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第41話 

「ってぇっなっ!」 「ざまぁ、みろ」  しかし、春臣はまったく凝りていなかったらしい。悪戯な顔を寄せてくると、耳もとで囁いたのだ。 「今日さ、祐樹の笑顔に癒された?」 「――っ⁉」  悪魔のように口角をあげて笑う春臣に、篠山は苦虫を潰したような顔になる。  さっきリビングで飲まないビールを神野に返した。その時、缶を掴んだ互いの指が触れあうと、彼は恥ずかしそうに笑ったのだ。その時に、かわいいなと思ってしまった。  要するにあの瞬間の、自分の鼻の下が伸びてきっていただろう顔を、春臣は見ていたってことだ。 「あはははっ。ざ・ま・あ・み・ろ。はこっちのセリフだよ。なに、その顔?」 「こら、やめろって!」  頬を突いてくる春臣に、もうこいつには敵わない、と篠山は白旗をあげた。 「……ほら、やめとけって。俺まだ仕事中」 「へーい。じゃあ、祐樹連れて帰るよ。――またね」 「ああ」   にやりと笑って手を振った彼に、篠山は嘆息する。 (最悪だ。こいつ、絶対まだなにか企てている……)  明朗闊達なイメージのある彼が意外に策士であることは、周囲にはあまり知られていない。 じつは彼はやりてのアイデアマンだ。この歳ですでに数件の飲食店の立ち上げに関わってきているし、メニューの提案から懇意している店のウェブサイトの管理まで手掛けたりもしている。  油断ならない策略家に心中をかき乱され、渋い顔で部屋に戻った篠山は、どうかあいつが余計なことをしてくれませんようにと、指を組んで本気で祈った。  その閉めた扉の外で、 「ふん。やっぱ気になってんじゃん」 と、嘯いた春臣の言葉なんてもちろん聞こえてはおらず、――ましてや、いまの悪ふざけのような春臣とのキスを、神野に見られていただなんて思いもしない。  その週末のことだった。夜中に、神野が一升瓶を抱えて篠山のところへやってきたのは。                   *  玄関の扉が開いた音に気づいた神野は、使っていた掃除機を置いて春臣を出迎えた。 「ただいまー」 「おかえりなさい。あ、洗濯物もらいます。ありがとうございます」  春臣が洗いあがった衣類の入った袋を手渡してくれる。 「祐樹、もしかして屋外灯の電球とり替えてくれた?」 「はい。たまたま住人さんが、自転車に鍵を挿すのに暗くて見えないって困っていたところにでくわしまして」 「そっか、ありがとう」  マンションで車を降りたあと一足さきに帰宅すると、駐輪場の照明が消えていた。それでさっさと備品倉庫から新しい電球をみつけてきて付け替えておいたのだが、まさか春臣がそれにすぐ気づくとは思わなかった。  篠山と春臣が濃厚な口づけをしているのを見てしまってから、今日で三日がたつ。  しばらくは篠山の顔を見たくなくて、あれからマンションには一歩も足を踏みいれていない。春臣には悪いが、洗濯も任せっきりだ。 (俺が気にするから、匡彦さんにちょっかいかけるわけがないとか、云っていたくせに……)  それなのに舌の根も乾かないうちから、あんなことってあるだろうか。そんな春臣には責任の一端を持ってもらって、洗濯くらいしてきてもらってもいいのではないかと自分に云い聞かせている。  それでもやはり罪悪感がないわけではなく、せめてものお返しにと神野はアパートの共有スペースの掃除をするようになった。 「えっと、さきにお風呂いただきました」 「じゃあ、湯が冷めないうちに、俺も入ってこようかな」 「はい。いま掃除機かけている最中なので、ぜひそうしてください」  それがいいと、彼に風呂を勧めると、上着を脱いでいた春臣が「あのさぁ」と、呆れた口調で云った。 「祐樹。いったいいつまでその不機嫌つづくの?」 「――っ」  いけないと、思わず顔に手をあてがう。あの日、篠山とすごく長いキスをしていた春臣の顔を見ていると、ついついむっとなってしまうのだ。 「大好きな祐樹に毎日毎日睨まれちゃって、俺は悲しいよ。俺なんかした?」 「……ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃ」 (なんかした? じゃないよ。……していたじゃないかっ! 思いっきり!)   それでも細心の注意を払って、顔に出さないように気をつけていたのに、ついにクレームがついてしまった。それならいっそのこと云わせてもらおうと、口を開く。 「……春臣くんが嘘つくからでしょ。このあいだ『わざわざちょっかいかけない』とか云っていたくせに……」 「あ。……あ、……あぁあ。あれか……」  なんのことを云われたのかすぐに見当がついたらしい春臣は、「それで怒っているのね」と、頬を掻きながら視線をあらぬほうにやった。 「いえ、別に私に気を遣わずに好きにしてください。それに私は怒っていませんから。そもそも怒る権利とかないですし」  ちょっとおもしろくないだけですと、いい年齢をして拗ねている自分に羞恥しながらぼやく。 「そっかそっか。なるほどね。それで祐樹はまた匡彦さんのところに行きたがらないのね」 「ちょっと頭を冷やしているだけです。来週からはまたちゃんと帰りに立ち寄って、掃除くらいさせてもらいます」  神野だっていつまでもいじけているつもりはない。篠山の顔は見たいし、はやく忙しい彼の手伝いだってしてあげたい。実は春臣にばかり任せているのは、ちょっと悔しかったりする。 「じゃあ、明日とかどう? 匡彦さんのとこ行かない? 週末だしさ、ちょっとひとも呼んでパーッと騒ごうかと思っているんだけど?」 「? 明日って、土曜日ですよね? 土曜って篠山さん、半日は仕事じゃないですか。お仕事で疲れているんじゃないですか?」  それなのに春臣はいったいなにをしようと云いだすのだ。 「そういうのは連休に入ってからとか、それか事務所が暇になってからでいいんじゃないですか?」  ようはパーティでも開こうかと云っている春臣だが、それに意見すると彼は思案顔で黙りこんでしまった。 「……あの、なにかあるんですか?」 「……うん、確かにそうなんだけどね。それがちょっとね。匡彦さんいま、仕事どころじゃなさそうで……」  眉間に深く皺を刻んでいる春臣に、篠山になにかあったんだとはっとした。  コンセントを差しかえるために手にしていた掃除機を放りだすと、春臣に向きなおる。 「篠山さん、どうかしたんですか?」  ずっと彼には助けてもらっているのだ、彼になにかあったというのなら今度は自分が助ける番だ。もしも自分になにかできるのでばあれば、力を貸したいと、やや前のめりに春臣に詰め寄った。 「大きな失敗でもしたんですか? それとも怪我でもしたんですか?」 「うん。……実はね」  云ってもいいのだろうかというふうに、視線をさ迷わせてから春臣はちらっと神野の顔をみる。その様子は彼らしくなくて、まどろっこしい。 (いったいなんなの?)  パーッと騒がないといけない理由に、どんな深刻な問題が潜んでいるのだろうか。神野は唾を飲みこんだ。 「祐樹、近藤さんのこと、知ってるって云ったよな?」 「……はい」  思わぬ名まえに、どきっとする。神野は九月に会ったきりの近藤のハンサムな顔を思い浮かべた。記憶の中の彼はいつも魅力的な微笑みを浮かべているのだ。 (彼がどうかしたのだろうか? 事故にあったとか? まさか、死――)  縁起でもないことを過らせ、血の気が引いて行く。胸に手をあて、「春臣くんっ、近藤さんがどうかしたの⁉」と声を荒らげた。心臓が痛いくらいに高鳴っている。  (それで篠山さんがショックをうけているの⁉ ……いや、でも、それでパーティはないだろう……あれ?)

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