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第30話
一見まじめに勉強をしているように見えていても、その実イヤホンから流れる中国語なんて頭に全く入ってこず、もうずいぶん長い時間、ソファーに座っている遼太郎をこっそり盗み見てばかりだった。
篠山は風呂に入っていて、彼が入浴を済ませるまでのあいだ頼まれた遼太郎がこうして自分といっしょにいてくれているのだが……。しかし実際のところを考えてみると、これも怪しい話だと思って、こうしてずっと遼太郎に疑惑の目を向けている。
神野は彼らが毎晩いっしょに過ごしているのではないかと、疑っていた。
(むしろ遼太郎さんは、もうここに住んでいるんじゃないの? ちゃんとアパートに帰ってきているのか、すごくあやしい)
身体の関係があるこのふたりがおなじ職場で働いていて、しかもそれが住居であったりするのならば、退勤後そのまま毎夜ともに過ごしていたとしてもおかしくない。むしろそのほうが自然だ。
自分がここを出てからもうひと月になろうとしているが、そのあいだ、遼太郎がどれだけここで篠山と夕食をともにし、そして泊っていくことがあったのだろうと考えると、神野はやるせなくなる。きゅっと唇を咬んだ。
遼太郎とふたりきりにされると、こんなよくない想像しかできない。
神野がはじめてこの家に連れて来られた日、自分たちがここに辿りつくよりもさきに、遼太郎はこの部屋にきて待っていた。
彼はここの鍵だって持っているのだ。もしかしたら、ここに住んでいたことがあるのかもしれない。
(春臣くんじゃなくて、遼太郎さんが篠山さんの恋人だったのかぁ……)
自分の想い違いに、未だ顔が赤くなる。そういえばはじめに遼太郎にあったとき、彼は篠山の頬にキスしていたじゃないかと、やっと曖昧だったあの時の記憶が鮮明になった。
ふたりの生活を想像してみた神野は、数えきれないくらいになんども思いだした彼らの情交を、いまもまた脳裡に蘇らせてしまう。
ちらりと視線をずらせば隣室のベッドが視界にはいる。
篠山の唇は肉厚で、耳に触れる感触はとても柔らかだ。親が子にするようなキスを耳のうしろにひとつ落とされて、それだけで安心して眠りについた日が愛おしい。ふた月半、神野が篠山と眠ったこのベッドのうえでも、きっと遼太郎は彼にたくさん抱かれているはずだ。
ここに住んでいた僅かなあいだ、あのベッドは確かに神野に安らぎを与えてくれていたというのに、いまとなってはそれも誤想だった気さえする。
ベッドのうえ、篠山に体中を啄まれ気持ちよさそうにする遼太郎の姿を想像して焼けつくような痛みを感じた神野は、胸を抑えて小さく呻いた。
神野はふたたび、熱心に絵を描いている遼太郎に視線を戻した。
ソファーに深く座った彼は、片足を座面に上げて、折った膝のうえにクロッキー帳を載せている。いつものように黙々と鉛筆を走らせていたので、すっかり油断していた。
「……なに?」
ふいに顔を上げた遼太郎に問われて、慌てて目を逸らしたってもう遅い。神野は心臓を早鐘のように鳴らしながらしどろもどろに返事した。
「えっと……、いえ……、あの、別になにも……」
「云いたいことあるんじゃないの? さっきからずっと、お前の視線を感じてるんだけど?」
遼太郎にじっと見つめられたのは長い時間ではなく、彼はふいっとクロッキー帳に顔を戻すと、また紙のうえに鉛筆を滑らせはじめた。静かな部屋に彼の線をひく、さらさらという音が響く。
「……あの。その」
「なに?」
意思の強そうなあがりぎみの眉に、ややきつそうな目つき。そしていつでもつんとすましている遼太郎は、見ようによっては怒っているみたいだ。
それで普段から彼には話しかけにくいものを感じているのだが、「なに?」と訊かれ答えを待たれているのであれば、いい機会だ。神野は問わせてもらうことにした。
「遼太郎さんと篠山さんは、おつきあいをしているんですか?」
「…………つきあいって?」
遼太郎の眉間にちょっと皺が寄ったようにみえたのは、気のせいか。
「まぁ、ふつうにあるけど……。 同僚だし、部下だし――」
「えと、そっちのおつきあいではなくてですね。いまのは、おふたりは恋人関係なのですかって訊いたんです」
今度は頬が強張ったような気がする。
「…………なんでそういうこと訊くの?」
それでも彼の声はいつもどおりで、気分を害したようではない。
「私はちょっと鈍いみたいで、ずっと春臣くんと篠山さんがおつきあいをしていると思っていて……」
「そりゃ違うだろ?」
「はい。違ったんです。で、いらない遠慮をしてしまって、結果的に篠山さんのお手伝いがきちんとできなかったり、春臣くんを煩わせてしまったんです」
なによりも自分自身が精神的に打撃を受けていたのだが、それは彼には云わないでおく。
「…………少しのあいだだけ、つきあったことがある」
「遼太郎さんと篠山さん、このあいだこの家の中でセックスしていましたよね? だったら現在も恋人関係なんじゃないんですか?」
答えが過去形であったことに疑問を持ち、追及してみる。遼太郎は鉛筆を動かすのに忙しそうだ。それでもじっと見つめていると、彼はちゃんと答えてくれた。
「二、三年? つきあったのはほんとそれだけ。いまはもうあのひととはなんの関係もないから」
「でも――」
「このあいだのは、たまたまだよ」
「……遼太郎さんは、篠山さんのことが好きですか?」
鼓動はどんどんはやくなっていくのに、不思議なことに質問は淡々とできた。いっぽう頭の中では、それを訊いていったいなにになるのだろうか、と自分に問いかけている。自分には全く関係ないことなのに、と。
もしもこのタイミングで遼太郎に「なんでそういうことを訊くの?」と、さっきとおなじセリフを云われでもしたら、今度は返す言葉がなかっただろう。なんの心の準備のないままの質問は、発した神野にさえその意図が分からないのだから。彼の答え次第で自分がどういう気持ちになるのか、その予測すらもしていない。
手をとめた遼太郎が、やっと顔をあげてくれる。
「別にそんなんじゃないよ。お互いそんな本気じゃなかったし」
その言葉が本心からのものなのか、神野は真偽を見極めようと彼の濡れたように光る黒い瞳をじっと見た。
「……その時は一瞬だけ、あいつのこと好きかもとか思ったけど。そうでもないって、すぐに気づいた。本当にそういう、雰囲気とか、まったくなかったから」
(そんなのは嘘だ。だって抱きあっていたふたりは、とても親密で。そこにはちゃんと……)
そこで神野は二三度瞬いた遼太郎の、瞳を縁どる睫毛が意外に多いことに気づく。
今更だがよくよくみると、彼は男にしてはきれいな顔立ちをしていた。これなら同性から好意をよせられたとしてもおかしい話ではない。
きっと篠山は遼太郎の性格や能力だけでなく、彼のこのきれいな容姿にも魅かれたのではないだろうか。
だから彼は――と、神野がなにかしらの答えに行きあたろうとしたとき、遼太郎が口にしたつぎのセリフで、それはたちどころに霧散してしまった。そしてそれがふたたび神野の胸に起こされるのは、またしばらくさきのことになる。
「俺いま別にちゃんとした彼氏がいるから、もう匡彦とは寝ることないよ。だいたいあのひとにも、俺なんかじゃなくて、ほかに本命がいるんだし」
「えっ?」
「近藤さんっていって、匡彦さんが独立するまえにいた職場の同僚」
不意打ちで聞いた本命という言葉と、つづいた近藤の名まえに、頭の中が真っ白になった。
遼太郎は話にはさほど興味がないようで、そっけない口調で教えてくれたあとはさっさとクロッキー帳に意識を戻してしまう。だから彼は神野の動揺には気づきもしなかっただろう。神野はそれまでの勢いをすっかり潜め、口を閉ざした。
(近藤さん? って、あの?)
大阪のホテルで目が覚めたときに、部屋にいた男。自分に暖かいコーヒーを手渡してくれ、やさしい声をかけてくれた……。
――騙されたと思ってアイツを頼ってみ。
――俺の云うこと信じてみてほしい。
遼太郎の口からでた意外な人物の名まえに、記憶の中にあった男の穏やかな微笑みとやわらかい声が蘇る。
ソファーに座る遼太郎が膝のうえからクロッキー帳をおろして、手を添えた首をくるりとまわす。やっと面倒な質問から解放されて「ふぅ」と息を吐いていたが、神野がそれに気づくことはない。
「祐樹、コーヒー飲む?」
ざわつく心を鎮めようと呼吸に集中していた神野は、唇を咬んで俯き、抓みあげたイヤホンヘッドを無意識に転がしていた。
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