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第33話
「だから、期待とかっ、そんなのはっ」
今度は「まっかっか」と頬を突かれて、神野はいささか乱暴に彼の指をひき離した。
「なにもあるわけ――」
「ないんですよねぇ。はいはい」
云おうとしたセリフを茶化され、いったん閉口した神野は「もう、寝ますっ!」と、洗うつもりだったカップをシンクに放置して、ダイニングをあとにした。
(期待とか、そんなのっ……そんなのっ……)
自室に入って扉を閉める。火照る顔に冷たい手をあてて冷やしながら、きょろきょろと視線をさ迷わせた。
いまこの瞬間に目を瞑ってしまうと、篠山の声や肌の温もりを思いだしてしまい、へんな気分になりそうだ。昨日だって、実にあぶなかったのだから。
昨夜、篠山は疲れていたのか、いつもよりはやい時間に寝ると云いだした。「お前はどうする?」と訊かれ、とくにすることもなかった神野も寝ることにした。
声をかけられるまえからひどく緊張していたのだ。バグバグ高鳴りだした胸にぎゅっと拳を押しあて、入った布団の中では身体を固くしていた。照明の調整を終えた篠山がベッドにあがってきたときには、心臓が破裂するかと思ったほどだ。
軋んだベッドに過去の生々しい体験を思いだし、もしもいまそういう誘いがあったらどうしようと考えた神野は、いっきに上がった体温と、甘く疼きだした腹部に狼狽えた。冬の冷たい布団の中で、全身に汗を滲ませたほどだ。
それが春臣の指摘した『期待』というやつなのだとしたら、神野は『期待』した、のだ。
(バカバカバカ、もう思いだすな。恥ずかしすぎるだろっ)
しかし神野の思惑を裏切り、身体は局部に熱を集めはじめる。神野は劣情が形をとるまえに、慌てて冷たい布団の中に滑りこんだ。
ひんやりしたシーツに額を押しけるとやがて興奮も冷めてきて、そのうち落着いて瞳を閉じることができる。
気持ちや身体を冷ましたのは、なにも布団や部屋の冷たさだけではない。彼のことを想いはじめると、じきに彼と遼太郎が抱きあっているところまでも思いだしてしまうからだ。
昨日も久しぶりに篠山を身近に感じた神野が、はしたない妄想で肉体を高揚させたのは束の間だけだった。篠山が遼太郎を抱いていた光景が頭を掠めると、いっきに熱は散っていき、兆した陰部も簡単に鎮まったのだ。
そのあと条件反射のように目じりに滲んだ涙を擦っていると、逞しい腕に引き寄せられた。ドキンと、篠山に聞こえてしまいそうなほど、大きく胸が鳴って。
そしていつもされていたように、後ろから胸にまわされた彼の手に自分の右手を握りしめられた。
神野は背中に篠山の鼓動を感じながらじっとしていたが、鼻孔を擽る心地よいたばこの香りに、しだいに緊張はほぐれていったのだ。
つづいて「おやすみ」と耳の後ろにひとつキスを落とされると、それで魔法にかけられたかのように瞼が下りてしまう。意識を手放すまでには、それから五分もかからなかった。
目を瞑っていると、ささいな思いがふつりふつりと、心の底から泡のように浮かびあがってくる。
昨日、あれだけの時間ふたりでいたのに、結局篠山はなにもしてこなかった。会話もなかったけども、春臣や遼太郎とあんなに気軽にしている挨拶のキスさえも自分はされることはない。
(まぁ、キスなんて一度もされたことないけども)
彼ら、――いわゆるゲイ友同士であれだけちゅっちゅ、ちゅっちゅと、お気軽にキスをしあっているなか、篠山が自分にだけキスしないのは、どうしてなのだろう。
やはり自分がゲイでないからか、それとも自分に魅力が乏しくて、彼の恋愛の対象にかすめもしないからなのか。
(別に男とキスなんかしたくないけどさ)
なんとなく面白くないのはきっと疎外感のせいだ。いつもみんなであの温もりのあるリビングで過ごしていて、まるでお互いに心を許しあった間がらだと思っていたのに、実はその中で自分だけが異種として弾かれている。それが寂しいのだろう。
布団がなかなか温もらない。
「寒い…‥」
神野は身体をちいさく丸めた。
(まぁ、キスはなくて当然だよ)
自分は篠山の恋人でもないし、彼の心を寄せる相手、近藤でもない。
彼はいまあのマンションにひとりで居て、悠々自適にやっているのだ。なにも自分なんかを相手にしなくても、性欲の処理の相手には不自由はしていないだろう。
それに自分は、彼のまともな性欲処理の相手にすらなっていなかった。
「いっぱい気持ちよくさせてやる」という約束を、律儀に遂行してくれていただけのあのセックスは、篠山にとっては奉仕になるのかもしれない。
どれだけ精液を吐きだしたとしても、機械的なそれに、彼に精神的な快楽など付随していなかったに違いない。
「……ふっ」
また彼が遼太郎を抱いていた光景がフラッシュバックして、ツンと鼻の奥に痛みが走る。
これからも、自分は耳にされるキスしか知らないでいるのだ――。
目頭がじわっと熱くなったかと思うと、ぎゅっと瞑っていた目からぼたぼたと涙が零れ落ちた。
「……っく……ううっ」
胸の奥から震えがおきて、塊のような熱い息が喉を押しあがってくる。それを呑みこむことができずに喘いだ唇が、戦慄 いた。
「キスなんて、い、らないっ……っ」
声は上擦り、静かな部屋に悲しく響く。自分を鼓舞するために吐いたセリフに打ちのめされて、痛む胸を両手で押さえた。
(なんでこんなにつらい気持ちにならなきゃならない?)
どうしてこんなにも、なんどもなんども、彼らのあの光景を思いだしてしまう? もうはやく忘れてしまいたいのに。
自分はいったいなにに囚われているのだろうか。抱きあうふたりの姿の中に、いったいなにがあるというのだ。
そこに隠されたものがなにであったのか、入り乱れて混乱する思考のなか、ふいに頭の片隅で、ガラスの破片のようなものがきらめいた。神野は暗闇の中、目を瞠った。
(なに?)
忘れたつもりでいた異質な棘は、ずっと神野の意識の奥底で息づいていた。
――なんで? なんで?
鮮明に浮かんでくる、あの日見た彼らの抱きあう姿が、肉感を伴って神野の身に再現されていく。快感が皮膚のうえを波のように広がっていった。上擦った声があがりそうになるのを、慌てて呑みこむ。
それは視覚としての記憶ではないので、どんなにしたって、目を背けることができない。
(嫌だ……、俺、なに……?)
篠山の唇が、遼太郎の口を深く探っていた。それがどんなものなのかは、キスをしたことがない神野には想像がつかない。しかしそのあと、遼太郎の顎を滑っていった感覚ならどうだろう。
神野は濡れた瞳を閉じると、いくどとなく左耳の後ろに押しあてられたことのある、篠山の柔らかな唇の感触を思いだし、そっと自分の指さきを耳の後ろに当てがってみた。
――あれが自分の唇に触れ、顎を滑っていくのは、どんな感触がする?
頬伝いに指を滑らせ、唇の際をなぞりながら、彼の唇が自分のそれを掠めるところを想像してみる。すると背筋に甘い痺れが走り抜けていった。
(あ……)
顎を伝って喉へ、そして鎖骨へと皮膚の擦 られていく感触に、咬みしめていた唇が緩んで少しづつ開いていく。「あっ」と熱い吐息が漏れた。
遼太郎は篠山に首筋をいっぱい撫でられていて、そして肩を、……咬まれていた。
想像した神野はぴくんと首を竦めると、暗闇のなか、一度目を開く。激しく弾む胸に手をあて、しばらく逡巡すると、ふたたびゆっくりと息をつめて瞼をおろした。
卑しい自分を恥じながら、それでもつづけて深く記憶を探っていく。
篠山はほかに遼太郎になにをしていた?
――肌を擦りあわせ、反対側の首筋も丁寧に唇でなぞって。肩にたくさんのキスをしていた。
自分が唯一知っている耳に感じたあの感覚を、遼太郎に自分をシンクロさせながら、体中に再現させていく。すると肩も胸も、篠山の唇が触れるところすべてから、彼のやさしさが沁みこんでくることを知って、せつなくてまた涙が零れた。
(……愛されている)
狂おしいまでの衝動に突き動かされて、篠山が遼太郎を撫でまわす大きな手のひらも、強く打ち刻まれる腰の動きも、すべてを自分ものにしていった。そしてこれだけはよく知っていると、自分の体内を穿つ彼のペニスまで想像して、細い腰をびくびく震わせる。
「あっ……あぁっ……」
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