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第86話「不審者」
7月31日。土曜日。
久々の休日出勤で、鷹夜は思ったよりも疲弊していた。
(体調悪過ぎる)
熱があるような気もしている。
夏風邪なんて言うものだろうか。
クーラーの効き過ぎたオフィスから出ると、エレベーターホールを右に曲がった奥にあるトイレまで急いだ。
ダメだ、吐く。
「うえッ、ケホッ、、ぅ、久々に絶不調」
ときたまに体調を崩すときがあるが、それが夏に起こるのは珍しい事だった。
個室の中で吐き終わると、はあ、吐息をついてペーパーで口を拭き、戻してしまった昼飯の残骸を見下ろした。
ゴミもまとめて便器に投げ込むと、また息をついてレバーを押し、フタを閉めて全て流す。
「早よ終わらんかなあ、、またパソコンの調子悪いしなあ。くそぉ」
油島は明日から別案件の現場入りになる為、早々に帰らせた。
残っているのは今田だが、あとはもうパソコンの処理を待つ時間が残っているだけだと判断した鷹夜は、「トイレから出たらあいつも帰そう」と決めて鏡の前に立った。
「あー、ゲロ臭い、最悪」
手を洗い、何度も口を濯ぎ、鼻の中まで洗ったところで少しだけ匂いが引く。
この酸っぱくて何とも言えない匂いが彼は嫌いだ。
小学校のときから急に教室で吐いたりとよく分からない体調不良に襲われる経験が多かったが、今回のはクーラーを効かせ過ぎた脱水症状だろうな、と思った。
目の前の鏡には顔面蒼白になった自分が写っている。
(帰りたい)
先程、月曜日は休みにさせて貰いたいと上野にメールを打った。
すぐさま返事は返ってきて、「仕事が終わるならどうぞ」と嫌味たっぷりなそれを見てまた気分が悪くなった。
鷹夜にとってデザイナーの仕事は目指していたものではあったが、ここまで残業が多いとは思っていなかったし、この会社でまだまだできたばかりの課に対して思ったよりも仕事が増え、だんだん回り切らなくなっている現状は中々に辛い。
自分の時間が睡眠で終わってしまう程に疲れてしまうのも嫌だった。
新人をとっても教育が行き届かない事もあり、油島以来、やっと施工デザイン課に来たのが今田だが、この忙しさでもずっと勤めていてくれるかが鷹夜にとっては不安なところだった。
「ふぅー、、」
置いてあったティッシュで顔と手を拭くと、彼はゆっくりとオフィスに戻る為、廊下に出た。
(最悪だ。最近また良いことがない)
体調不良もそうだが、先日駒井に頼まれてオフィスの鍵を貸したとき、鍵が1日他人の手に渡っていたと言う事がどこからか上野にバレて鷹夜は1時間近くお説教をされたばかりだ。
何にせよ鷹夜に怒って嫌がらせをしたがる彼女から逃れる手はなく、駒井に謝られても半分くらいしか謝罪が頭に入らなかった。
(真面目に体調悪い。帰りたい)
帰っても待っているのは蒸し暑くて誰もいない部屋だけで、床に散らかった洗濯物を見てまた嫌な気持ちになるのだが。
(、、芽依くんがいたらなあ、なんて)
こんなとき、いつも電話をかけて来てくれて、最悪な1日の最後を「楽しい」で埋め尽くしてくれた相手がもういないのだと、鷹夜はどこかがっかりして肩を落とした。
「あ!雨宮さん、CG一個、取り込み終わりました!」
オフィスに入ると嬉しそうに今田が立ち上がって笑いかけてきた。
「お、やった〜。じゃああと2つか。今田、お前帰っていいよ」
「え。いや、雨宮さん先に帰って下さい。あとやっときますから、、顔、めっちゃ白いですよ」
「大丈夫大丈夫。どうせ俺、鍵閉めないといけないし。こないだ鍵貸したのバレて上野さんに怒られまくったばっかだから、頼むから先帰ってよ」
「あ、、、」
へら、と困ったように笑う鷹夜に、今田は口を閉じて少し眉間に皺を寄せる。
明らかに青く白い顔は冷や汗をかいていて、先程走ってトイレへ行った理由が用を足すのではなかった事が分かった。
(俺がここにいてもやりにくいかなあ、、)
今田は鷹夜に1番迷惑が掛からないようにする方法を考えたが、結局は自分が残業した時間等を細々とタイムカードを見て確認しては鷹夜に嫌味を言う材料を集めている上野の事を考えると、やはり帰るのが1番良いのだろうと思った。
「本当に大丈夫ですか?」
もう一度だけ確認したが、鷹夜は自分の席についてパソコンに向けていた目を今田の方へ向け、ニコリと笑うだけだった。
「大丈夫。いいから帰んなさい」
「はい、、お疲れ様でしたッ」
22時35分。
今田は黒いリュックを背負い、バッと鷹夜に頭を下げて、CGを処理しているパソコンは立ち上げたままでその場を離れ、タイムカードを切った。
チラ、と最後にもう一度鷹夜の方を見たが、後ろ姿は背中を丸めたままでこちらを見てはいない。
(大丈夫かなあ)
エレベーターホールへ行くとボタンを押した。
今田も明日は休みになる。
エレベーターに乗って自分の会社が見えなくなるとやっと、ふう、と肩の力が抜けた。
それから、5分くらい経ったときだ。
ブーッ
「んっ、やべ、寝てた」
ブーッ ブーッ ブーッ
「待って待って待って、、」
鷹夜はパソコンの前で机に頬杖をついたまま眠ってしまっていた。
携帯電話のバイブの音で目が覚めると、まず保存に時間がかかっていたCGを確かめる。
パソコンはスリープにはなっておらず、風が巻き起こっているような低い微かな音を立てながら全力で動いていた。
「良かった」
ブーッ ブーッ ブーッ
「はいはい、誰、、今田?」
今田がいなくなってから自分の机に置くのが邪魔で隣にある彼の机に置いていた携帯電話を取ると、着信中の画面には「今田」の文字が浮かんでいる。
通話のボタンを押して機体を耳に押し当てると、「あっ!!」と驚いたような声が聞こえた。
《雨宮さん!!》
「ん、どした?」
《1階のエレベーター降りたとこに変なやついたんで、帰るとき気をつけて下さい!!》
今田は焦った声のままそう言った。
「変なやつ?」
《黒ずくめで帽子かぶってマスクつけてメガネかけた、2メートルくらいあるんじゃないかってデカい男がベンチに座ってピクリとも動かないんです!!》
「お前いまどこにいんの?」
《会社のビルの正面玄関の外です!絶対怪しいっすよ、マジで全然動かない!強盗とかですかね、、土曜日ですよ?このビル今俺達以外いないのに!》
「、、ん、待った。もう一回言って。どんなやつ?」
《だからあ!!》
またひとつ保存が終わり、鷹夜は通話をしたまま片手間にそれをファイル分けしてから、次のCGを立ち上げてスキャンを始める。
電話の向こうの今田はやはり焦っていた。
《黒ずくめで帽子かぶってマスクつけてメガネかけた、2メートルくらいあるんじゃないかってデカい男ですよ!!ベンチ座ってて!!ジーッとエレベーター見てるんです!!》
「、、、」
何だか見覚えのある男のような気がした。
「あ〜、友達、かも」
《え!?あ、そうなんですか?すみません、、ちょっと危ない人に見えたので、》
鷹夜の頭の中に浮かんでいる男なら、眼鏡もマスクも帽子も、不審者でなくても身に付ける必要がある。
その男なら、やたらと大きい身体の話しも腑に落ちるのだ。
電話の向こうの今田へ、鷹夜は安心させるように話しかけた。
「いや、多分だし、格好自体怪しいから悪くねーよ、大丈夫大丈夫。ちょっと見てくるわ」
《え!?じゃあ俺も中入ります!!》
「いい、いい。大丈夫だから帰れ。そう言えば今日ラーメン行こって言われてた気もするし」
《え、、?》
「だいじょーぶ。じゃ、ありがとな。お前も気をつけて帰れよ」
《あっ、、はい!お疲れ様でした》
「はいはーい、ありがとな〜」
まさかな、と言う気持ちもある。
本当に不審者の可能性も。
けれど鷹夜はどうせ彼なのだろう、と電源のついている自分と今田のパソコンをもう一度確認すると、ネクタイを緩めながらエレベーターに向かった。
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