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第31話
遼太郎がキッチンに移動したのとおなじタイミングで、ガチャリとドアノブが鳴り、フロストガラスのはめこまれた扉が開く。
顔をあげると、そこには湯上りの湿り気を漂わせた篠山がたっていた。
「遼太郎、ありがとうな。もう大丈夫。帰っていいぞ」
「あぁ。うん。コレ飲んだら帰る。匡彦さんも、なんか飲む?」
一瞬彼と視線があってしまった神野は、慌ててイヤホンを両耳に詰めると、机のうえのテキストを眺めているふりをした。
ひさしぶりの篠山に心臓がドクドクと鳴りはじめ、はやくも平然ではいられない自分を自覚した。心持ち緊張しながらソファーへと移動する彼を、こっそり目で追う。
濡髪にタオルを被った篠山は、神野がここに住んでいたときとは違って、今夜はきちんとパジャマの上下を着ていた。
(そっか。寒くなったもんな。半裸で過ごすのはもう無理か)
九月頃の彼は湯上りにはしばらく上になにも着ず、下だけ穿いてリビングで過ごしていた。首にタオルをかけて、ビール缶にそまま口をつけていたことを思いだす。
彼がいま羽織っている濃紺のパジャマの下には、程よい厚みの滑らかな胸板や、毎晩酒を飲んでいるわりには引き締まった腹筋が隠れていて、それが若すぎる自分や春臣よりもいい具合に熟し、男の色気を醸しているのを知っている。
「んー? お前なに飲むの?」
「コーヒー」
「あー、じゃあ俺のもよろしく」
「ん」
髪をがしがし拭きながらソファーに腰かけた篠山が、ローテーブルに伏せてあった遼太郎のクロッキー帳を手にとった。そんななに気ない所作に、彼の遼太郎にたいする遠慮のなさを感じてしまい、そのことに苛つく。
(馬鹿らしい……。なんでこんなことで嫌な気持ちになる?)
彼の顔はクロッキー帳が邪魔をして見えなかったが、そのかわり彼からも自分のことは見えないだろう。神野は長い脚を組んで座る篠山の姿を見つめつづけた。
彼が紙を捲ると、パラリと音がたつ。
「あっ!」
ガチャッ!
遼太郎が声をあげたのと、陶器の割れたような音が部屋に響いたのは同時だ。
「やめろっ! 匡彦、見んな!」
びくっとした神野の視界のはしを、遼太郎が素早く横切っていった。
「返せっ!」
怒った遼太郎がソファーのうえの篠山にとびつく。彼がクロッキー帳を取りあげようとするのを、篠山はひょいと腕を伸ばして遠ざけた。
「なんだ? このぐるぐる」
なにが描かれているのか見当もつかないが、遼太郎から逃れながら帳面を見る篠山は不思議顔だ。
「うずしお? どこ地獄?」
「ばかっ、返せってば!」
「うわっ、イテテッ! こら、肘! 重いっ 遼太郎降りろっ!」
掲げあげたクロッキー帳をひったくろうとした遼太郎が、バランスをくずして篠山のうえに倒れると、篠山が「ぐぇっ」と悲鳴をあげた。
押し倒された彼の腹についた遼太郎の左手には、彼の体重がぜんぶ乗ってしまっている。確かにそれは痛そうだ。
「痛い痛い痛いっ!」
「じゃあ返せよっ! はやくっ! 匡彦が悪いんだろっ! 勝手に見んなって!」
遼太郎の指さきが、篠山が彼から遠ざけているクロッキー帳に触れそうで届かない。肩を押さえつけられている遼太郎はやっきになって、篠山の腹のうえで、ぐいぐい身体を跳ねあげて必死に手を伸ばしていた。
(いちゃいちゃしている……)
「珍しいもん描いてるから、ちょっと聞いただけだろ? そんな怒んなよ」
篠山は意地悪をするつもりはなかったようで、「なんだよ、いつもは見せてくれるくせに」と、痛めつけた横っ腹をさすりながら遼太郎にクロッキー帳を返した。そして「その、ラク、」と、云いかけたところで、遼太郎に口を塞がれていた。
(らく……? らく……だ?)
「いいから黙れ!」と一喝されて、篠山がそれに頷くのを確認した遼太郎は、それでやっと篠山の口を解放してやっていた。
「遼太郎のへんくつー」
「うるさいっ」
吐き捨てた遼太郎は珍しく顔を赤くしていて、篠山がそれに堪らないと云ったふうに笑いをかみ殺していた。
いままで遼太郎が「匡彦さん」と、彼をさんづけ呼んでいるところしか聞いたことがなかったが、ふたりきりのときには、呼び捨てがふつうだったようだ。
(あっ、違う。聞いたことがあった)
ベッドの中の遼太郎は篠山と口づけを交わしながら、なんども「匡彦」と口にしていたではないか。自分は本当に忘れっぽいな、と神野は睦まじい彼らを眺めながら自嘲した。
すると手を振りあげて怒る遼太郎を笑っていた篠山がふいにこちらを向いた。さきほどまでの賑やかしさはどこへやら、彼の表情がなんとも表現しがたいものになっていく。
神野はとっくに再生が終わっていたイヤホンを耳からはずすと、首を傾げて「なんですか?」と訊いてみた。
「い、いや、なんでもない」
まだ遼太郎の肘の刺さった腹が痛むのか、篠山の顔は引き攣り気味だ。そんな篠山を意に介することもなく、遼太郎はハンッと荒く息を吐くとクロッキー帳を小脇に抱えてキッチンへ戻ってきた。
彼が険しい顔でドリップのつづきをはじめると、じきにリビングに花のようなグァテマラ香りが広がってくる。全身に染みこんでくるその芳香に、脳や四肢の強張りが解けていくようだ。身体が求めているのか、その匂いをもっと感じたくなった神野は目を閉じるとくんくん、と香りを吸いこんだ。
すぐ近くでしたコトンという音にパチリと瞼をあげてみると、自分のまえにコーヒーの入ったカップが置かれている。少し驚いて、それから「ありがとうございます」と遼太郎に礼を述べた。その声が普段の声より数段低いことに、神野自身は気づいてはいない。
遼太郎はそのまま篠山のところに移動すると、ローテーブルのうえに手にしていたカップをタン! と雑に置き、「今日はもう帰る」と云って踵を返すと、その足でリビングを出ていってしまった。それはあっという間のことで、神野は彼に挨拶すらできなかった。
「あ、ああ、ありがとう。気をつけて帰れよ」
廊下まで遼太郎を追いかけて声をかける篠山の後ろ姿をぼんやり見つめていた神野は、結局、彼がコーヒーを飲まずに帰って行ったことに思い至った。
(遼太郎さん、もしかして、怒っていたのかな?)
戻ってきてソファーに座りなおす篠山も、遼太郎の機嫌に思うところがあったらしい。
「ふたりしていったいなんなんだ……?」
そう呟くと肩で息を吐く。
(え、ふたり? なんで? ふたりって、俺? なんで?)
いったいなんだ? と呟かれても、神野こそ篠山のセリフが意味不明で、いったいなんなの? という心境だ。神野は温かいカップを両手に包みながら、またもや細い首を傾げたのだ。
酸味のきついグァテマラは、神野にはそのままでは飲みにくい。それをわかってくれていた遼太郎は、ちゃんとカップの横に温めた牛乳も用意してくれている。彼の親切にほっこりしながら、甘い香りのミルクコーヒーを口に含む。
(おいしいな)
ふたたびイヤホンを耳につけてテキストに向かった。勉強に勤しんでいるように見える自分に、篠山が話しかけてくることはないだろう。
グァテマラの効果もあってかリラックスしながら、パソコンのディスプレイを熱心に眺めはじめた篠山を、こっそり盗み見る。
いまはもう、ここではせいぜい晩御飯をいっしょに食べるか、春臣のいないほんの数時間を過ごすかするぐらいだった。短い時間しか顔をあわせることのない篠山には、挨拶がわりのように体調を訊かれ、ちゃんとご飯を食べているか、寝ているのかといった心配をされるくらいしか会話がない。彼とはここに住んでいたときのような、その日あった出来事やなにげない話を、ずっとできていなかった。
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