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第34話

(篠山さんはほかにどうやって、遼太郎さんを愛していた?)  神野は自分の身体のうえをさ迷わせていた手をぎゅっと握ると、強張る指さきをおそるおそる胸もとを探っていき、小さな起伏を服のうえから抓んでみた。 「んあっ!」  とたんにあがった大きな声に慌てて口をふさいだ。思いもよらない快感が内部を駆けぬけたのだ。声が隣の部屋で眠る春臣に聞こえたのではないかと狼狽えると、興奮していた身体がいっきに冷めていく。  神野は荒く乱れた呼吸を大きくゆっくり息を吸うことで整えていくと、涙に濡れた頬をシーツでごしごしと拭う。 (……そっか)  最後にスンと鼻を鳴らして、細い吐息を吐いた。 (やっとわかった……)  あの日から引っかかっていた棘の正体が――。  自分はずっと篠山と遼太郎のセックスに、正体のわからない異質なものを感じとっていた。それは自分と篠山のセックスにはなかったものだ。  確かに篠山は自分を抱くときに甘い言葉をかけることも、どこも撫でてくれることもなかった。キスだってされたことはなかったし、身体のどこかを舐められてもいない。  しかしそういう目に見える明らかな違いが、その違和感の正体ではないことはわかっていた。じゃあなにがかというと、それがずっとわからなかったし、わかろうともしてこなかった。きっと知りたくなんてなかったのだ。  でも、もう、自分は知ってしまった。 「……遼太郎さんは、篠山さんに愛してもらっていたんだ」  キスや愛撫のあるなしじゃない。それらの行為を促す愛情の存在を、あの日神野は無意識のうちに彼らの行為の中にみつけていたのだ。  そしてそれを理解できていなくても、ちゃんと傷ついていた。  自分は篠山にひとかけらも愛されていないんだと。 (あんなセックス、自分にも与えてほしかったな)  春臣が篠山の恋人だったと思いこんでいたとき、神野は篠山と寝るたびにその罪悪感から身体だけの関係だからと、心の中でずっと云い訳をしていた。  そんなことが云えていたのは、セックスで愛されるということを、自分が知らなかったからだ。  もし知っていたとしたら、例え自分にそれが与えられていなかったとしても、自分は春臣といっしょにいられなかったはずだし、それに……、きっとそれをいつかは篠山に求めるようになっていた。 (かといって、はじめからそれを与えられていたとしても、きっと自分にはその価値なんてわからなかったんだ)  それは彼にはじめて抱かれた日、自分が正気を失っていたからという意味ではない。自分がまだ彼にそれを求めていなかったからという意味だ。あの時に、もし彼に愛のあるセックスを与えられていたとしても、きっとありがたみなんてなかっただろう。  でも、いまならば。  神野は篠山を欲していて、彼に愛されたいと思っていて、――それで篠山に遼太郎のようにして抱いてもらえるのだとしたら、自分はどれだけ幸せな心地で果てることができるのだろうか。  瞳を閉じて思いを馳せると、きゅっと唇を咬んだ。 (せつないよ)  生活もままならない自分が、人恋しさを理由に寂しさなんかに浸っていると、際限なく脆弱になってしまいそうだ。これではいけないと、気持ちを奮いたたせ、(くす)ぶるせつなさを怒りに変えてみる。 (なんで篠山さん、俺のこと愛してくれないかな? 手の届く範囲内のオトコたちとやりまくってるんなら、俺にもちょっとくらいどうなの?)  愛されるセックスを、彼としたい。  たったひと匙ぶんの愛情でもいいから、それを込めたセックスで抱きしめてほしい。ベッドの中だけでの戯言でいいから、好きだと云って体に触れて欲しい。胸にも、唇にも彼にキスしてもらいたい。  彼にあちこちに振舞うことのできる、それがあるのであるのなら……。 「そんなもんがあるなら、俺にもくれとけよ」  ちいさな声でぼやいて、くすりと笑う。  ずっと刺さったままだった硬質な棘が、きれいに溶けてすっかりなくなってしまった。そういう意味では、気分は晴れ晴れとしていた。 「って云うか、モヤモヤの答えって、とっくにでていたんだ」 『ふたりはちゃんと愛しあっていた、決して遊びなんかじゃなかった』  彼らの関係を「アレも遊びだ」と茶化した春臣に強く反発したことがある。あの時、自分は無意識に答えをだしていたのだ。  そして自分で云った「愛しあっている」という言葉に、間違いなく胸を痛めていた。 「ひとのことだけでなくって、俺って自分にも鈍いのかな?」  きっといま口にしたこのセリフが春臣に聞こえていたら、「いまごろ⁉」と云って、また呆れられそうだ。  もっとはやくに、たとえば篠山の家を出るまえに、さっさと自分がこの気持ちに気づいていたなら、彼とはもっと良好な接しかたができていたのかもしれない。  そうしたら、遼太郎とのことだってもっとゆとりをもって構えていられただろうし、篠山に自分の恋心に応えてもらえなかったとしても、いまみたいに布団の中でひとり、寂しい思いをして泣かなくてもすんだのではないだろうか。 (篠山さんがここにいたら、なにも云わなくたって、きっと慰めてくれるんだろうな)  彼は神野が不安になるたびに、すぐに気づいて後ろから抱きしめてくれていた。  きっといまだって、大きな手のひらで頭を撫でてくれ、いっしょに眠ってくれるだろう。泣いていたりしたら、もしかしたら特別に正面から抱きしめてくれるかもしれない。  思い返せば、いままでどれだけ彼に助けられ、慰められて、どれだけ安心させてもらってきたのだろうか。  たった一度だけ正面から彼の胸の中に抱きしめられたときのことを思いながら自分をぎゅっと抱きしめた。そしていまここにいてくれない彼に、涙を零す。 「俺、あのひとのこと、とっくに好きだったんだ」  気づいたところで、失恋決定だ。今日、彼に本命がいることを知った。あんな素敵なひと相手に自分が敵うわけがない。この恋が叶うことは、絶対ない。  それに自分はすでに篠山のもとを出てきてしまっている。これからは彼とは会話どころか、会える機会だって減っていくばかりだ。篠山の趣味でもなく愛されてもいない自分は、もう形だけでも彼に抱かれることもないはずだ。すべてをあきらめるしかない。 「はやく忘れなきゃ」  涙を呑みこんで、なんでもないことのように呟いた。 「あぁあ。一回だけでもいいから、篠山さんと愛のあるセックスしてみたかったな」  わざと、らしくない云いかたをして強がってみるけども、語尾は嗚咽に震え、また涙が頬を伝っていった。  濡れて冷たい枕が不快でぐいとベッドの端に押し退けた神野は、うつ伏せになって組んだ腕の中に顔を埋める。  今夜は昨夜とは打って変わって、長い夜になりそうだった。                    * 「ひぃぃぃ。なんだ祐樹、その顔はっ」   「目が痛いです」  翌朝、絶不調で目を覚ました神野は、目も瞼も赤くなっていた。とくに腫れあがって重たくなった瞼は、開けているのがたいへんな状態だ。  仕事を休めと本気で心配する春臣に、風邪をひいたわけではないと主張したが、病んでもないのにそんな顔になっているのなら、なおさら心配だと云われた。  それで、いよいよ難しい顔をしだした彼に、しかたなく「ちょっと失恋したんです」と不貞腐れて白状したのだ。  春臣にまじまじと眺め下ろされ、気まずくなって顔を逸らせると、隣にやってきた彼は背中をぎゅっと抱きしめてくれた。 「今度おいしいお酒買ってあげるな。祐樹、なにが飲みたい?」 「而今(じこん)純米大吟醸(じゅんまいだいぎんじょう)」   ちょっとしたやつあたり気分で答える。而今はおいしいと評判で、死ぬまでに一度は口にしてみたいと思っていた憧れの日本酒だ。  結局この日、春臣の完全監視のもと出勤した職場ではなにもかもがぐだぐだで、昨日にひきつづき顔を会わすことになった督永には、「親でも死んだのか?」と赤く腫れた目を指さされた。車内でしっかり冷やしていたのに、瞼の腫れはまったくひかなかったのだ。

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