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第26話「呼び方」

「あ。雨宮さん、寝なくて良いの?仕事だったんだろ」 どうにも収まらなくなって、芽依は随分泣いていた。 10分程はそうしていたように思う。 鼻と目の奥が怠く、重くなってやっと涙が落ち着くと、ズズッと鼻をすすって、今何時だ?とふとそちらが気になった。 《君、敬語は使えないんだな》 電話の相手は、泣き止んだ彼に困ったような呆れたような声を返した。 確かに歳上の雨宮相手に申し訳ないが、舐めて軽んじている訳ではなく、何故だかそうなってしまったに過ぎない。 あくまで、雨宮の親しみ安さのせいだった。 《寝たいけど、君がそこから飛び降りたら怖いから自分の部屋戻って寝る準備するまで喋ろうよ。おっさん的に、この後死なれたら夢見が悪い》 「ははは!死なないってホントに」 自分から寝なくて良いの?と聞いたくせに芽依は電話を切りたくはなくて、雨宮のその申し出に口元が緩む。 雨宮に随分と懐いてしまった自分が恥ずかしいには恥ずかしいが、別に構わないとも思った。 「んーでも、寝落ち電話とか久々でいいかもしんない」 立ち上がり、酒の瓶を持ってド、ド、と重たい靴音を響かせ、芽依は部屋に向かい始める。 彼も明日はまた撮影があるから、朝はきちんと起きねばならない。 お互いにもう寝るべき時間をかなり過ぎている。 手に持った瓶でエレベーターのボタンを押した。 「雨宮さん、下の名前教えてよ」 エレベーターは1階にいたのか、上ってくるまでだいぶ時間がかかっている。 《ん?あー、、鷹夜。鳥の鷹に、夜でや。で、鷹夜》 鷹夜。雨宮鷹夜。 何だか宮沢賢治を思い出したが、鷹ではなく、あれは雁だったか雀だったか、と頭を捻る。 (鷹夜) 涼しい夜のような名前だ。 そんな風に思った。 エレベーターがついて乗り込むと、家の階のボタンを押す。 「あ、カッコいい。いいなあ。俺、本名もメイって言うんだよ。竹内じゃなくて、苗字は小野田。小野田芽依。芽吹く、の芽に、衣にイへんがついた、依存とかの依で芽依」 ゴウン、ゴウン、と乗ったエレベーターの箱が下降し始めて揺れた。 《いいじゃん、芽依。なんて呼べばいい?芽依くんでいいの?》 「ぇ、」 急に呼ばれた名前に思わずドクンと胸が高鳴ったが、芽依が漏らした狼狽えた声は雨宮には届かなかった。 魚角に初めて名前を呼ばれたときのような、親しくなったなと言う雰囲気に、緊張に似たむず痒さがある。 「うん、芽依って呼んで欲しい」 子供のように嬉しそうな声で答えると、雨宮は電話の向こうで「分かった」と小さく返事をしてくれた。 エレベーターが到着すると、自分の部屋の前までゆっくりと歩く。 また肩と耳で携帯電話をはさみ、酒の瓶を左手に持ち直してズボンのポケットから鍵を取り出して部屋へ入ると、鍵を閉めて玄関にしゃがみ、紐を緩めて白いブーツを脱いだ。 「俺は?鷹夜、さん?」 先程まで「雨宮さん」だったのだからやはりさん付けか、とも思ったが、何だか年の差や距離の遠さを感じて寂しい。 (うーん。仲良くなりたいのになあ) ブーツは玄関に放った。 シューズボックスにしまうのが面倒になってしまった。 《何か恥ずかしい》 「え、何で?」 いや、自分も先程名前を呼ばれたときは少し恥ずかしかったなと思いつつ、雨宮のそんな反応に、むふふ、と笑いが漏れる。 「鷹夜くん、の方がいい?」 意地悪して、わざとそう言った。 《いや、その方が恥ずかしい!》 「ふふ。鷹夜くんて本当に30歳?」 《っ、、そうだよ》 「おっさんとか言って、俺とあんま変わらないじゃん」 君付けが気に入った芽依はそのまま鷹夜と距離を詰めるように、アプリに記載していたプロフィールの情報を確認し始めた。 自分が嘘をついていたからと鷹夜を疑っている訳ではなく、雨宮と言う人間をより知りたくなったが故の行動だった。 「仕事、、サラリーマン?」 芽依は肩と耳に携帯電話を挟んだまま手を洗い、部屋の電気をつけ、湯沸かし器の電源を入れる。 (死のうとしてたのに、今は生きようとしてる) 何だか全部面白かった。 面白いと思える程には、雨宮と話す事で回復している自分がいた。 《うん。オフィスとか店舗の内装のデザイナー》 「え、デザイナー!?すげー!!」 寝る準備が整うまでの暇潰しに、2人はお互いの個人情報を確認し合っていった。 芽依はずっと雨宮と友達になりたいと思っていたが、この状態まで来るとそんな事はもうどうでも良くなっている。 話しているだけで楽しかった。

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