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第32話
今晩ここに泊まるとなると、あと八時間は彼とおなじの空間にいることになる。
以前のような時間を期待してしまう自分が恥ずかしい。コーヒーをひとくち飲んで照れくさい気持ちをごまかした。
(会話のきっかけって、どんなふうにつくればいいんだろう)
そういえば今夜は自分からたくさん遼太郎に話しかけることができた。ちなみに遼太郎の帰りがけの不機嫌が、それに起因するとは神野にはわかっていない。
(篠山さんから、なにか話かけてくれないかな)
この家を出てきたときは気が動転していたので、彼にその理由をうまく説明することができなかった。自分の気持ちがわからないでいるところに、彼に詮索でもされると、きっとここを出られなくなると思った神野は、
――これ以上は迷惑をかけたくないから。
そう彼に云ったのだ。篠山を納得させるには深みの足りな云い訳だと思ったが、あの時はこれでどうにか通じますようにと、強く念じた。
その結果、願ったとおり彼に快諾を得ることができて、春臣の部屋に移り住むことになったのだが、果たして、その時の篠山の心の裡がどうであったのか――。
神野にはずっとそれが気になっている。
金策の都合がついたらもう用がないのだと、そんな自分本位で離れていったと誤解されてはいないだろうか。彼の心配や気配りを、自分が煩わしがったと勘違いされていないだろうか。
神野は自分が篠山のことを嫌って逃げたのだとだけは、彼に思っていて欲しくなかった。
春臣には篠山の顔が見られないと云って泣きついてしまったが、他にもうひとつ。神野がここを出ると決めた理由の根底には、ちゃんと篠山を想う気持ちもあったのだから。
我を通すだけであれば心情はなんであれ、ここでの篠山と誰かとの行為を拒絶する旨を、ちゃんと彼に伝えればいいだけだったのだ。自分がいるときにはこの家にひとを連れこまないで欲しいと。そしたら彼は神野を優先して禁欲するか、もしくは神野を追いだすかすればいいだけだったのだから。
でも神野がそうはしなかったのは、彼に一切の気を使わせたくはなかったからだ。
ここは篠山の家なのだ。彼には自分がいないときとおなじようにして自由にしていて欲しかったのだ。好きなひとがいるのなら、自分の目なんて盗んでいないで、そのひととここで自由に会えばいいのだから。
だから篠山と遼太郎のセックスを見たことは内緒にしたし、彼の顔を見ていて湧きあがってきた感情の欠片もぶつけはしなかった。
それで、ここにいたら甘えてしまうからという言葉だけで、この部屋を飛び出した。
(篠山さん、あの時どんな気持ちだったんだろう。まぁ、自分勝手なやつだとは思われているのかな。嫌われてなけばいいんだけど……)
もしもあの時いまぐらいに落着いていたら、もう少しまともな理由をつくって、体裁よくここを出ていけたのにと、今さらなことを思う。
せめて篠山が純粋にあのセリフを受けとめてくれていて、自分が居たときにできなかったことを、気負いなく満喫してくれていたらいいのだが。篠山はいま、ちゃんと羽を伸ばせているのだろうか。
(さすがに、恋人連れこんでうまくやれていますか? とは訊けないよな……)
この気がかりのせいもあって、神野は篠山に隔たりを感じてしまうようになっていた。
(ううう……。話かけづらいぃ)
今夜はやっぱりあのベッドでいっしょに寝るのだろうかと考えたり、彼と手を繋いで眠っていたことを思いだしたりして、ドキドキ、ドキドキもするのだけれども、そんなのはまた後で困ればいい。
それよりもなによりも、神野はたったいま、この瞬間を身の置き所がなくて困っているのだ。
(……沈黙がつらいぃ)
くたっと首を折った神野の両手に包まれたカップは、すっかり冷たくなっていた。
「もういいか?」
「うわっ、はいっ」
いつのまに仕事を終えたのか篠山が、神野のすぐ傍に立っていた。見下ろされ、トクンと心臓が跳ねあがる。
篠山の手が自分の持っていたコップの縁に触れていたことで、もういいか? がこのカップのことを云っているのだと気づいて、
「はい、もう飲み終わりました」
と、手を離す。
カップが篠山に持ち去られるさい、ふわっと彼の体温とたばこの匂いを感じて、肌が、さざ波が這うように甘く痺れた。
彼の指さきが、あと数センチさきの自分の手に触れなかったのは、あたりまえなんだろうが、そのことがとても残念に思えてならない。
そして気づいた。ああ、自分はこのひとに触ってもらいたいんだと。
これぐらいでドキドキしていて、自分はこのあと本当に彼とおなじベッドで眠れるのだろうか。心配になった神野は、明日の仕事に差し支えがありませんようにと、指を組んで祈ると、寝る準備をするために、中国語のテキストをぱたんと閉じた。
*
あれから篠山に促されどぎまぎしながらベッドに入った神野は、祈りが効いたのかここ最近でいちばん質の良い睡眠をとり、朝は爽快に目を覚ますことができた。
お陰で頭がすっきりとして、午前中に職場で作業につくまえに与えられた予定外の仕事も、さくさく捗った。
ちなみにそれは事務所で手書き図面の数値をCADに載せていく作業だった。平生からだが、特に座って行うひとり作業をしているときは、みんなに申し訳ないと思ってしまう。はやく終わらせて工場に戻ってみんなの作業に加わらなければと、作業中ずっと気が気でならないのだ。だからさっさと済ますことができてよかった。
そのあとも納品が重なって忙しく、あっという間に時間が過ぎていった。気づいたときには外は暗くなっていて、時刻をみれば残業に突入していた。
「神野くん、今日は覇気があって元気ね。いつもそれぐらいじゃなくっちゃ! 私よりもずいぶん若いんだから」
「えっ⁉」
製品の入った段ボールを運んでいた神野の腰を、すれ違いざまにバシンと叩いたのは、いっしょに荷運びをしていたアルバイトの督永さんだ。
ちょっかいをだした彼女を振り返ると、なんとフロアに残っていた段ボールをすべて持ち上げようとしていたところで、ぎょっ目を剥いた。ひと箱十五キロちかくある段ボールを一度に三箱だ。ちなみに神野が抱えて運べたのは一度に二箱で、健康的な筋肉のついた快活な彼女と比べて、自分のひょろひょろさにこっそり落ちこんだ。
「あなた、この間なんて、二十キロもないダン箱でふらふらしてたじゃない」
軽トラの荷台に段ボール箱を下ろしていると、あっという間に後ろから追いついてきた彼女も、神野の隣でドンと荷物を下ろす。はやっと彼女の仕事ぶりに驚きながらも、神野は弁明を口にした。
「あ、あれは‥‥…、その、ちょっと調子が悪い日でして……」
男の沽券にかかわると云い訳をはじめるも、よくよく考えるとおなじ男にあらぬことをされて腰が立たなないだとか、男の沽券以前の問題だったと気づき、がっくりと項垂れる。
近くでケラケラと笑っているのは、見物していた春臣だ。聡い彼には、神野の考えたことがお見通しだったようだ。
「簡単な作業だったら手伝おうか?」と申し出てくれた春臣だったが、労災などなにかあっては困ると、お礼だけ云って断っていた。そうしたら彼は文句も云わずに、寒いなかこうやって自分の仕事が終わるのを待ってくれている。
「計画ある性生活を」
傍にやってきて耳もとでこしょっと囁いた春臣に顔を赤くする。
「終わったんなら帰るよ」とヘルメットを渡された神野がトラックの荷台を確認すると、すでに手際のよい督永によって、とっくに扉が閉められていた。
*
「てことは、昨日はなんもなしだったんだね。残念だったねぇ、せっかくのチャンスだったのに。祐樹、期待していたんじゃないの?」
寝るころになって、使い終わったふたりぶんのマグカップをシンクに運ぼうと立ちあがった自分に、にやけた春臣がそう云ってきた。
はじめ、なにを云われているのかまったくわからなかったが、テレビを消した彼に腰をつんつん突つかれて、ようやく云わんとしていることを察する。
「誘われて断ったの? それともあのひと、なんもしてこなかった?」
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