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910day thu 9/7
「父さんは?」
病室の前に母さんが立っていた。
何年ぶりだろう……姿は全く変わらないな。
「あなたに会いたいみたいよ」
今朝早く父の秘書から連絡が入り、父が入院しているという本郷の病院に駆けつけた。看護士に促されて集中治療室に入ると、側に立つ医師の表情はもう手立てがないのだと語っていた。その姿はあんなに堅牢だった父とは思えない。細く痩せた老人が管を何本も付けられてベットに横たわっていた。低い機械音だけが静寂の中に響いている。
顔を覗き込むと、目が合った。まだ意識はあるんだろうか……。
俺の顔を見ると父の雅春は管のついたままの右腕で、おもむろに酸素マスクをむしり取ったが、医師はもうそれを止めなかった。カサカサした血色のない唇が何か言いたそうに動いて、暫くするとボソボソと声を出した。
「……初めてあいつを京都の実家で見た時、そりゃあ、もう可愛くてなーー真っ黒な長い髪と大きな瞳が振り返って俺を見た時、雛人形がそのまま息をしているのかと思った。本当に可愛くて可愛くて……」
結構しっかりした声と文脈。天井に手を伸ばしながら、嬉しそうですらある。俺に言ってるというより自分の1番の思い出に浸ってるんだろうな……。
「……俺はおじさんで庶民で品もなくて、絶対にダメなのは分かっていたんだが、どんなに嫌われても手に入れたかった……」
一気に喋ったかと思うと、すぅ……と大きく息を吸い雅春は目を閉じた。
「悪かったな……悪いのは全部俺だ。絢子もお前も酷く傷つけた。でも俺は幸せだったなーー悪りぃな。尚……」
最後まで惚気かよ。ホントに勝手な男だな。
でも最近解ったよ。確かに俺はあんたに似てるみたいだ。
そして俺の方があんたよりもっと欲が深いよ。
心もどうしても手に入れたいんだから。
・・・・*・・・・*・・・・*・・・・
「会社はあなたがなんとかしなさいよ」
「雅人は?」
親父の会社はてっきり弟の雅人に後を継がせるのだと思っていた。確かイタリアに留学中だと聞いている。親父の死に際には間に合わなったな……親父も俺よりあいつに会いたかっただろうにな……。
「あの子は私の実家の跡取り。あんな甘ちゃんにあの男の代わりなんかできる訳ないでしょう。とにかく面倒なことはごめんよ。アンタがなんとかしてちょーだい。あの男の葬式もね」
「母さんは?」
「私はとりあえずフランスに行く予定。その後は分からないわ」
不思議なほど、彼女に何かを求めようと言う気持ちは湧いてこなかった。長い間女性として辛い思いをしてきのはわかっている。彼女だって母である前に一人の女性なんだ。
そして、やっと解放されたんだ。幸せになってほしい。
こんなこと思える日が来るなんて思わなかった。
「さようなら尚。次は私の葬式で会いましょう」
言うと母さんは俺をまっすぐに見た。
綺麗だな……初めて母さんを綺麗だと思った。
「さよなら母さん」
俺も、もう大丈夫だよ。
愛してる人がいるから。
・・・・*・・・・*・・・・*・・・・
病院で色々手続きを終えてから、中庭にあるカフェでコーヒーを飲んだ。
オープンカフェから見える秋の空は不思議なほど明るく快晴でちっぽけな人間に起きた不幸なんてまったくお構いなしだ。
会いたいなーー深森さんに会いたい。
セックスなんかしなくていいよ。
いつかみたいに背中を撫でてほしい……。
俺が落ち着いて眠るまで、軽く叩いたり撫でたりして宥めてくれた。
あんな幸せをなんで俺は大事にしなかったんだろう……。
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