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第55話

 ベッドにひっくり返ったふたりの荒い息が治まったころ、篠山は神野の腕をとり手首の内側をチュッと吸った。すぐにできた赤い痕は白い肌にとても映える。 「祐樹。春臣についてまわるのはいいけど、あんまりあいつに感化されるなよ」  神野がうれしそうな表情(かお)をしたのは、単純についた痕が珍しくてだろう。自分が春臣に嫉妬しているとまではわかっていないに違いない。  時計を見ればもう八時に近かった。今日は土曜なので午後になるまえには遼太郎と末広が出勤してくる。結局四時間も寝られないのかと歯噛みしても、それでもたばこを吸う五分は譲れない。  篠山は寝るまえの一本だと、チェストから灰皿を取りたばこを咥えて火をつけた。  紫煙があがるのを目で追った神野が、またじっと口もとを見てくるのに笑ってしまう。 「お前、やらしいな。そんなにキスが気にいったのか」  ふっと煙を吐きだし背を屈めると、チュッと唇を吸ってやる。  神野がぱちぱちと瞬いた。 「ん? どうした?」 「……キス」  どう云えばいいのか迷ったのだろう。神野はすこしだけ間をあけてから、再び言葉を紡いだ。 「……どうして、耳にだけ、キスしていたんですか?」  不思議そうに耳のうしろを指で擦る神野に、篠山は口もとを綻ばせた。 「ほかはどこにもキスしてこなかったのに。どこかのなにかの風習なんですか?」 「ん? だってそこにホクロがあるだろ?」 「ホクロ?」 「まぁ耳のうしろだし、自分ではわからないか」  篠山は乱れた神野の髪を掻くと、耳のうしろのあたり、髪の生え際近くにあるちいさなホクロを突いてみせた。 「ここにあるんだよ。これがな、いろっぽいんだって」  ついでとばかりにそこにキスする。 「あとは、単純に、――お前が、かわいかったから」  余計なひとことがつるりと零れてしまった篠山は赤面した。朝からずっと鈍い神野にもよくわかるようにと、大げさなぐらいの甘い言葉を選んで口にしていた、その弊害だ。 (だめだ、コイツといると、テンポが崩れる) 「さ、寝るぞっ」  照れ隠しに乱暴にたばこを灰皿でもみ消し、神野に背を向けて布団の中にもぐりこむ。  そして目を瞑るも、やはりなんか物足りなくて、軽い羽毛布団の中で寝返りをうった。目があった神野はまるで置いてきぼりをくらった子どもみたいな表情をしていた。愛しさで胸が詰まりそうだ。  篠山はもう一度、彼の左耳の印に口づけると、ぐいっと細い腰を抱き寄せた。 「篠山さん……」  それで満足いったのか、ほっと息をついた神野がはにかむ。  神野が枕をひとつ、篠山の腕の上に置いてそこに頭を乗せてきたとき、篠山も満たされた気持ちになった。彼がこのマンションを出ていってからずっと感じていたささやかな喪失感が、やっと自分のなかから消えさった瞬間だった。 「篠山さんといっしょにいると……」  枕との間の耳のホクロを触っていた神野が、おもむろに話しはじめる。 「なぜか眠れるんです」  この時ぽつぽつと話す彼の声に、思わず寝落ちそうになったのは篠山のほうだった。  連日の睡眠不足に重ねて、昨夜は酒を飲んでからのセックス。そして少し仮眠をとっただけで、この部屋から消えたこの男を探すはめになった。だから昨夜はまともに寝ていない。とどめにいままた、彼を抱いて――。 (ね、眠い……。猛烈に眠い。もう限界……)  俺、疲れたってなんども云ってるんだけどな、こいつはそれを聞いていないのか、わかってないのか、どっちだなんだ?  紛れもない天然の鈍さを持つ彼に、思わず吐きそうになった重い溜息を無理やり呑みこんで、それでも普段甘えてこない彼の云うことだからと、必死に意識を保とうとする。 「就職してからずっと忙しくて。そんなのは自分だけじゃないってわかっているんですが、でも全然自分の時間がなくて、気づいたら寝る時間まで減っていて――。すごく眠かったんですよ? それなのに、そのうち眠れなくなってしまったんです。布団に入っても眠れない日がつづくようになってしまって……」  記憶を探るようにして、ぽつりぽつりと話していく神野に、ちゃんと聞いているよ、と教えるようにして彼の髪を梳く。 「薬にも頼りましたが、体質にあいませんでした。色々試したんですが、頭痛や倦怠感がひどくって」  そのいろいろ試した睡眠薬の残りすべてを家から持ちだしていたんだなと、彼の手のひらいっぱいにあった白い錠剤を思いだす。 「もうすごく疲れていたんです。なにも考えられなくなったから、じゃあついでにこのままなにも考えないで、眠りたいって。ずっと眠っていたいって――」  案の定彼は「それで引き出しの中に入れていたお薬をもって家を出たんだと思います」と続けた。 「バスでも電車でも一睡もできなかったのに。でもあの日あなたに腕を掴まれて――。バスであなたの隣に座っていたら、すごく眠くなってしまって」  神野が篠山の胸に身体を乗せてきた。男にしては軽いが、かわりに骨があたって痛い。もう少し太ってもらわなくては、と考えながら今度は背中を撫で摩ってやる。 「あなたのたばこの匂いが……、あなたの匂いが、好きです。ここでいっしょに眠ってもらっていたとき、私はいつも安心できていたみたいです。春臣くんのアパートに移ってから、それを思い知りました。――篠山さんのところに帰りたいって」  そこまで云って、神野は顔をあげた。 「こうしていると、もう離れたくなくなって、困ってしまいます」 「だったらもう帰って来い。好きなだけこうやってずっと俺にくっついていればいい」 「本当に私でいいんですか? ……私は自分の面倒さえまともにみられないし、きっとあなたの足をひっぱります。それに私は頑固で思いこみが激しいみたいですし、あなたの手を焼かせまてしまうに決まっているんです」 「そう思うんだったら、もうちょっとひとの云うことを素直に頷いてくれ。いいからもう春臣んとこでて、こっちに戻って来いよ」  自分で自分のことをとことん卑下する神野に苦笑しながら、篠山は「帰ってこい」と重ねて云った。 「か……、祐樹でいいんだよ。俺が祐樹といっしょに居たいんだから。……恥ずかしいからあんまり、云わすなよ」 「そんなこと云ったら、私のこと全部お任せしちゃいますよ?」  ちろりと上目遣いに訊いてきた神野は、悪戯そうな声のわりには瞳に真摯な色を乗せていて。篠山が見惚れていると、彼が唇をちいさく咬んだと同時にそれは不安げに揺らめいた。 「あぁ、いいよ。――全部俺に任せとけ」  だから、もう寝ようと、彼を胸のうえから下ろし、いつものように腕枕をしてやる。しかし抱きしめる向きだけはいつもとは違っていて、篠山のお気に入りの耳のホクロは枕のうえだ。  しょうがないのでそこは諦めて、かわりにおでこにちゅっと口づけると、彼はびっくりして肩を竦めた。 「もう、寝るぞ」 「あの……」 (まだしゃべるのか……) 「なんだ?」  やさしく答えて、心の中でがっくしと項垂れる。 「起きたら、キスしてください。……ちゃんと、口に」  真剣な顔でなにを云いだすのかと思えば、なんてかわいいお強請りだ。思わず目のまえにある唇に吸いよせられた篠山だったが、ククッと喉の奥で笑うとすんででキスするのをやておいた。 「じゃあ、起きたら、でいいんだな?」  

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