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第36話
「誘ってもマンションに行かないって意地張ってるのは、祐樹のほうなんだからね。だったら俺がひとりで行くしかないじゃないか。用事だってあるんだから」
もう二週間も篠山の顔をみていない。
彼に会いたいし、声だって聞きたいと思う。しかし彼に会うのはまだはやい。
もしいま会ってしまってやさしい言葉のひとつでもかけられてしまえば、自分はまた気持ちが彼へと吸い寄せられてしまう。離れるどころか、下手をすれば縋りついてしまいそうだ。だから篠山のことがすっかりどうでもよくなってからじゃないと、会ってはいけないのだ。
そうわかっていても、それでもやはり会いたいという気持ちは抑えられなかった。
(はやく、忘れなきゃ……)
彼に会うためには、まず彼を好きだと思うこの気持ちを、はやく失くしてしまわないと。
*
週末、朝からずっと神野は居間として使われているダイニングルームに居座っていた。勉強するにしても、ひとりで自分の部屋にいると滅入りそうだったのだ。
陣取っているひとり掛けの淡い黄色のソファーはとても座り心地がよく、神野のお気に入りになっている。
そこに三角座りでクッションを抱えこんだ神野は、部屋から持ってきいていた中国語のテキストをとっくにカウンターのうえに追いやっていて、長々とぼうっとしていた。すぐ近く、カウンターテーブルではスツールに腰かけた春臣が勉強をしている。
「てかさぁ。俺や遼太郎くんにいらない嫉妬したり、そんな毎日毎日クッション抱えてしょんぼり鬱々なんかしてないでさぁ。――ちょっと、聞いてるの、祐樹?」
「えっ⁉」
名まえを呼ばれて、慌てて顔をあげる。
「……そんな無駄で、精神に悪い時間過ごすくらいなら、匡彦さんに会いに行ってきなよ」
そう云った春臣は吐息を漏らすと、重ねた書類に視線を戻した。
「そんなことできません。いまはまだ無理です」
「そもそもなんで、距離をとろうとするんだよ?」
ペンのうしろで頭をかりかり擦りながら、ラップトップパソコンに視線を向けている彼は、今日は眼鏡をかけていた。そんな姿を見ていれば、彼もちゃんとした学生に見える。
「……普通に話せないうちは会えません。いま、あのひとに会ったら、ぜったいにヘンな態度をとってしまいます」
「へんな態度でもいいじゃないか。そんなのもかわいいもんだよ。どうせ失恋したとか云ってるのも、祐樹の勝手な憶測だろ? それとも俺が知らないだけで、もう匡彦さんにコクってたりするの?」
「……それは。……告白とか、とくにしてませんけど」
使い慣れない恋愛用語が恥ずかしくて、ちいさな声でごにょごにょと答える。
そんな自分に焦れたのか、「ああ、もうっ!」と叫んだ春臣は、いきなりパソコンの電源を落として立ちあがった。
さっとカウンターのうえの書類を整頓すると、壁に掛けてあるジャンバーを羽織る。そしてどっかに出かけるのだろうかと眺めていた自分にも、彼はコートを放ってよこした。
「ほら、それ着て。匡彦さんのとこ行くよ」
「え⁉ いや、だって、春臣くん!」
時刻はもう二十時をまわっている。こんな時間から篠山のところへ行くだなんて、いったい春臣は彼になんの用事があるというのだ。
篠山はきっといまごろ、寝る準備の最中だ。そんなところに邪魔しにいくのは気が引けるし、それにまだ、自分は彼に会うことができないと云っているではないか。
「会いたいなら会いに行こうって! そんで、祐樹。匡彦さんに好きだって、云ってみたら? つきあってって」
やや強引に腕を引っ張られてソファーから立ちあがらされ、「でも!」と彼の腕を押さえた。
「でも本当に本当に、駄目なんですってば! それに篠山さん、好きなひと、いるんですっ!」
そう叫んで、ぴたっと引っ張るのをやめた春臣の手から腕を取り戻す。
「それって……?」
春臣が眉を曇らせた。
「近藤さんってひとです」
春臣も近藤のことを知っているのだろうか。穏やかに笑う近藤と篠山がふたりで話していた姿を思いだした神野は、ちくんと痛んだ胸に唇をゆがませた。
大阪のホテルで彼にはじめてあったとき、彼にたいしてもささくれた態度しか取れなかった。それでも近藤は気にしたふうでなく、終始自分にやさしく接してくれたのだ。
彼の言葉は不思議な力を持っていて、暗然とした自分の胸の中にも柔らかく浸透してきた。
とても優柔なのに、しかしひとを従順にさせる強さを持つ近藤は、敏活に動きまわる篠山の隣にいるのにとてもふさわしい気がする。
あんなひとが心の奥に、そして仕事仲間として傍に存在する篠山に、自分が選ばれるなんてことは絶対にあり得ない。自分なんて、近藤とはかけ離れてすぎていて、おなじ天秤に乗ることさえもできないだろう。また泣いてしまいそうだ。
「祐樹、なんで近藤さんのことを知っているの?」
そのセリフで、春臣も彼のことを知っているのだとわかった。それなら話しもはやい。
「大阪で一度だけ会ったことがあります。少しだけ、話もしました」
「ふうん」
春臣は鼻白んだふうだった。
「で、なんで匡彦さんが近藤さんのことを好きだとか云うわけ? 匡彦さんにそう云われたの? それで失恋したって、祐樹は、そんなぐだぐだになってたわけ?」
それは違っていたので黙っていると、彼は訝しげに目を眇めた。
「もしかして俺のときみたいに、また勝手に匡彦さんが近藤さんのこと好きだとか、妄想してるんでしょ?」
「違います! 篠山さんに直接訊いたわけじゃ、ありませんが――」
「が、なに? なんでそんなこと云いだしたの?」
これは云っていいのかどうかと一瞬だけ悩んだ神野は、心の中でひとこと遼太郎に詫びてからつづけた。
「遼太郎さんに聞きました。篠山さんには本命がいるって。それが、近藤さんだって……」
だから今回は春臣が云う勘違いとかではないのだ、と。
神野は恋愛感情と肉体的な触れあいが必ずしも直結しているとは限らないと、春臣や遼太郎の件で学んだ。恋愛感情がなくても、ひとは簡単に愛情のあるセックスをするのだと。
愛は愛でも友愛と恋愛は微妙に違うもので、そのセックスに愛情があったとしても、それは恋だとは限らない。
だから篠山の恋情が、遼太郎や春臣に向けられているわけではないのだと、神野はそう自分に云いきかせきかせてきた。そんなのは詭弁だったとわかっていたが、自分を騙してでも自分の心をなんとか宥めておきたかったのだから。
そんな神野が、遼太郎の口から近藤が篠山の本命だと聞かされたときに、ショックを受けたとしてもしかたがない。
篠山の恋情が欠片でも近藤に向けられていたのなら、負けを突きつけられたことになるのだから。そこに肉体関係があろうがなかろうが、神野にとっては、まったくかわりないことだった。
――俺が云いたかったのは、それだけ篠山が頼れるヤツだってことだよ。
――彼は頼りがいのあるヤツだよ。
――コイツはそれだけ企画外なんだって
近藤の声が、頭の中をぐるぐるまわる。
「近藤さん、すごくいいひとでした。篠山さんのこと、とても買っていて――」
――あいつはすごいからさ。まぁ、身内ビイキかもしれないけど……。
「歳も近いみたいだし、つきあいが長いのかな? すごく信頼しあっているような……。あんなひとのこと、本命だって云うんですよ? だったらわたしなんか、絶対太刀打ちできないじゃないですか」
浮かんだ涙で目頭が熱い。
「篠山さんには、ちゃんと特別なひとがいるんです」
この歳になるまで、友人のひとりもできなかった自分には、篠山と近藤の関係がやっぱり妬ましいし、そのあいだに割ってはいるだけの自信も気概もありはしない。
「こんな私のことなんて、見てもらえるはずありません」
近藤のことを知ったときに、篠山への恋慕の情は、自分でも気づかないうちに委縮して、心の片隅に追いやられていたのだ。あの時からずっといじけていた。
「あのさ、俺はさ、近藤さんのことなんて所詮、浅い気持ちだと思うけど? たぶん匡彦さんの思い違い」
「……」
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