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第25話「丸くて優しい世界」
素っ頓狂なその声に、ふふ、と笑い声が漏れる。
「マンションの屋上にいんの、今。六本木の」
《ええ!?家賃いくら!?》
「えっ?」
何故今そんな質問を、と思ってまた笑いが漏れてしまった。
自殺しようとしていたと言う発言に電話の向こうの雨宮は取り繕えない程に驚愕し狼狽えているくせに、どこかこちらを安心させるような事を言ってくる。
(人畜無害過ぎるなあ、この人)
「えと、安いよ?23万」
苦笑しながら答えた。
《安くねえよ!!》
キン、と頭に響く大声が返ってくる。
「ふっふっふっ、ははっ」
《あ、ごめん。じゃなくて、えっと》
そんなやりとりが面白くて、芽依は余計に死ぬ気がなくなった。
肩と耳の間に携帯電話を挟んで、空いた両手で柵を掴んで越える。
ベンチに戻って座り直し、携帯電話を手で持ってからひと口、そこに置きっぱなしにしていた酒を飲んだ。
「ふふっ、あははははっ!ありがとう、雨宮さん。すごい元気出た。めっちゃ面白い」
家賃ひと月23万は、どうやら一般人の雨宮には高いらしい。
そう言った事に対して強い泰清に協力してもらって、割と不動産屋に値切った金額だったなと思い返しながら、芽依は星の輝く空を見上げてまた笑った。
雨宮の存在は暖かいと言うよりぬるいかもしれない。
ずっと浸かってないと身体が寒くなる温度の温泉に似ている。
《いや、死ぬな!死ぬなよ!?》
「死なない、やめた。何か悩むのくだらねーって思っちゃった。雨宮さん良いこといっぱい言ってくれんだもん」
雨宮の言葉で前を向こうと決めた芽依は、清々しくそう言った。
雨宮のようなお人好しがいる世界で、騙す側だった芽依はもう二度と人を騙さないと決めた。
損やら徳やら、もう騙されたくないだとか、そんなものに囚われ過ぎていた身から、お人好し側に回りたい。戻りたいと思えた。
(もう一回頑張ろ。今日死んだんだって思って、生まれ変わったって思って、もっかい、ちゃんと色んなことと向き合ってみよ)
《あ》
「え?」
芽依が決意を新たにしていると、また気の抜けた雨宮の声が耳元に響く。
そこには誰もいないのに、携帯電話を押し当てている右の耳を見るように視線を動かし、芽依は左手で触れたままの瓶が風に当たって冷たくなったのを感じていた。
《ふふ、、いや、竹内くんが自殺やめてくれて良かったなーって。俺と話してやめてくれて。最近いい事なかったのに、あ、良い事起きたじゃん、って思った》
「っ、」
(この人は、ホントに何言ってんだ)
ぽかん、とした後に物凄く恥ずかしくなって、それから物凄く嬉しくなった。
(あー、、、そうだよなあ、雨宮さんも毎日散々だよなあ、、馬鹿だなあこの人。お人好し、馬鹿、馬鹿過ぎ)
胸と顔が熱い。
血の音がうるさい。
(馬鹿過ぎるんだよなあ、ホント)
さっき堪えた筈の涙が、いつの間にかぽたぽたと瞳から溢れている。
芽依は目をつぶって、携帯電話が壊れそうな程手に力を込めて握り、酒の瓶から左手を離して前屈みに身体を丸めた。
(アンタに関係ないだろ、俺が死ぬとか死なないとか。何でそれがアンタの良いことになるの)
お人好しで作りが単純な雨宮の頭の中で、自分は今どんな位置にいるのだろう。
先程まで恨まれて、憎まれていた筈なのに。
赤の他人に言われたそんな言葉が最近のどの褒め言葉より、何より嬉しくて堪らなくなり、また、先程までどれだけ愚かで馬鹿な事をしていたのかと実感が湧いた芽依は、胸の高鳴りを抑えながらただ声を殺して泣いた。
《あ、キモいな?ごめん忘れて。あはは、うあーー、良かった。何だマンションの屋上か。だから車の音とかするんだ。どこ歩いてんだろー?って思ってたよ》
「っ、、」
息が詰まって声が出ず、返事が返せなかった。
《?、、竹内くん?え、死んだ?》
からかうように言った言葉へも返せない。
バレないように息を飲むのに必死だった。
(優しいなあ、この人)
マンションの屋上のコンクリートに、ぼたぼた垂れて落ちた涙の丸いシミが増えていく。
(生きてて良かった)
スン、スン、と鼻をすすったが、やはりこれでは泣いているとバレただろう。
情けなくて言葉も出ない芽依は、声が震えない状態に戻るまで喋るのをやめた。
《、、そっち、月出てる?》
ギシ、と電話の向こうで音が聞こえた。
ベッドの上にでもいたのだろうか。
雨宮は急にそんな事を言ったが、まるで芽依に「大丈夫?」と聞いているように聞こえた。
「っ、、出てるよ」
やはり、情けない、震えた声が出た。
泣いていると察して、雨宮が困ったように笑う声が小さく聞こえる。
芽依はその笑い声にすら安心しながら、今日初めて見上げた月を見つめた。
夜景や星に目を奪われていたが、確かに今日は月も綺麗に出ていた。
すぐ下にふわふわした薄い雲も流れている。
《見てる?月》
「っん、、見てる」
不思議な感じがした。
こうして話せているのだからもちろん雨宮が生きていると言うのは理解できているけれど、同じものを見上げているのだと思うと、その存在は生々しく、すぐそこにいるように思える。
《竹内くん》
「はい、」
名前を呼ばれると、どくんどくんと心臓が跳ねた。
《俺、見るからさ。あのドラマ》
「ッ、はい」
《だから生きろよ》
「は、いッ」
(ダメだ、月が滲んで見えない)
上を見ても涙は引っ込まなくて、滲む世界でぐにゃぐにゃに歪む月を見つめて芽依は返事をした。
(生きよう)
こんなに優しい人がいると思うと、世界の丸さが良く分かる気がする。
(前向いて、雨宮さんみたいに色んな幸せいっぱい見つけて、それを楽しんで生きよう)
素直に生きようなんて思えたのは何年ぶりだろうか。
他人の言葉にここまで感情を揺さぶられたのは久々で、涙は止まらず、月がハッキリ見えるようになるまでは時間がかかった。
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