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第38話
篠山は今週にはいってから、連日寝る間も惜しんで働いていた。
「あー疲れた。ちょっと引き受けすぎたか……?」
顧客先には相手の営業時間が終わるまでに連絡をつけたり訪問しないといけない。だから準備は前もって万端にしておかなければならないのだ。とするとおのずと昼休みも退勤後も、プライベート返上で仕事することになってしまう。
こんな無茶な働きかたも、自宅を職場にしているからできることだった。制限のある貸しビルに事務所を設けていたら、こうはいかなかっただろう。
こういうとき確かに自宅事務所は便利ではあったが、しかし仕事の量に際限がつけがたくなってしまって、褒められたものではない。
うっかり仕事を引き受けすぎて、これで身体をやられたり、疲れから集中力を欠いて大きなポカでもやらかそうものなら、目もあてられないのだ。
そもそもこの時期が忙しいのは例年のことだったが、そこに付けくわえ、今年は先日入院した木本の社員の仕事まで、自分のところにまわってきている。現在、人手が足りていない木本会計事務所は、てんてこ舞いだ。
入院した栗原は篠山より一回りうえの男性だが、彼の受けもつ顧客のいくつかが、篠山が木本で勤めていたときに担当していたところだった。
それならば、と彼の代打として篠山にその白羽の矢がたったのだ。もともと木本から預かっていた仕事、プラスあらたに栗原の法人が四件。本来、実質末広と自分のふたりの事務では、過ぎた仕事の量だった。
しかし木本の所長は、ここが時間に融通がつけられる自宅であり、プライベートをぎりぎりまで削ればなんとかなることをよくわかっていて、ごり押ししてきた。
(まぁ、所長にはずいぶん世話になっているし、あちらを思うと、実際にここに持って来るのが一番いいんだろう)
それに篠山が栗原の顧客先を承知しているだとか、自宅を事務所にしているということだけではなく、ここには篠山よりも敏腕な、末広がいることも彼はちゃんと考えている。
三度の飯よりも会計が好きと豪語する彼女は、末広 円佳 三十三歳独身。
彼女はいざとなったら、ここに泊まりこんででも、助けてくれる。助けるというより、彼女の場合、仕事は娯楽の延長なのだが……。
末広の仕事の腕前はとにかくすごい。どれだけ有能かというと、彼女の協力があってこそ篠山は若いうちに独立に踏み切れているし、いままで順調にやってこられているのだ。
独立してはや三年、篠山はもともとの顔の広さと、木本のところの手伝いでそこそこの顧客数があった。いまはその数を順調に増やしていっている。
しかしこれからさき、世間にどんどんとお手軽な会計ソフトも普及していき、ネット世代が充満してくるとなると、この仕事はいつまでも安泰とはいいきれない。
篠山はここで踏ん張って、信頼や紹介による顧客数をいっきに増やすつもりでいた。
そして自分と末広のサポートをさせている遼太郎にも、彼が資格を取りしだいにすぐに担当をつけてやりたいと考えている。
「それにしても、疲れた……」
はぁーっと、肺の奥底から紫煙を吐きだす。倦怠感が半端ない。
篠山はここ数日、毎日のように栗原が担当していた顧客のところへ挨拶がてらの巡回をつづけていた。二、三年ぶりに顔をあわせる相手とは話に花が咲いたりして、ついつい先方に長居しがちになってしまう。楽しくはあるが、それでまた時間を費やすことには難儀していた。せめてもの救いは、木本と自分の仲介に、近藤が動いてくれていることだ。
これがほかの、――とくにそれがかつての上司だったのなら、帰りがけに酒でもどうかと誘われても断ることもできず、いくらかの時間を無駄にしていたと思う。しかし気心が知れている近藤相手になら、たとえ誘われても「今日はやめとく」のひとことで、すませることができた。
近藤は書類などの受け渡しに、わざわざこちらに出向いてくれることもあった。彼も忙しいのだろうに、本当に親切だ。
それに篠山を助けてくれているのは、なにも近藤だけではない。この時期になると毎年のことだが、春臣がちょくちょく家のことをしに通ってくれるのだ。
食事の用意や、洗濯物を取りこんでアイロンをあててくれたりと、とても甲斐甲斐しい。そんな彼にはもう、感謝のいきを通りこして拝み倒したいくらいであった。
ところがだ。ここ二週間ほどずっと春臣と行動をともにしているはずの神野がまったく顔を見せなくなっていた。春臣からは神野が元気にしていることは聞いていたが、それでも彼のことが気になって落着かない。
*
いよいよ「いいから、一度あいつを連れて来い」と春臣に云いつけようとしていたそんな折、ようやくまた神野が仕事帰りにここへ顔を出すようになった。
彼は春臣といっしょに買ってきた総菜や作った料理を食べて、ふたりで仲良く一通りの家事をしてから帰っていくのだが、それでもタイミングよく仕事の手があかないかぎりは、篠山は彼の顔を見られなかったりする。
それでも壁越しに伝わってくる、神野の気配や、元気そうな声だけでも、篠山はほっとさせられていた。
ちなみに春臣の用意していく食事をとくに喜んでいるのは末広で、彼女は毎度飛びつくようにしてそれらを食している。
今日も残業あがりにたらふく食べて、冷蔵庫で手づから出してきたビールを飲むだけ飲んだ彼女は、「あとは風呂入って寝るだけだー」と、ご機嫌で帰って行った。これも福利厚生のひとつに当てはまるのだろうか。
それにしてもだ。親の心子知らず、とはよく云ったもので。そんな諺がおあつらえ向きな、いまの状況に、ソファーでたばこを燻 らせていた篠山は、疲労とはまた別の重い溜息をこっそり重ねていた。
(なんなんだ、いったい神野のこのツレない態度は……)
突然出ていったかと思えば、顔を出さなくなったり、またちょくちょく通ってくるようになったりを繰り返す。もはや神野の体調や精神状態どころか、機嫌さえも気になっている篠山だった。彼がここを出てからというもの、どうも自分にそっけない気はしていたのだが、それが日に日にひどくなっていき、今日にいたってはもうあからさますぎた。
(俺、なにか怒らせるようなことしたか?)
仕事にキリをつけた篠山がリビングに入ってきても目もあわせず、まともな挨拶すらしてくれない。
(少しくらいこっちを見てにっこりと笑ったらどうなんだ? そしたらこの疲れだって一発で吹っ飛んでくれそうだってのに……)
誰しも肉体的にも精神的にも疲弊すると、なにかしらに癒しを求めるではないか。
たとえば自分なら精魂尽き果てるまえに、せめて身体だけでも慰められたいと相手を探して、ぎゅっと身体を抱きしめて――。
まぁ云ってみれば疲れナントヤラを突っこんで、腰をがんがんに振りたくなったりする。
(お前には、なにもそこまでは求めていないんだからさ。せめてちょっとうれしそうな顔をするとか、「篠山さん」って話かけてくるとかさ、なんかできないのか?)
ついでに云うといままでの繁忙期には手近でなおかつ相性のいい遼太郎と、休憩室で毎度ちゃっちゃと欲求を解消していた。
ほぼ毎日ずっといっしょにいる彼とは、互いに欲求するタイミングまでもが相性ピカいちだったので、恋人関係を解消したあともパートナーとしては長くつづいていたのだ。
ところが遼太郎から直接報告されてはいないが、彼には最近恋人ができたらしい。だったら貞操観念の高い彼を相手に、もうそういうことはするつもりはなかったのだが――。しかしどっちにしろ篠山には、ここのところ彼を見ていても、食指が動かなかった。
その理由が彼に他に惚れた男ができたから興が失せてしまったのか、それとも自分が疲れすぎているせいなのか判断がつかないでいる。よもや年齢のせいじゃないだろうな。
(やばいじゃないか。俺から性欲をとったら、ほかになんの楽しみが残るんだ?)
決して顔には出さないように注意しながら、下品なことを考える。そして表面に出さないように気をつけているのは、疲れもだ。
年長者としてのプライドか、もともとの性分かはわからないが、篠山はくたびれた様子や泣き言を、年下の彼らには晒したくないと思っていた。
(しかしこいつら、ほんと目の保養になるよな……)
眺めているだけでもなかなかの癒しだ。しかし。
「はぁ、残念残念」
彼らに聞こえないように、小声でぼやいた。
(いま部屋にはぴちぴちの、しかも平均以上の容姿をした男がふたりもいるのに、そのかたほう、色白まじめ系美人が、塩対応でまったくツレないとは)
せめて話かけでもしてくれたなら、たばこの量も減るだろうに、と篠山は煙とともに、またもや溜息を吐いた。
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