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第37話
「だって匡彦さん、近藤さんと出会ってからも、ずっと別につきあっている相手がいたんだよ?」
春臣の「ずっと相手がいた」という言葉に、思わずぴくっと反応してしまい、神野は話の筋を見失いそうになる。
「んー。本気で近藤さんのこと好きだったんなら、八年もチャンスがあればあのひととっくに手ぇ出してたと思うんだけどなぁ。それに、本当に好きならほかの男と遊びはしても、恋人は作らないと思う。アレでいて、あのひとけっこう律儀な性格してるんだよ?」
煩わしそう溜息をついた春臣が、「そんな薄っぺらい好きとか、気にすることないと思うけど?」と、頭をがしがし掻きながら云うのに、神野はソファーに座り直して持っていた上着を丸めて膝のうえにおいた。出かける気は微塵もない。
「気にします。だって仕事とかであのひとたち、ちょくちょく会っているじゃないですか。好きなひとがそんなにすぐ近くにいて、篠山さん、近藤さんのこと忘れられるわけないと思います」
本来こんな赤裸々な気持ちは、ひとに話すものではない。だからこそ、これで最後になるように、神野ははっきりと自分の考えを春臣に告げた。
「篠山さんは近藤さんのこと、忘れる気なんてないんじゃないでしょうか。きっとずっと好きなままでいたいと、思っているんですよ。大好きだから傍にいるんです。絶対薄っぺらいとかありません」
「じゃあ、もう、匡彦さんが近藤さんを好きなままでもいいじゃん。あのふたりがつきあわないんだったら、なんの問題もないだろ? 恋人枠あいているんだから、祐樹がそこにはいりこんだらいい。匡彦さんと遼太郎くんがやっていたのもそういうことだろ?」
春臣は、やむを得ないといったふうの、苦い表情をして云った。
「匡彦さんと遼太郎くん、一時期、つきあっていたんだよ、恋人として」
それはちょっと前に、神野が遼太郎本人から教えてもらって知っていたことだ。でも春臣がちゃんとそれを教えてくれたことで、彼への信頼がまた高まった。
「あれ? もしかして知ってたりする?」
「……はい。それも遼太郎さんに聞きました」
「今、あのひと完全フリーだよ。だから祐樹も好きだって告白して、つきあってもらえばいいじゃないか。匡彦さん、いつも祐樹のこと気にかけているし、案外、脈あると思うよ?」
頭の回転がそのまま口に直結する春臣に畳みかけられて、思わず納得しそうになった神野は、ふいをつかれてあっというまに外へ連れだされてしまった。
「うわっ、ちょっと、春臣くん! 私は行きませんからっ」
途中、玄関に置いてあった紙袋を拾い上げてきていた春臣は、その手にした細い紙袋を、胸の位置に掲げて見せてくれる。
「ほら、祐樹リクエストの而今だよ? クリスマスまでとっておくつもりだったんだけど、いまからみんなでこれ飲んじゃお! で、酔っぱらったふりして、今晩あのひと押し倒しちゃえ!」
「えっ、えぇっ⁉」
「きっとおいしいぞー」
春臣の云っていることにはまったく賛同できないが、目のまえで揺らされた酒瓶の入った袋に神野は目を輝かせた。五万は下らないだろう高価なお酒だ。ぜひとも、今すぐにでも飲んでみたい。思わずコクリと唾を飲みこんだ。
それでもこのまま篠山のところに連れていかれるのは困るのだ。春臣の胸の中から逃げ出そうともがくが暴れる自分を歯牙にもかけず、彼は隣の部屋のチャイムを鳴らした。
待たずして開けられた扉の隙間から、遼太郎が顔をだす。
「お前らうるさいぞ? 時間を考えろよ」
落着いた色合いのセーターにジーパン姿の遼太郎は、仕事から帰宅したばかりのようだった。
「――で、なに?」
「遼太郎くん、帰ってたんだ? ねぇ、いまからもっかい篠山さんのとこ戻って、いっしょに飲まない。いいお酒用意したんだ。これ、篠山さんも好きなやつ」
春臣が紙袋をつきだすと、遼太郎はそのへりをひょいと指でひっかけて中を確認し、
「ってか、俺、疲れてる。もう風呂入って寝るから…‥」
と云って、面倒そうに髪をかきあげた。
「でもソレは飲みたい。――なぁ春臣、それ飲むの、今度にしない? 匡彦さんも、さっき近藤さんと外で飲んで帰ってきたばっかだし――」
「飲みって? 仕事大丈夫なの? 少しは暇になった?」
「そんなことないよ。去年よりも忙しい」
「うーん。匡彦さん、めちゃくちゃ疲れてそう?」
近藤の名まえがでたことですっかり不愉快になっていた神野は、だったらやめておこうよと云いかけたが、ふっと笑った遼太郎のつぎの言葉に、口のはしを引き攣らせた。
「最近木本さんとこの仕事が増えてさ、疲れはしているんじゃない? でもそれであのひと、近藤さんともちょくちょく顔あわせてるからね。疲れていたって、楽しみがあっていいんじゃないかな? 今日も鼻のした伸ばして帰って来たよ」
苛立ちで目が眩みかけた。地面を睨んで気をたしかに持つと、「今日はもう寝ます」と、ぼそりと呟き、隙をついて春臣に掴まれていた腕を奪い返す。
しかし「こら待て、自殺禁止っ!」と、すかさずまた春臣に手首を掴まれ、動けなくなる。
「放してくださいっ」
「いやいやいや。放しはしないよ。あきらめろ」
春臣の指をひっぱって引き剥がそうとやっきになるが、彼の手は離れてはくれない。なぜこうも体格と力の差があるのだろうかと、歯噛みする。
「いやですっ。家に帰らせてくださいっ」
「祐樹、うるさい、黙れ。春臣も、手ぇ放してやれ」
「あーあ。せっかく云いくるめて、連れだしたのに……」
「なに?」
「祐樹、匡彦さんのこと好きなんだよ」
片方の眉をあげて怪訝そうに訊いた遼太郎に、春臣があっさりばらしてしまう。
「春臣くん‼」
「えっ」と驚いた表情をした遼太郎にこちらを見られて、そりゃそうだろうと羞恥で顔を歪めた。
「なんでっ⁉ なんで、云うんですかっ! もうっ! 俺っ、部屋に帰りますって! はやく手を放してっ」
情けないが、声が上擦ってしまった。それなのにそんな自分にちらりと視線を送った春臣は、ゆっくり目を細めると、翳りを帯びた瞳でくすっと笑ったのだ。
(笑った? な、なに⁉)
いままで見たことのない彼のそのさまに内心狼狽えてしまったが、しかしここで怯むわけにはいかない。神野はさらに暴れてみせた。それなのに春臣はこちらにはまったくお構いなしで――、
「遼太郎くん、話しがあるから、あとで部屋に寄っていいかな?」
余裕で遼太郎に笑顔を向けている。
(く、くやしいっ)
腹が立つ。しかし――。
春臣を無視して「じゃあな」と扉を閉めようとした遼太郎の尻を、伸びた春臣の手がするりと撫でたのをみてしまった神野は、ぴたりと抵抗をやめた。
ばちんと肉をうつ高い音が廊下に響く。
「痛っ!」
「ばかっ! ダメだ、お断りっ。くんなっ!」
口をぽかんと開け目を瞠る自分のまえで、扉は乱暴に閉められてしまった。
(えっと……)
「遼太郎くん、マジ、今度お仕置きだな……」
叩かれて赤くなった手の甲をぱたぱた振りながら、春臣が低い声でぼそと呟く。
「仕方ないから気分転換に、ファミレスでも行こっか?」
やっとこちらを向いた春臣がにっこりとそう云うと、神野は抱えたコートにさっさと腕を通した。従順に「はい」と返事したのは、恐ろしくて、ついて行くほかないと判断したからだ。
*
朝から浅草へ巡回にでて、午後には荻窪にある木本の事務所で詰めていた。そしてやっといま、今日最後の顧客である近所の神社から帰ってきた篠山は、ネクタイの結び目に指を突っこむと、手荒にひっぱって首もとを緩めた。
バサッとソファーに腰を落とすと、ジャケットの胸のポケットからたばこのケースを取りだし、一本咥える。テーブルのうえに転がしていたジッポで、火をつけると深く煙を吸いこんだ。快楽物質が五臓六腑に沁みこんでくる。
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