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【第1部 馬とピザと】第6話
「で、諸君。結論をひとことでいえば?」
エミネイターが部屋の奥に陣取り、手の中の報告書を指さした。
「偶然とは思えない回路の損傷が七カ所もあるんですよ。何を意味していると思います? しかもただの損傷じゃない」
答えたのはテイラーだ。エミネイターは報告書をめくりながら眉をひそめている。師団の塔のルベーグの部屋で、俺とテイラーは図面をはさんで向かいあい、エミネイターの斜向かいではルベーグが石板のへりを神経質になぞっている。いつも完全無欠で、何があっても冷静な印象がある彼にこんな癖があるのは意外だった。
「見つけしだい処置をしたから当面は大丈夫だが、人為的なものだと思う」
俺の言葉にかぶせるように、テイラーが図面に鼻先をつっこんだままつぶやく。
「問題はそれなりの魔力量の持ち主でないと、不可能な細工だってことだ」
ルベーグは憮然とした表情だった。
「この塔の人間じゃあるまい。だったら回路の〈署名〉でわかる」
回路には独特の「筆跡」があり、個性があるので、師団の魔術師なら特定できるのだ。
「王立魔術団でもない――と思いたいがね」
テイラーがつぶやき、俺たちは顔を見合わせた。王立魔術団の精霊魔術師たちと、この師団の関係は「敬して遠ざける」「利用できるものは利用する」だ。純粋に友好的なものではないから、彼らがからむとめんどうなことになる。だがエミネイターは明解にこたえた。
「たとえ精霊魔術師が関係していても、組織的なものではないだろう。もともと王立魔術団の連中が予知したから、今回の仕事ができたんだ」
「で、その予知は何といってます」とルベーグ。
「不穏、だそうだ。明瞭な危険ではない。『敏捷に動くもの』がこれまでなかった何かをもたらすらしい」
「それってなんですか、ねずみとか?」
テイラーがぼやいたが、俺はふとひっかかるものを感じた。
騎士団の協力で調査をはじめてから十日経つ。今日は本来なら休日のはずだ。
初日の調査で俺があえてショートさせた回路にあった異常は、俺の「修復実演」に見せかけて修理してしまったから、その場にいた騎士団の連中には知らせなかった。しかしその後も、同様の異常と細工の痕跡が他の場所でもみつかって、うかつに取り扱えない事柄になってきた。
問題は、過剰な魔力をかけると回路がショートすることではなく、本来ショートした回路で閉じるはずの扉が開いてしまうことだった。この細工が実際に使われたのかどうかまではわからなかった。発見された七カ所――水路の格子から送風孔の弁まで――は人間が進入できるような大きさではなく、警備上の重要性はないとされた。しかし王城の回路魔術師も知らない改変が加えられているのは重大な問題で、おまけに改変の意図がわからないなど、不気味としかいいようがない。
「憶測は意味がない」
書類を机に投げ出し、エミネイターが宣言する。
「どこが何を企んでいるにせよ、更新が終われば問題はなくなる。秘密厳守で作業してくれ。アーベル、騎士団への聞き取りは完了でいいね?」
俺はうなずく。クレーレとデサルグのおかげで進捗は早かった。
「王宮や上の方には私から根回しする。必要な人員はどんどん使えるように計らっておく。明後日からかかれ。明日は休めよ」
エミネイターが出ていくあいだもルベーグは眉をひそめて石板をなぞっている。この部屋では上司と部下のわけへだてもあいまいで気楽なものだ。俺とテイラーは同時にあくびをする。
「僕は帰るよ」
そういってテイラーが立ち上がった。
俺も伯父の屋敷へ戻るつもりだった。明後日からの師団の仕事を考えると、明日は一日工房へこもっているくらいがちょうどよさそうだ。扉を閉めながら振り返ると、ルベーグは目を閉じて片手で石板をこつこつ叩いている。もう片手の指先は、小さな糸くずをもてあそんでいた。どこかで似たものを見たと思ったが、思い出せなかった。
工房は正面以外の窓がないから、背後に建つ伯父の屋敷も見えない。真っ暗で、ひとけがない伯父の家。俺はいまだにこの屋敷を「伯父の家」だと思っている。伯父と伯母が亡くなり、書類上は俺のものになっているが、実感はない。
工房の狭い寝台に横になり、しばらく無気力のままでいた。疲れているせいか、今日はひどく気分が沈む。今夜は月も細く、回路をいじるにも暗すぎた。何も食べたくないとひとりごち、そのときはじめて、ここしばらくひとりで食事をしていなかったことに気がついた。騎士団と調査をしているあいだは毎日クレーレと夕食を食べていた。
アカシアの葉が風に鳴るのをききながら、ゆっくりと暗鬱な気分が自分を覆っていくのに、ただ耐える。
あの樹は俺が伯父のもとへ来たとき、すでに大きかった。伯父と伯母は両親を亡くした俺をひきとり、それぞれのやり方で愛情を注いでくれた。伯母は実の母親のように、伯父は年長の友人のように。回路魔術の研究で俺が大陸へ渡るときも援助まで与えてくれたのだ。だが俺は当地で知り合った仲間と事業をおこし、そのまま夢中になって帰らなかった。手紙のやりとりはまめにしたつもりだったが、大陸での俺は旅ばかりしていたし、この国は遠かった。
伯父の訃報を知ってすぐ、俺は大陸での事業をやめて、伯母の元へ戻ることにした。伯母はながく半身が麻痺していたから、ひとりで暮らさせるわけにはいかなかったのだ。だが諸事を片づけ、船旅をかさねて王都にもどってくるあいだにもう季節が変わっていた。そしてわかったのだ――俺がじつにたくさんのことに、間に合わなかったのだと。
俺は遅すぎた。
そのまま居眠りしたらしい。軽い馬のいななきに意識が戻る。影が俺をみおろしている。
「エヴァリスト?」
自分の口から洩れた音に、そんなわけはないと気がつく。
「眠るなら扉くらい締めてくれ。不用心だ」
クレーレが腕を組んで俺をみおろしていた。
「明かりがついているし、あいてるから入ったが……」
「ここに物盗りなんて入れないぜ」
伯父の回路魔術がちんけな泥棒から屋敷を守っていることを、俺はいつクレーレに話しただろうか。そのおかげで俺すらこの屋敷を恐れているということを。
「そうはいっても無防備に見えるんだ」
「ローブの下に何があるか知っている人間はそんなことはいわないさ」
俺は襟を合わせながら寝台から離れた。騎士服のままのクレーレに「なんだ、めずらしく手ぶらだな」とぼやいてみる。
「これから両親のところへ顔を出すんだが、その前に寄ってみた」
「残念だな。城の夕飯じゃ飲めないし、ふたりだけで飲むのを楽しみにしていたのに」
深く考えもせず冗談めかした軽口をたたいたが、言葉が口から出たとたん、それが事実なのを悟って静かな衝撃を受けた。たしかに騎士団に協力してもらっているあいだ、毎日俺はクレーレと食事を共にしていたが、王城はどこでも人目があった。いままで意識していなかったが、ほかに誰もいないところでクレーレと食事をするのを俺はひそかに楽しみにしていたらしい。
クレーレと俺は、騎士と回路魔術師というおかしな取り合わせだとしても、今は王城警備に関する共同の仕事についている。夕食どきは仕事の話だけでなく、城下に流れる噂話でもおおいに盛りあがり、会話の種はつきなかった。それにレムニスケートという有力貴族の一員であるせいか、クレーレは日常の立ち居振る舞いも他の騎士より格段に洗練されていて、その精妙さがここちよかった。
そのせいか、自分でも知らないうちに俺はクレーレをみつめていることがある。一方、視線を感じて振りむくと、今度はクレーレが俺から目をそらしたりする。
奥のほうで気配をころす自分の感情に俺は蓋をする。クレーレは王都に戻ってはじめてできた友人で、ともにすごしているだけでも、これまでになく居心地がいい。
それでいい。
「すまない、一緒に食事できなくて」
俺の落胆に気づいたのか、クレーレが謝ってくる。
「何を気にしているんだ」と俺は笑った。
なぜか今夜のクレーレは落ち着きがなく、妙にそわそわしているようだった。これから両親のところへ、つまりレムニスケート家に行くせいだろうか。
クレーレは軽く腕を組んで俺を見下ろした。
「調査は終わったとデサルグから報告がきたが、騎士団が協力する方は一段落したと考えていいのか?」
「ああ、何日も副官を借りて悪かった。全部終了だ」
俺はテーブルに肘をついて騎士を見上げる。乱雑な小屋のなかに突っ立っていても、この男はいつもさわやかなたたずまいだ。それにくらべると我ながらだらしない姿勢だが、クレーレがそばにいると俺は不思議とリラックスしてしまう。背中に力が入らないのだ。
「いろいろ重要なことがわかったよ。たぶん上の方からも礼をいってくると思う。現場は明後日から次の作業だ」
いちばん重要なこと、何者かによる七カ所の故意の損傷についてはエミネイター預かりになったので、俺からはクレーレに知らせなかった。エミネイターから公式な報告として騎士団へ情報はいくだろうが、どんな形になるかわからない以上、うかつな話はできない。
「これから忙しくなるのか」
「かなりおおごとになりそうだ。でもまあ、これまで城で任されていた仕事に比べるとおもしろいよ」
これは本心だった。裏で何が起きているにいても、他人が組んだ回路の負荷試験に消耗するより自分で作るほうが楽しいにきまっている。
「アーベル、明後日からということは、明日は休みか?」
「ああ」
「だったら……遠乗りにいかないか」
「遠乗り?」
予想外の誘いに俺はほほえみ、上目でクレーレをみつめた。
「大陸から戻ってきて、一度も町から出ていないんだろう。すこし体を動かした方がいい」
「俺は馬を持ってない」
「予備の馬を貸せるさ」
「ひきこもって机に向かってばかりの回路魔術師がうまく馬に乗れるなんて思ってるのか?」
「アーベルは机に向かってばかりの回路魔術師じゃないんだろう。大陸では馬なしで商売できないと、前にきいたぞ」
「たしかにそういったが……」
俺は不満げにうなってみせたが、心の奥ではもう、誘いにのることに決めていた。
「いいよ。行こう。久しぶりでなまってるから、最初は手加減しろよ」
クレーレはほっとしたように破顔した。心からの、子供のような笑顔だった。
居眠りしていた間に夜がふけたのだろう、月はかなり西に動いている。
クレーレの馬はいつものように門脇につないであった。いつみても見事な馬で、デサルグがいつか話したようにこれだけで十分人目をひく。俺は門をあけ、静かな路地に出るクレーレを見送った。
「アーベル、寝不足で落馬したくないなら、今日はしっかり食べて休んでくれ」
馬上のクレーレはからかうようなまなざしをむける。俺はにやりと笑ってみせた。
「は、誘ったのはおまえだろ。レムニスケートの子息のくせに、休日に俺なんかと油を売ってるのが不思議だよな」
他意はなかった。このあと両親の家に行くと聞いていたから、思わず口をついて出たにすぎない。軽口を返してくると思ったのに、クレーレはふと息をのんだようにみえた。ひと呼吸おいて、つぶやくような低い声がふった。
「女性とは恋愛関係になれない」
不意をうたれて硬直した俺をよそに、クレーレは手綱をひき、馬の腹にブーツをあてた。ひづめが快い音を立てた。
「また明日」と聞こえた。
その夜は長く、ひとりでワインを飲んでみたものの眠気がおとずれなかった。遠乗りにいくことを承知したのに、さびしさで息がつまりそうだった。俺は寝台に横になったまま天井の羽目板を眺める。眼をつぶってもみえるまぶたのうらの模様にうんざりして、頭から毛布をかぶる。
闇が俺を覆う。
明日は楽しいはずだ。だから今夜がすぎてしまえばいい。
今夜だけ生きのびればいい。
疲れているだけだといいきかせるが、ずっと下のほうへ、気分がおちていく。まるでふかい淵のきわに立っているようだ。かつて大陸でみた風景が脳裏に浮かぶ。ひろい原野のかなたにひろがる暗い森の影に、冷たい朝の空気、そして俺のつまさきからのびる大きな亀裂。
俺は垂直に切り立つ足元をみおろし、おそれながら、震えている。
この淵は時間の切れ目、孤独のきわなのだと俺は思う。淵のむこうがわには見知った顔がある。俺がここにいるのも知らないように、笑いあっている顔がある。もうちがう時間にいってしまったひとの姿がみえる。
いつのまに俺は彼らとこんなにも離れてしまったのだろう。そして永遠に会えなくなってから、俺は彼らと十分に俺の時間を交差させなかったことを悔いている。
ふと、寝台の脇に立ったクレーレの影をエヴァリストだと錯覚したことを思い出した。体形も声もまったくちがうのに、どうしてそんな錯覚がありうるのか。
エヴァリストのことを考えるのは久しぶりだった。大陸にいたころ、俺のなかでとても大きな位置をしめていた存在だったというのに、もうずっと考えもしなかった。とっくに終わった話だとはいえ、自分がずいぶん薄情な人間に思えた。
いや、俺はきっと薄情な人間なのだ。
耳もとにささやかれるエヴァリストの声を思い起こす。胸から腰をつたい、じらすように触れる彼の長い指の感触。俺の下肢をひらき、中心に触れ、包みこみ、たぐりよせた快感をゆっくり押しあげていく。
俺は着衣の下に手をいれ、そっと右手を動かす。追いあげてくる熱にまかせ、目を閉じる。耳のうしろから首筋をはう、熱い舌の愛撫。たまらず声をもらす俺をみる、エヴァリストの自信ありげな顔……その眸はいつのまにかちがうものにいれかわり、精悍な日焼けした顔に浮かぶからかうような微笑みが俺の肌に羽根のように触れる。気づくと俺はクレーレのまなざしの下で快楽をむさぼっている。クレーレの大きな手が俺をつかみ、激しくしごきながら解放へ導く。
熱いしずくが飛ぶ。
俺はひとりの寝台で荒い息をついていた。
のろのろと汚れた下着をぬぎ、床に落とす。敷布に横たわると、そのまま毛布をかぶった。
夢も見ずに眠った。
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