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第42話
「あのひと、結婚が決まったんだって」
「…………け、結婚?」
些いささか複雑な気持ちになったが、だからそれがなんなんだと身悶える。
「ここまで云えばわかるだろ?」
(お祝いのパーティ?)
春臣の様子に嫌な予感だけはしてくるが、残念ながら自分にはピンとこない。唇を尖らせて「……わかりません」と正直に答えると、ドサッとソファーに腰を下ろした春臣が、沈痛な面持ちで額に手をあてた。
「今日、匡彦さんそれを訊いてきたらしくって、すごく気落ちしてるの。そりゃもう見てられなかったよ」
「あっ!」
あの篠山さんが、落ちこむって……。よっぽど近藤の結婚の話がショックだったのだ。
(遼太郎くんとつきあっていたのに? 今さら近藤さんが結婚することはダメなの? そんなにもいまもあのひとのこと、好きだった?)
肩を落とす篠山を想像すると、かわいそうで胸が塞ぐ。しかし春臣の「仕事も手につかないくらいに」という言葉を訊くと、追うようにして近藤への悋気 も湧いてきた。浅ましい自分を恥じ、春臣から顔を隠すようにして俯く。
「それって、失恋で、ってことですよね?」
「まぁ、そんな感じ? 仕事のほうもグダグダだったらしくって、さっき遼太郎くんに聞いたんだけどさ、えらい失敗やらかして、顧客先で大目玉くらったらしいよ? で、今日はその処理に追われて、お客さんのところと事務所を行ったりきたり。さっきやっと帰宅したから、つまみと酒だけ置いて帰ってきたんだけど……」
春臣は重い溜息をつくと、手のひらに顔を埋めて隠してしまった。
「もうさ、一瞬しか見てないけど、顔色めちゃくちゃ悪くって。そのお客さんがさ、近所のひとなの。匡彦さんって近所に顧客多いでしょ? 悪い評判たてられなきゃいいけどね。……あぁ、俺、心配だな。仕事のこともだけど、あのひといままで順調に生きてきてるからさ、挫折とかに弱そう……」
「そんなにひどい状態なんですか?」
「もう、うなだれちゃって……。見ていられないから、俺は帰って来たんだけどさ。やっぱりいっしょにいてあげたほうがよかったのかな? どう思う、祐樹? ……匡彦さん、大丈夫かな? 人間思いつめると……、ねぇ?」
そこで春臣は顔をあげると、意味ありげにこちらをみた。三ヶ月まえに思いつめたばかりの神野はゾッとする。
「でさ、あんなんじゃ明日もまともな仕事ができないと思うし、ちょっと元気づけようと思ってさ。祐樹も手伝ってよ。昼のうちに買い物行って、御馳走つくってあげよう?」
「それは、かまわないんですが……」
不安でたまらず、下ろしていた両手の指を絡み組みあわせた。
「それよりも、いま、篠山さん、ひとりにしておいて、大丈夫なんですか?」
自分も失恋のつらさは身をもって知っている。いまだって篠山が近藤のせいで落ち込んでいると聞いて、嫌というくらいにせつなく、そして悲しい。
自分以外の誰かのために胸を痛める篠山に無性に腹が立ちもする、しかしそれ以上に彼のことが心配だ。
「うーん。やっぱり俺、帰ってきてヤバかったかな? でもお酒の在庫はそんなになかったから、アル中になる心配はないと思うけど」
「ア、アル中⁉」
「あっ。でも外に飲みに出かけるか?」
そこでまた春臣が悩ましげに肩で息を吐いた。
「やだな。匡彦さんヤケになって、手あたり次第そのへんの男と寝たりしなきゃいいんだけど……」
「手当たり次第って――」
「あのひと好き者だからね」
「そんな、まさか……」
怖いことを訊かされて、心が騒ぎだす。
「匡彦さん、モテるんだよ。飲みにでも出たら、そりゃあちこちから声かかるでしょ? ああ、やだやだ。声かけてきた相手とかたっぱしから寝たりして、へんな病気もらってくるとか、勘弁だよね」
「かたっぱし……」
話を聞いているうちに、篠山を憂慮する気持ちを上まわる不快感がこみあげてきた。くらりと眩暈すらしてくる。しかしなんとか持ちこたえると、彼はそんなことはしないはずだ、と自分自身に云いきかせた。
「でも、だって、篠山さん、明日だって仕事あるし、それに今日は外も寒いし――」
「なに云ってるの? ああ、祐樹は知らないか。匡彦さんもともとフットワーク軽いし、ふらっふらとよく遊ぶんだって。ナンパも上手だしさ。案外、いまごろ出かける準備してるかも……、いや、もう出かけたかな?」
まさかそんな、と否定しながらも、頭の中に篠山が誰かと身体を重ねる姿が浮かんできた。遼太郎や春臣と気軽に抱きあったりキスをする、そんな日ごろの彼の素行から考えると、その想像はじつに容易い。そもそも自分だって出会った数時間後には、彼に組み敷かれていたではないか。
「…………っ」
もはや胸の動悸が彼を心配する気持ちからきているのか、それとも誰かへの怒りからなのか怪しくなっていた。もう居ても立ってもいられない。
「春臣くん、すみませんが、さきにもう一回お風呂使わせてください」
「――へ? それはもちろんかまわないけど……。祐樹さっき入ったんでしょ?」
きょとんとして問う春臣に、云い訳する時間すら惜しい。神野はそれに返事もしないで居間を飛びだすと、今晩二度目の浴室へと飛びこんだ。
*
「どうしたんだ? 珍しいな、こんな時間に」
「あの、えっと」
チャイムを鳴らすとほどなくして玄関の扉が開けられた。とりあえずは、彼がまだ家にいてくれたことに神野は胸を撫でおろす。しかし、よかったと思ったのも束の間で、ひさしぶりに間近でみた篠山は、なるほど、春臣に聞いた通りまるで精気が抜けたようなひどい顔色をしていて――。思わず顔が歪んでしまったのは、そんな彼を目のあたりにして、そんなにも近藤が結婚してしまうのがつらいのかと胸がきしっと痛んだせいだ。
「春臣は? お前、ひとりなのか?」
「えぇ」
「まぁ、はいれよ。ここ来るのに寒かっただろ?」
促されて靴を脱ぐと、彼についてリビングに向かう。その後ろ姿も心なしか元気がないようにみえた。
(どうしよう。俺、どうしたらいい?)
彼に会ったらなんと云って声をかけようかと考えながらここまでやって来たが、やはり道のり五分程度では、なにも浮かんでこなかった。
「あの、お仕事は? 終わりましたか?」
「んー。ちょっと今日はいろいろあって、停滞中。もう明日にして寝るかなって思ってたところだよ」
(そういえば、仕事で失敗したって……)
鬱屈を払拭させるかのように、髪をがしっとかきあげた篠山の目には疲れが滲んでいる。
「で、お前は?」
「え? えっと……あの……」
「それ、なに抱えてきたんだ?」
彼につられて目線を落とした神野は、持っていた酒瓶の存在を思いだした。
「あのっ、篠山さんといっしょに、飲もうかと思いまして。これ、飲んでみたいって云ったら、春臣くんが用意してくれていて……。もし仕事が終わっているなら、いっしょにいかがですか? って……」
紙袋からするっと酒瓶の頭の部分を出して彼に見せる。
「太っ腹だな」
「あの、でも、もう寝るんですよね? だったら、これはまた今度でもいいんで――、すみません。こんな遅い時間に……」
彼が今夜は出かけることはしないで、このまま寝るというのなら、ひとまず安心だ。それなら自分は明日の朝、出直したらいい。春臣が云ったように、明日ご馳走を並べて――、みんなとおいしいものを食べてたのしい時間を過ごしたら少しは気分を浮上させてくれるかもしれない。だったら自分が考えていた強硬手段はとりやめでいい。
そこまで考えた神野は、そのあさはかな強硬手段とやらを思いだして、ぶわっと頭に血を上らせた。
春臣に自棄になった篠山が男を抱くために夜の街に繰りだすかも、そして病気でももらってくるかもしれないと脅された神野は、一応ここに来るまえにはそれを阻止するための強行策を考えてきていた。酒で篠山を酔わせて、そして……。
いま思うと安易で幼稚なバカな作戦だ。
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