ができなくなってしまったのだ。  その前も母とは電話でひと悶着していたが、それはすでに終わった話であり、もうそんなことは気にしていないつもりだった。それなのにこのとき吐いてしまった神野は、自分の身に起きた母にたいする拒絶反応に絶句してしまった。  介抱してくれた春臣までが顔を蒼白にしてしまい、それからというもの、神野のスマホは彼の監視のもとにある。  そんな神野は、日々、春臣に「くれぐれもこの部屋を事故物件にだけはしないでくれ」と口酸っぱく云われる始末だ。  春臣が出かけるときには、神野は必ず篠山のマンションに預けられていた。まるでひとりで留守番ができない幼児のような扱いで情けなかったが、いろいろな前科持ちとしては黙って預けられるしかない。  この週末の夜、篠山の家に置いていかれた神野は、ダイニングテーブルで中国語のテキストを広げておとなしく座っていた。

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