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一、花開きの夜に

青天の下を、春の花の淡い色合いが日ごとにゆっくりと裾野から山中へと向けて広がっていく。 山腹にある大きな磐座の上に座って麗らかな陽射しを浴びながら、イオリはその景色にうっとりと眺めいっていた。四季のうちで、彼は春が一番好きだ。 ポカポカと心地良い温もりに包まれて、いつの間にか瞼が重たくなっていく。このままうたた寝でもしようか…と呑気な事を思った刹那、後ろからゴツンと強めの頭突きを食らった。 「いたっ…」 「いてっ!」 二人同時に声を上げて、同じような体勢で揃って頭を擦る。 「ヤト、頭突きはやめて。お願い」 「頭突きするつもりじゃなかったんだって!ちょい勢い余って、さ」 口笛を吹いて残りの文言を誤魔化しながら、ヤトはいそいそとイオリの隣に並んで座る。 華奢で顔も小さく、細く柔らかな黒髪を肩まで伸ばした女顔のイオリとは対照的に、ヤトはこんがりと日に焼けた褐色の肌で、年頃の少年らしく筋肉が程よくついた引き締まった体躯をしている。茶の混じった彼の黒髪がそよそよと心地良さそうに春風に揺れた。 イオリは今年で十三になる。 けれど、彼と違ってヤトは十五歳ほどの見た目のままでずっと成長していないようにも見える。 人間である自分とでは成長する速度が著しく違っているのだとイオリは教えられてきた。 棄児(すてご)だった赤ん坊の彼を拾って育てているのは、この山奥を根城とする犬神たちであった。 古来よりこの土地に棲う土地神として山裾の村里の人間たちから丁重に祀られ、春や秋の食物の収穫の無事や村の安泰を護るのが犬神の役目である。 当代の犬神は漆黒の毛を持つ雄の犬神――オラガで、人の姿に成れば三十代ほどの短髪で逞しい男の姿になる。 息子のヤトよりも黒く日に焼け、筋骨隆々で頑強そうな割に心根がとても優しく温和な人柄であった。 オラガは、人間であるイオリのこともヤトと同じく我が子として愛情深く育ててくれていた。

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