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四、新しい命

野山に再びの春が訪れようとしていた。 山の頂上に薄らと見える残雪が、柔らかな陽射しを浴びて玉石のように輝いている。気の早い山桜が鴇色(ときいろ)の蕾を覗かせているのを見つけて、イオリは優しげに目元を和らげた。 「頑張って綺麗に咲いてね」 イオリの囁きに答えるようにして、春風に吹かれた蕾が小さく揺れる。ふわぁ、と小さな欠伸が出た。長閑(のどか)な天候が続き、このところは洗濯物がすっきりと速く乾く。 不意に背後でガサリと大きな物音がした。気付いたイオリが振り向くより先に、ふわりとした真っ黒な毛束が彼の頭に優しく乗っかる。 「お帰りなさい、ヤト」 ふさふさとした尻尾でイオリの頭を撫でるように動かすと、真っ黒い毛の山犬――ヤトが「わぅん」と鳴いた。 彼もまたオラガと同じ黒毛の山犬だが、彼の方が少しだけ体躯が小さい。 朝露にしっとりと濡れた濡羽色の長毛をぶるると震わせながら、ヤトはいつもの少年の姿へと戻っていく。 「山のみんなは無事に冬眠から起きてた?」 「ああ、寝坊助の栗鼠(りす)たちはまだぐっすり夢の中だったけどな。山の方は無事に皆が冬を越せたようだ」 「良かった。あ、柚子の果汁を絞った白湯でも作ろうか?山の上の方は寒かったでしょ?」 「白湯いいな、飲みたい。…にしても、イオリはすっかり料理上手になったなぁ」 「ふふ。だって、二人に美味しいもの食べさせたいもの」 「父様(ととさま)は帰って来てる?」 「ううん、まだ。遅くても明日の明け方までには戻ってくるって言ってたよ」 取り込んだ洗濯物を放り込んだ籠を片手で持ちながら、イオリは(かまど)の方へとゆっくり歩いていく。 オラガとヤトに手伝ってもらいながら作った竈は、少々(いびつ)な形に歪んではいるが使う分には問題ない。 慣れた手つきで小ぶりの(かめ)に沢の水を注ぎ入れて火にかける。手際良く小刀で柚子の実を切り分けると、辺りには爽やかな香りが一気に広がった。 ヤトが二人分の小さな土器を適当に並べると、イオリが大きめの木匙を使って土器の中に熱湯を注いでいく。 「熱いから気をつけてね。柚子は好きなだけ使って」 「ありがと」 ずずずっと小気味良い音を立ててヤトが白湯を啜るのを見つめていたイオリが不意に顔を曇らせた。そうして、胸の辺りを何度も(さす)るような仕草をする。 「イオリ?どうした?」 「何だか、昨夜から気持ちが悪くて…。さっきまで落ち着いてたんだけどなぁ。ちょっと向こうに行ってくるから、ヤトはゆっくりしていて」 「大丈夫か?俺も付いてく!」 「ううん。沢に行くだけだから、一人で大丈夫。洗濯物も干し終えたから、ちょっと横になってるね」 「何かあったら直ぐに呼べよ!」 「うん、ありがとう」 笑顔で答えたものの、気持ち悪さが一気に押し寄せていてイオリの足元は覚束なくなっていた。 ここ最近、胸の悪さが顕著になっている。食あたりか流行病かと一人で悶々と悩みながら進み、沢の手前で脱力するようにへたり込むと、イオリはふるりと身を震わせた。

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