80 / 142
第80話「悪魔の名残り」
「え、雨宮さんてそんなことあったんすか」
「そーだよー。けっこー大変だったんだから」
「あー、懐かしい。古市さんですよね」
古市博信(ふるいちひろのぶ)。
鷹夜を精神的に追い込み、一時期は鬱症状が出て休職に至るまで追い詰めた相手の名前だった。
やっと全体的に施工デザイン課の仕事の量が減り始め、昼休みに休憩室に集まった駒井、今田、油島、そして羽瀬は、今田の地元の話がきっかけでそう言えば同じ県から来た後輩が昔いたな、と言う話題に転じていた。
「そっか、湯島までは分かるんだな、あいつのこと」
鷹夜と古市の間にあった事はその当時に働いていた人間達しか知らない。
それも、関わっていた後輩の生き残りと事情を知っている上司達に限られている。
鷹夜は自分の身に起きた事を周りにベラベラと話す方ではないので、あまり事が大きくはならず、知らない人間は古市が辞めた理由をまったく知らないで今も会社で働いているのだ。
「覚えてますよ〜、入ってまず辞めようかと思ったのあの人のせいですから」
「え」
「あ?そうだったの?」
「俺より可愛がられる後輩いらねーとか、朝っぱらから呼び出されて何で始業の1時間前に来ないのかとかで怒られたりしててヤバかったっすね。雨宮さんとめちゃくちゃ仲良かったから雨宮さんに相談できなくて、、でも気がついたら雨宮さんの方がヤバいことになってましたね」
鷹夜は朝の内に買えなかった昼食を買いに外に出ている。
どこまで買いに行ったのか、やたらと帰りが遅かった。
「雨宮さんて優し過ぎるし気遣いすごいし、困ってても人に言わないし、もう本当にギリギリになってやっと上野さんに相談したみたいでした。で、当時はまだ働いてた佐藤さんと、俺が相談してた長谷川さんも入って何時間も話してたなあ」
「ああ、長谷川さん、俺まだ話したことないっす」
「んー、10月に戻って来るよ」
「大阪で新部署の新人教育してるんでしたっけ」
「そうそう。本当は佐藤さんが行くはずだったんだけど、育休だからな。長谷川さん独身だし、お前がいけーって言われるままに飛んでっちゃった」
元本社である大阪支社にも鷹夜達のような施工デザイン課を作ろうとしているのだ。
その為に元々大阪に1人だけいたデザイナーのヘルプとデザイナー志望の新入社員を鍛える為に長谷川は1人、大阪支社に半年間だけ赴いている。
「その人って今どーなってるんですか?」
今田は買ってきていたコンビニのカルボナーラを頬張った。
レンジで温められたそれはチーズの良い匂いを辺りに漂わせている。
いつもは他の後輩と食事をしている羽瀬も今日は今田達のテーブルについていた。
テレビが見たくてよく見える位置の席についていたここに合流してきたらしい。
「一応、自主退社した」
「一応、、」
今田はカルボナーラを飲み込んで、頭を傾げた。
「最後まで足掻いたんだけど、部署関係ない会議のときに現場管理の方の後輩にも被害者いるって分かってな。施工デザインだけの話しじゃないってんで、呼び出して話聞いたんだわ。そしたらもーな、本当に何言ってっか分かんねえんだ」
「え」
羽瀬はやっと戻ってきてくれた嫁の愛妻弁当に手を合わせてから食べ始める。
結局、嫁の実家まで謝りに行って泣き落として戻って来てもらったらしい。
以来、パチンコに行くと言う話しは聞かなくなった。
彼は営業部の中で立場的には中堅で、4つある営業班の第2班の班長をしている。
社内の主要会議には幹部会議以外には呼ばれるのだ。
「この会社の中でちゃんと仕事してるのは雨宮だけで、雨宮だけを尊敬してる。僕は雨宮さんの片腕になる。バディを組むんだ、とかな。何聞いてもそればっか。胸張ってそう言って聞かなかったよ」
「イカれてるじゃないですか、、」
「それが表面に出ないんだよ、普段は」
「えー、、」
羽瀬は嫁・美和子が作った色のいい卵焼きを有り難そうに口に入れてじっくりと噛んだ。
甘い卵焼きがそれ程好きではないからと、だし巻き卵にしてもらっている。
「だから雨宮と、古市より後輩の奴ら以外は何にも知らなかった。ちゃんと聞いたら、雨宮のプライベートにまでズカズカ入ってかなり掻き回してたらしい」
「うっわ、、」
今田の反応を見て、駒井と羽瀬は「はは」と短く笑った。
当時の事を思い出した湯島はどこか胸糞悪く、せっかく買って来たカツ丼への食欲が失せるような気がして箸を持てない。
あの頃の鷹夜は自分の面倒を見てくれてはいたものの、本当に古市と仲が良かった。
特別扱いをしていた。
『今まで本当に、すみませんでした』
その特別扱いや、湯島と鷹夜の間に出来てしまっていた溝を知った彼は、休職に入る前にそう言って深々と頭を下げてくれた事を、湯島は覚えている。
(優し過ぎるんだよなあ)
あれが、誰に対しても丁寧で誠実な鷹夜を知るきっかけになった出来事だった。
3ヶ月後に戻ってきた鷹夜に必死に鍛えてもらい、何度ミスをしても見放さない人間だと理解して、信じて今までついて来ている。
「雨宮はいい人過ぎんだよ」
駒井の声だった。
「この先そう言う人間が現れないとも限らん。だから今田、ちゃんと人を見て関われよ」
「はい」
「あれは雨宮も悪かったんだ。大阪支社の違う部署にいる大学の先輩から、その人の高校の後輩だった古市の面倒見てやってくれって言われて間に受けて、めちゃくちゃ甘やかしてた。それがいけなかった」
「、、、」
「いくら優しくしてもあいつはちゃんと気が付いてプライベートと仕事は分けようとしたのに、古市がそれができなかったのが1番悪いんだけどね」
ずっと鷹夜の相談を受けてきており、唯一鷹夜と古市に関しての問題の全貌を知っている駒井はインスタントの味噌汁を飲みながら呑気な顔で言った。
「あれ以来強くなったけどな、あいつ」
「?」
「今田、覚えとけよ。結局自分のこと守れるのは自分なんだよ」
駒井は今日も瑠璃の趣味で買い揃えられた男児向けだろう柄の弁当箱を持ってきている。
(今日は戦隊モノだ、、)
今田はテーブルの上に置かれた蓋の柄をチラリと見下ろして確認し、また目の前に座っている駒井を見た。
「離れなきゃいけねえなって相手ができたら何がなんでも離れるのが正解なんだよ。あいつはそれまでそう言うのが逃げだと思ってできなかったけど、今はちゃんと人を見極めて自分から離れるようにしてる」
「はあ、」
「マジな話し、いくら優しくても履き違えたらダメだ。自分を傷つけてくるやつ、病気にしてくるやつは友達でも同僚でも仲間でもない」
1番、鷹夜のそばにいたからこそ、駒井の言葉には重みがあった。
完全に鷹夜を「被害者」と思っているわけでもなく、ただ常識と社会の中で生きていく為の話しを今田にしてくれている。
「それは、加害者だからな」
どこの誰にでも悪さがあり、甘えがあり、緩みがある。
けれどそれを他人にぶつけて好き勝手して、呆れられても見放されない「責任感」を利用してはいけない。
相手の苦しみになるのなら、その時点で確実に「加害者」が出来上がっているのだ。
無意識であっても、悪意がなくても。
「以上。この話し、あいつにはすんなよ」
鷹夜の中では終わった話しだ。
ケリはついている。
別に聞いても少しくらいは古市について話してくれるだろう。
けれど、あの頃の苦しみを知る人間達はその話しを決して彼にはしない。
彼がなかった事にするくらい、ポンと忘れてしまったフリをしているくらいには、平気そうな顔をしていてもやはり何度だって彼を苦しめる記憶だからだ。
「はい。しません」
今田は自分がそうはならないようにしようと決意した。
決して、古市と言う人間のように鷹夜の優しさに甘えきり、自立できない大人になるのだけはやめようと。
(仕事、頑張ろッ!)
そこまで話し終わってやっと、鷹夜がゼェゼェ言いながらコンビニの袋を片手に休憩室に入ってきた。
ともだちにシェアしよう!