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第39話

 決してこちらを見ない神野は、まるでここに篠山がいないとでもいうような立ち振る舞いだ。そんな態度を取られると、ついつい穿った見方をしてしまい、彼に話しかけないようしてやったほうがいいのだろうと、気を遣ってしまう。  カツンと音がしたので顔をあげると、神野がローテーブルのうえの空き缶を取りあげたところだった。  かわりに新しいビール缶をおいて、黙って去ろうとする彼の手首を、篠山はっとっさに握りしめた。  その行動が彼に触れたいと思ったからなのか、単なる意趣返しの気持ちからなのか、自分でもわからない。 「――っ」  突然のことで驚いたのだろう。神野がびくっとするのに気後れしながらも、みつけた赤い痣を、細い手首を捻って彼自身によく見えるようにしてやる。そしてたばこを挟んだままの指で、その痕をつんと突いて示した。 「あっ」  瞬時に赤く染まった彼をかわいいなと思い、失笑する。 「ち、違います! もうっ! わ、笑わないでくださいっ」 「あははっ。なんだ、この赤いの、疚しいやつなのか? 違うって、いったいなにと違うって?」 「――っ!」  唇を咬んだ彼にきっと睨まれても、そんなに耳までピンクに染められたりしたら、さきほど感じた遠慮なんてどこへやらだ。  篠山は手首を掴んでいた手を、するりと移動させると神野の細い指を握りしめた。その指さきは、すぐにじんわりとぬくもりを伝えてくる。  ムキになった顔でも、向けられないよりかはなんぼかマシだ。それに一歩踏みこんでみると、警戒した猫のようだった彼も、みるみるうちに逆立てた毛を伏せ、しっぽをたらす。 「……放してください。洗い物してきますので」  目を伏せた彼の睫毛が、目もとに影をつくった。  「ん、ありがとうな。助かる。あとこれ、今日はもう飲まないから、悪いけど冷蔵庫に戻しておいて」 「……はい」  たばこを灰皿でもみ消すと、篠山は「ウンッ!」と大きく背伸びした。凝っていた肩が、少しラクになっている気がする。今晩はもう風呂に入って寝るつもりだったが、あと一仕事だけしてこようか。  篠山はソファーから立ち上がると腕をまわして肩をほぐす。そして、キッチンにいるふたりにそれを告げた。  書類を整理するために、篠山は休憩室兼客間として使っている部屋にいた。ベッドのうえにはところせましと客から預かった書類と領収証が並べてある。  顧客には個人経営者が多いのだがそのオーナーの性格もさまざまで、領収証の管理すらまともにせず、すべてを丸投げしてくるものがまれにいる。  篠山がいままさに取り組んでいたのが、そのずぼらな客の領収書の仕分けだ。本当なら明日遼太郎に任せようと思っていたのだが、どんな僅かな量の仕事でも前倒しできるのであればそのほうがいい。  記帳代行のために預かったこれらの書類を仕分けるときには、ほかの顧客のものと混ざってしまうことだけはさけなければならない。とくに紛失してしまったりすると面倒なので、この作業を行うときには、かならずこちらの部屋を利用することにしていた。  コンコン。 「匡彦さん、入るよー」 「あぁ、どうぞ」  ノックとともに、現れたのは春臣だった。 「コーヒー淹れたよ。ここにおいとくね」 「ありがと」  ざっと部屋を見渡した彼は、ベッド横のチェストに湯気のたつマグカップを置いた。部屋には机もあるが、そこに置いてあった封筒に気を遣ったらしい。 「いま祐樹がしてる洗い物が終わったら俺たち帰るけど、ほかになんかやっておいて欲しいことある?」 「んー、とくに思いつかないかな。お前ら乾燥機使ってたんだろ? 中のもん忘れないようにして帰れよ」 「うん。もう取りだして玄関に置いてる」 「そっか」  ここのところ、仕事あがりの神野がにここに来るのは、洗濯のためだった。  気温が一気に冷えてきたこの数日、あのアパートではふたりぶんの洗濯物が一日で乾かなくなったそうだ。とくに神野の二着しか持っていない作業着が乾かないことには、仕事に差し支えが出てくるので、そこで彼は毎日帰りにここで洗濯していた。 「なんだ? まだなんかようがあるのか?」  用件が終わっても、なかなか部屋を出ていこうとしない春臣に声をかける。別に用がなくても居てくれてもかまわないのだが、もしなにか自分に云いたいことがあるのなら、ちゃんと訊いてやるつもりだ。 「遼太郎くんに聞いてたけどさ、ほんとに今年はたいへんそうだね。仕事の量、少しは減らしたりできないの? 匡彦さん、目の下に隈できてるじゃん。肌もカサカサしてきてるし」 「んー。どうなんだろ。木本さんとこしだいだな」  慣れた仕分け作業なので、手をとめずに答える。 (こいつ、ほんと細かいところ見てるよな……)  春臣には自分の空元気なんて、お見通しだったようだ。 「あんま、無茶しないでよ? 嫁さんもいないのに倒れたら大変だよ?」 「なんだ? お前が看病してくれるんじゃないのか?」 「そりゃ、してあげるけどね?」  くすくすと笑う彼に、いまがいい機会だと、「いつも助かってるよ」と日ごろの感謝を言葉にして伝えておく。 「ありがとうな」  しかし篠山が春臣に感謝し褒められたのもここまでだった。 「ところで、匡彦さん。近藤さんって元気にしているの? いまあのひととちょくちょく会っているんだって?」  彼の口から出てきた近藤の名まえに、どうやら雲行きが怪しいと警戒する。 「仕事で、だ。ひとが遊んでるみたいに云うなよ」 「ああ。近藤さんに会えるんだったら、際限なく仕事もどんどん引き受けてやれって?」 「そんな棘のるある云いかた、やめてくれ」  春臣と出会ったのは五年前だ。顧客先でもある馴染みのバーに新しく入ってきたアルバイトが春臣だった。  彼に出された酒を飲みながら軽い気持ちで近藤の話をしたのは、彼がいち従業員であったからだ。それがまさかいまに至るまでつきあいがつづくとは、その時にはまったく思っておらず、知っていたら絶対に近藤の話なんてしていなかったと、後悔している。 「あれ? 近藤さんに会って、鼻の下伸ばして帰ってきてるんじゃなかったの?」 「揶揄うなよ。だからアイツとはそんなんじゃないって。……まったく、なんどおんなじこと云わせるんだ」  面倒なことしか云わないのならもう今日は帰れと、ぞんざいに口にする。 「……でもさ。匡彦さん、近藤さんのことがあるから、ほかのひとを受け入れる隙間がなかったよね? ずっと」  春臣は少し黙ったあと、慎重に話を切りだしてきた。 「……それとも、やっとほんとに『そんなんじゃなくなった』?」 「なに訳のわからないこと云ってるんだ? もともと俺は恋愛体質じゃないんだって。お前だって知ってるだろ? 俺がいままでに惚れた腫れたって騒いでいることがあったか?」 「だから、それって、すでに近藤さんに惚れてたからなんじゃなかったの?」 「いいや。あいつはふつうじゃ見つからないような、気の合う親友ってだけだよ。それを俺がゲイだから、お前がややこしく話しを捉えるんだろ?」 「それさ。いっつも云ってるけど、詭弁だよ。匡彦さんモテるんだから、誰かを受け入れる隙間さえあれば、いくらでもほかの誰かを好きになる機会あったんじゃない? 遼太郎くんとのことだって、駄目になったのは、その隙間がなかったからだと思うけど?」 「どうだろうな。……あいつの場合は、また違うだろ?」  遼太郎の件については別に思うことがある。理路が整っていないことにストレスを感じてしまう篠山は、遼太郎とのことは不完全燃焼な感じが拭えないままでいた。恋人としての彼ではなく、ひとりの人間としての彼をいつまでも気にかけてしまう理由は、そこからきているのだ。 「いまは遼太郎くんの話じゃないよ。匡彦さんの話をしているの」  机に軽く腰掛けた春臣が、腕を組んでじっと見てくる。

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