41 / 142
第41話「優しくされたい」
午後19時40分。
資料はやっとまとめ終わった。
「はい、すみません、遅くなってしまいまして、、はい。いえ、時間の指定はないと伺っていましたし、担当の佐々木さんからは来週の木曜日までと言うお話でいただいていたのですが。はい、、、はい、、、」
確認作業を終えて20時手前にクライアントにプレゼン資料を送信し、そのまま油島が担当と電話をしている。
どうやら昨日急にクライアント側の担当が代わり、向こうの引き継ぎがきちんとできていないまま案件に手を出してとっ散らかったらしい。
油島はあくまで低姿勢で電話対応をしているが、どちらが悪いかは明白だった。
(大変だったなこの案件。俺がやれば良かった)
朝から何度も連絡を取り合ってはいたが、向こうもこちらに迷惑を掛けたからと言ってへこへこして主導権を握らせる気はないらしい。
お互い気持ちよくフェアに仕事がしたいのだが、そう言う取り合いをしてくれる人でもなかったようで、油島の顔が電話が続く間どんどんと死んでいった。
幸運だったのは、クライアント側の担当の残業が、今夜はまだまだ続くと言う事だった。
自分達の作業が時間がかかって下手に待たせたと言う事ではなく、通常営業で残業らしい。
(どこもブラックだなあ)
鷹夜は先程ビルの1階のエントランスに置いてある自動販売機で買ってきた冷たい缶コーヒーを開け、グッとひと口飲んで胃に流し込んだ。
(結局、夜じゃん)
流石に悪いと思ったのか、午後16時あたりで一度上野から鷹夜に電話があり、今日の分の休みは月曜日に回していいと言われた。
取り立てて急いでいる仕事もなかった彼は「じゃあ休みます」とその申し出を素直に受け取った。
せめて一言、休みの日に悪かった、と言って欲しかったが。
来週やる筈だった仕事が一気に方がついた油島も無論、休みを取ることにした。
「雨宮さん、片付けと戸締り俺がやります。先帰って下さい。本当にご迷惑お掛けして、すみませんでした。ありがとうございました」
電話が終わると机を回り込んでわざわざ隣まで来た油島が、バッと頭を下げて彼に言う。
コーヒーを飲みながらパソコンをいじっている鷹夜は呆れたため息を1つつくと、すぐそこまで下がってきていた油島の肩を叩いた。
「お前が帰れ。この鍵、貸したりすると怒られるんだよ」
施工デザイン課で所有している鍵は2つあり、1つは上野、もう1つが今鷹夜が持っているものだ。
それは訳あって先輩の長谷川ではなく鷹夜が管理している。
こう言ったものの貸し借りに、1番上野はうるさいのだ。
「少し見ときたい資料あるから、気にせずに先に帰りな。お前、二日酔いだろ。昼飯もあんま食わなかったし、無理させて悪かったな。よく頑張りました。帰んなさい」
「いや、あの、本当にこれ以上は!!」
「それ何の意地?俺がやべーときは自分の仕事投げて手伝ってもらうから、そうやって気にすんのやめろ。いいから病人は帰りなさい」
明らかに昼あたりから体調を急降下された油島が心配だった鷹夜は、テキトーな理由を並べ、そう言って彼を席へ戻した。
でも、いや、ダメです、申し訳なくて、等とボソボソ言っている油島に「帰る準備しろ」と冷たく言い放ち、今度は今田をアシスタントに入れて進行している案件の最新のメールを確認していく。
月曜日に今田に何をどこまでやらせるのかを決めて、書き置きを残しておく為だ。
(家具探しかなあ、、図面はまだ早いし、、うん、家具探しだな)
どう言うテーマでどんな雰囲気が欲しいか、どの辺を自由に考えてもらって構わないのか。
細かく説明を付けた書き置きを書いていきながら、鷹夜は芽依の事を考えていた。
(次、休みがあったら、会ってくれるかな。もし帰って電話して出てくれなかったら、、着拒とかされてたら)
今日は嫌な日になってしまった。
昼以降何も食べていない腹はギュルギュルと鳴いていて、芽依とのランチはなしになった。
休みの日は潰され、上野にはやはり舐められている事を再確認させられ、もう散々で、何もいい事がなくて。
それでも後輩を思いやれと何度もキツくお説教された8年間のトラウマに似た記憶は消えず、自分の都合や気持ち、体調は無視して油島に笑い掛け、気遣い、帰るように促した。
「す、すみません、じゃあ、お先に失礼します」
「ん。タイムカード忘れんなよ」
「はい。本当にありがとうございました」
「はーい、お疲れ」
ヒラヒラと手を振って見送ってから、鷹夜はパソコンの画面を見つめる。
遠くにある窓の外はもう真っ暗で、漏れる明かり目掛けてたまにコツン、コツン、と窓ガラスに何かが当たる音が響いた。
夏は虫が多くて困る。
オフィスの出入り口付近から、ガシャコーン、と言うタイムカードへ記録を付ける音がする。
「、、、」
油島の足音が遠ざかり、エレベーターがこの階に着く音がポーンと鳴る。
しばらくすると、オフィスは無音になった。
「ばっかばかしい」
1人きりになった鷹夜は、不貞腐れてそう呟いた。
彼を待つ人も、心配する人も、労う人も誰もいない土曜日の夜は、虚しくて悲しくて、本当に嫌になる。
そして虚しくても何でも結局、鷹夜はただ1人、火曜日から始まる仕事の為に今も仕事をしているのだ。
「、、たまに泣きたくなるなー」
チェックの終わったメール画面を閉じて、パソコンを終了した。
鷹夜、今田、油島、長谷川分の全てのパソコンの電源が切れているかどうかを立ち上がって1つずつ確認して回る。
それが終わると、今田の為の書き置きを彼の机の上に置き、引き出しから取り出した常備している煎餅の小袋を書き置きの上に重ねた。
「、、、」
世界が急に、遠く、下らなく、自分とは無関係な、額縁に飾られた何かに思えた。
あくまで他人のもので、自分が触れていないように感じられた。
「、、帰ろ」
油島はもう電車に乗っただろう。
彼の精神面のフォローをする事にも、上野の愚痴を言うのも、聞くのも疲れてしまって、気遣いもあったが避けるように先に帰れと言ってしまった。
散々な今日は鷹夜の胸の中でやたらと重たくなっていて、何かまったく関係のない話しをして、会社と言うものを忘れて大笑いしたい気分だった。
(帰ったらお笑い番組見たい)
力の抜け切った身体でふらふらと帰り支度をして、ネクタイを少し緩めて、鞄を持ち上げる。
戸締りを見て回ってタイムカードを押し、フロアの空調の電源を切り、照明を消した。
「お疲れさんでしたー」
人ではなく、オフィス自体に声を掛けてエレベーターホールに向かう。
土曜日、このビルに入っている会社のほとんどは休みだ。
エレベーターの箱はすぐに鷹夜のいる階についた。
「はあ」
ごうん、ごうん、と下っていく。
ポーンとまた音がして1階へつくと、ガラス張りの正面玄関から空を見上げた。
果てしなく遠く、深い黒が広がっている。
ビルの目の前の大通りには人がおらず、街灯の明かりに虫がチラチラと集まっていた。
午後20時29分。
鷹夜は疲れ切っていた。
(つまんねー、、楽しくないし腹減ったし1人だし休み潰れたし)
ついでに言うなら、誰にも優しくされなかった。
「、、疲れた」
ビルのエントランスに立ち尽くして呟いたが、彼に掛けられる労いの言葉はない。
大通りを車の行き交う音がしている。
「疲れた」
ここで倒れて眠りたいとさえ思う程に。
ああまた何にも良いことがなかった、と世界が嫌になってしまった。
「お疲れ様、鷹夜くん」
そしてその声に目を見開いて、勢いよく振り返った。
ともだちにシェアしよう!