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第35話 

 今日の送り迎えが車になったのは、過保護な春臣が自分がバイクから落っこちるといけないと、心配したからだ。そんな大げさなと思っていた神野だが、実際に注意力散漫が祟って、失敗を重ねてしまい、帰るころには額に絆創膏を貼り、腕にはシップを巻いた情けない姿になっていた。 「いったい、どんなんだよ。やっぱり、祐樹まだ本調子じゃないんじゃない? 一度精神科受診してみたら?」  「いたって健康ですよ」 「いいや! その沈んだときのがたって落ち具合、ちょっと異常だよ? 体内でモノアミン類が交通渋滞でもおこしているんじゃないの?」 「も、ものあみん?」  聞いたことのない言葉に顔を顰め、それでも「大丈夫ですよ。もともとちょっとドジなんです」と返しておく。  マンションの駐車場に車を停めたあと、春臣に篠山の部屋に寄っていくか誘われて、意地悪なことを云わないでほしいとそっぽを向いた。 「やめておきます。こんな格好見せたら、篠山さんだってびっくりすると思います」  大のおとながたかが失恋でこんなことなるなんて自分で自分に呆れたが、皮膚が弱いらしい瞼はまだ赤く腫れたままだし、あちこちと怪我までして本当にみっともない姿なのだ。  寒い十二月の冬空のした、春臣を促してアパートへの道を並んで歩きだした。 「心配してもらえばいいじゃん」 「なんで、そうなるんですか」 「祐樹ぃ、もうちょっとかわいくならないと、匡彦さん落とせないよ?」 「落とすつもりなんて、ありません。それに、男がかわいくてどうするんですか」  すると遅れて歩いていた春臣が、いきなり後ろから抱きついてきた。 「うっそ。祐樹、けっこうかわいいよ」 「なに馬鹿なこと。さっさと歩いてください。はやく帰りましょう」  神野は肩に伸しかかった春臣をひっぺがすと、さっさと歩くように彼の背中を押した。  起きぬけの頭痛は薬ですぐに治まっていたが、なにしろ昨夜の睡眠不足でとても眠い。はやく帰って休みたかった。  途中歩きながらなんども欠伸をする。これなら今日は思い悩むことなく、すんなり眠れそうだ。  今夜はとっとと眠って、明日には元気になりたい。そして仕事に勤しむのだ。忙しくしていたら篠山を想う気持ちなんて、じきに忘れてしまえるだろう。神野はそう思っていた。                     *  顔を見れば気持ちがぶり返しそうなので、神野はしばらく篠山の自宅には行かないこと決めていた。  それでもやはり彼に会いたいと思うのが本音だ。そんな時はきまって左の耳の後ろを触っている自分に気づいた。そこは篠山が唯一口づけていた場所だ。このアパートにきてからというもの、ベッドに入るたびに耳へのキスを思いだしていたのも、彼が恋しかったからなんだと、今さらながら納得する。  なかなか篠山のことが頭から離れていかない。自分がどれだけ彼を想っていたのかを改めて知り、胸が絞めつけられるような気持ちで、まんじりともせず毎夜過ごした。  もう何年も仕事とバイトを両立していたので、睡眠不足には慣れている。たとえ寝つけないとしても、布団に入って横になるだけ身体は幾分休まる。無茶をしていたころに比べると、多少眠れずにいても、差し障りなかった。しかし、胸の奥にくすぶる恋心だけは、手に余ってどうしようもない。  働く男は一カ月もあれば、失恋から立ち直れるそうだ。だったらがんがんに働いてやる。そうしたら失恋も忘れられるし、篠山から借りているお金もはやく返せるではないか。一石二鳥じゃないか。  それに冬休みにはいったら、春臣がいっぱい遊んでくれると云っていた。それで気晴らしになるのなら、神野はここ数年楽しむことのなかった、クリスマスも、大みそかも、お正月も堪能してやろうと考えていた。  春臣にはさらに借りを重ねることになるが、少しだけ彼に甘えさせてもらうつもりでいた。なぜなら篠山を忘れがたくする原因のひとつは、春臣にもあったからだ。  これだけ世話になっておいておこがましいが、神野はあいかわらず篠山と親交のある彼に、わだかまりを募らせている。つまり春臣に、嫉妬しているのだ。  先週神野は風呂上がりの春臣の肩口に、赤いうっ血をみつけた。 「春臣くん、そこ、赤くなっていますよ? 虫さされかな?」  スウェットのボトムだけを身につけて、首にフェイスタオルを引っかけた春臣は、ほかにも鎖骨の下にうっすらだが赤い痕をつけていた。「あ、ここも」と、ぎりぎり触れない位置で指をさして教えてあげた自分に、春臣は眉を寄せた難しい顔つきで云ったのだ。 「……祐樹、それ、本気で云ってるの?」 「どういう意味ですか?」  彼はやおらタオルの端を掴んでいた手を離すと、神野の左手を引っ張り寄せた。そして首を傾げる神野の手首の内側に顔をつけると、きゅうっとそこに吸いついたのだ。 「いたっ!」 「ほら、できた」  春臣は腕をぐいっと捩じると、自分によく見えるように手首を見せつけてきた。そこには彼とおなじ赤い痕がついていて、神野は「あっ」目を丸くしたのだ。 「祐樹、キスマークも知らなかったんだね……」  それについては、知らないひとのほうが多いんじゃないだろうかと疑いながら、手首についた色濃いうっ血を眺めた神野は、「おこちゃまー」と揶揄ってくる春臣の肩のそれを、もう一度見つめた。そして過った疑惑を素直に口にしたのだ。 「あの。……春臣くんのそれって、篠山さんがつけたんですか?」  その時の春臣の呆れた眼といったら、ちょっとなかった。 「…………祐樹。しつこい男は嫌われるよ。嫉妬深い男もね」  虫を見るような目で見られたあげくのひどい云い草に、自分はとてもへこまされたのだ。  その時に春臣にははっきりと否定されたが、キスマークなる存在を知ってしまった神野は、あれから春臣や遼太郎を見るたびに、彼らの衣服から覗く素肌についつい目がいってしまうようになった。  神野の仕事中に春臣が職場からいなくなるときがあるが、そういうときには彼はたいてい学校に行っていた。そしてたまに篠山のところに立ち寄ってくることがある。そうすると神野は彼らのあいだになにかあったのではないかと、猜疑心にかられてしまうのだ。  篠山とキスをしたかもしれない春臣の唇が気になり、篠山のたばこの匂いが春臣に移っていないかと過敏になる。  部屋に訪れる遼太郎にたいしても然りだ。こんな調子がつづいてしまい、神野は篠山ことを忘れるどころか、ますます彼のことが頭から離れなくなっていた。  春臣と遼太郎が自分の近くにいるうちは、簡単に篠山を想う気持ちを手放せそうにない――、だから責任の一端を春臣に求めている。 (一カ月……。それで無理だったらやっぱりここを出たほうがいいのかな……)  とりあえず春臣が冬休みにはいったら、彼の友だちを呼んでクリスマスパーティでもしてもらおう。アパートに遊びにくる春臣の友人はすてきなひとが多くて、そこに混ぜてもらっておしゃべりをしたり、お酒を飲んだりするのが、神野にはとてもたのしかった。ぱーっと飲んで騒いで気分転換をはかるのだ。  ちなみにここのところの葛藤については充分に気をつけていて、春臣に隠してきたつもりだった。しかし彼にはそれもとっくに気づかれていたらしく、いまでの頑固者、お子さま、の悪評価につけくわえ、しっかり『嫉妬深い男』認定までされてしまっている。 「だいたい、祐樹が気にするのわかっていて、俺が匡彦さんにちょっかいかけるわけがないだろ? 俺さ、見たとおり、遊び相手なんて引く手あまたなんだよ? モテるよ、俺」  それでも篠山ほどのいい男はいないんじゃないか。内心では云い返したかったが、それは云わないでおく。絶対に冷やかされるから。 「べつに私は――」 「じゃあ、祐樹のその表情はなに? その目は? 怖いんですけど?」  思いもよらないことを責められて、自分の顔をぺたぺた触ってみた。 「遼太郎くんにしても、あのひと今、最近できた恋人とラブラブしてるんだから、匡彦さんとはなにも起こらないから。遼太郎くん、ああ見えて貞操観念高いし、潔癖なんだよ?」  それで遊び相手がつくれなくって、だらだら匡彦さんとつづいてたんだからと、意外な真相も知った。 「だから遼太郎くんにも、妬く必要ないからね」 「べつに、妬いてなんかいません」 (いや、たぶん嫉妬はしてるのかもしれないけど……)  ただ神野は、篠山とちょくちょく顔をあわせている彼らのことを、羨ましいと思っているのだ。そしてそんな気持ちも春臣にはばっちり読まれていて、憮然と云われてしまった。

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