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【第1部 馬とピザと】第7話
翌日はきれいな秋晴れだった。気温はやや高く、風は爽やかで、俺たちはそれぞれ馬に乗って城下を抜けた。
いくら小隊長が一緒とはいえ、騎士団の予備馬を俺が使っていいものかとも思ったが、馬丁の少年はごく当然のように俺に手綱を渡した。厩も馬もよく手入れされている。俺はひさしぶりの乗馬に緊張したが、すぐに自分が乗っているのは大陸でよく遭遇した荒っぽい馬とは別種にひとしい、優雅な生き物だとわかった。郊外から王都の外へ、そして広めの田舎道に出ると俺たちは軽く馬を駈けさせ、クレーレが先導して丘の方へ向かった。
王都をかこむ丘陵地帯は秋のおだやかな日差しをあび、澄んだ空気のおかげで、遠くに山のなだらかな稜線がくっきりみえている。大きく枝を広げる巨木の丘でクレーレは馬をとめ、昼食にしよう、と言った。さすがに疲れていた俺はよろこんで馬から下りると、引き綱を長くとってつなぎ、背中をこすってやった。
昼食は騎士団の食堂が用意してくれたサンドイッチだった。満腹になって満足した俺は芝に寝ころび、刺すようなまぶしい木漏れ日を肘でさえぎる。風は涼しく、ながれる薄雲がときおり心地よいくらいに日差しを弱めていた。横目でクレーレが同じように芝の上でくつろいでいるのをぼんやりと眺める。
くつろいでいるといっても、彼の動作はつねになめらかで、無駄がない。簡素だが確実に機能する美しい回路の銀を思い起こさせる。俺は喉元できちんととめた襟の下で、たしかに動く筋肉を想像し、落ち着かなくなった。
「眠いのか?」
はっとして眼をあけると、クレーレの顔がすぐ近くにあった。ほとんど俺にのしかかるように芝に肘をつき、影になった眸はうまく読みとれない奇妙な色を浮かべていた。うっかり真正面からその眸をみつめて、俺は一瞬、とても驚いた――何に驚いたのかも、よくわからなかった。ただ長い針が刺しこまれたように胸に熱い衝撃が走ったのだ。
鼓動が速くなり、それを悟られまいとさりげなく顔をそらした。
「運動したからな。ひさしぶりに馬に乗った。あれはいい子だな」
「大陸ではどんな馬に乗っていた?」
「もっと荒っぽいやつらさ」
俺は大陸を縦横無尽に走る野生馬の話をした。乗合馬車につながれたりなどしない、荒々しくて美しい馬たちだ。大陸の先住民はそんな野生馬を捕まえて飼いならし、交配した血統を作って馬市で売っていた。先住民の馬は特別だった。いったん人間に信頼をよせると、友のような存在になる生きもの。
しゃべりながら俺の手はあてもなく動き、無意識にローブの前をゆるめる。クレーレは俺の指へ視線を落としている。胸の内側で落ちつきのない羽ばたきがきこえる。
「大陸でも、やはり魔術師はこんなローブを着ているのか?」
「そうだな。回路魔術師にとっては合理的なんだ。ホコリを防ぐし、中に道具を隠せるし」
「ええ?」クレーレはにやりとする。
「そんな理由で魔術師はローブを着ているのか?」
「精霊魔術は知らん。でも回路魔術師はたいてい、ローブの中になんでも持ってるぜ。これだけで店が開ける」
「そういえばデサルグが感心していた。トーチから魔術の道具まで、なんでも出てくると言っていたな」
「そうさ。だから魔術師はいつでもローブを着ている。秘密も隠せるしな」
俺はふざけたつもりだった。次の瞬間、失敗したとわかった。
顔をそらしているのに、すぐ近くからクレーレの視線を感じた。首筋から襟元、腕から手首へつながる熱を感じとれるようだ。呼応するように俺の身体にも熱がこもり、それを逃そうと、俺は首元にまとわりつく髪をはらった。
クレーレは肘をついたまま片手をのばし、俺のローブの合わせにふれた。
だめだ、と内心が叫んだ。
やめろ。
それなのにいうことをきかないのは俺の手の方だった。驚くほどすばやく俺はクレーレの手首をとっていた。騎士の長い指が右手に絡んで、あっと思う間もなくクレーレは俺に覆いかぶさってきた。熱い息が首筋にかかる。俺の鼓動はさらに速くなる。
耳元でささやいたクレーレの声は直接俺の肌に響いた。
「秘密はなんだ」
「俺は……」
「アーベルの秘密を知りたい」
内心の響きはクレーレの唇におおわれ、飲みこまれた。
息をもとめてひらいた隙間から熱い舌が俺の歯をさぐり、裏側をなぞりながら奥まで絡む。背中から腰にかけて甘いうずきが走り、力が抜けた。どうしようもなかった。俺は吐息をもらし、クレーレを迎え入れた。
縦横無尽に俺の口を犯しながら、ローブの下に入り込んだクレーレの大きな手のひらが全身を探る。体がどうしようもなく熱いのを知られてしまう。いつの間にかローブの前がひらかれ、気が遠くなりそうなキスを続けながら俺を抱くクレーレの硬くなった半身が、布越しに俺を圧迫する。
たまらなかった。俺は無意識に腰をゆすり、のしかかるクレーレと足をからませた。いつのまにかキスが解かれ、ゆるんだボタンからシャツの内側へ侵入する指と舌に、上ずった声が漏れる。布越しに触れるクレーレの半身は俺のと同様硬く熱く、俺はのばした手でクレーレのシャツをつよく握りしめた。
「アーベル……」
下肢に触った手のひらの衝撃であふれた声が、ふたたび熱いキスにふさがれる。
俺はやみくもにクレーレの服に手を伸ばしてじかに肌をもとめた。もたつく服とローブのはざまで俺とクレーレの半身が触れ合うと、期待と快楽に体が震えた。
だめだ。あまりにも早すぎる。
喘ぎをこらえながらクレーレの腕をつかみ、我知らずつよく握る。
首をそらせて耐えようとしたところに耳朶を噛まれ、俺は思わず声をあげていた。恥ずかしさに息をのむ。
「いいから、アーベル」
クレーレの声が耳孔に響き、それも快楽の一部になる。まずい。気持ちが良すぎる――昨夜よりずっと。
俺はいまやのしかかるクレーレのリズムにあわせて腰を振っていた。俺の半身と触れ合うクレーレの欲望は太く熱く、急速にのぼりつめる自分自身をとめられない。吐息と羞恥で顔が熱かった。
「ああ……あっ…クレーレ……いく……」
「俺もだ」
クレーレが腰を擦りあわせたまま俺を抱きしめたとき、すでに俺は達していた。次の一瞬、胸に顔をおしつけられ、クレーレが何度も激しく腰を打ちつける。熱く濡れたものが腹を伝い、強い腕が俺の腰を抱きしめる。
俺は久しく感じたことのない安堵と平安に、茫然としていた。ここずっと――大陸にいたときにもなかった、甘くあたたかい感触だった。
喉の奥からなにかがこみあげてくる。俺は固く眼を閉じた。
「アーベル、」
クレーレの焦ったような声が聞こえる。
俺たちは芝のうえに横になり、抱きあったままで、空は晴れて、薄雲がかかっている。少し離れたところで、馬たちが草を食んでいる。
「どうして泣いている?」
「――ちがう」
「泣くな。もしかして、嫌だったか…?」
「ちがう!」
どう説明したらいいのかわからなかった。伯父の急死、帰郷、伯母の死、王城での仕事。そしてクレーレ。ここ数カ月の出来事が俺のなかでうずまき、それらの底にあった暗いものが、いまだけは暖かく軽やかな、明るい光に取って代わったのがわかった。俺は笑おうとしたが、泣き笑いのようになった。
クレーレは両手で俺の頬をはさみ、目じりをそっとぬぐった。寄せられた唇が耳元でひそやかにささやきを落とす。
「好きだ、アーベル」
体から何かがこぼれだしてしまうくらい、心が揺れ、傾くのがわかった。
このまま認めてしまえばいい。おまえが好きだ、といえばいい。光の下でこのまま、おまえと抱きあっていればいい。
クレーレの胸に顔をうずめたまま、どのくらいそうしていたのかわからない。深く息をつき、呼吸をととのえる。俺は背中に回る手をそっとはずすと、組み敷かれてぐちゃぐちゃになったローブの内側から布を取り出し、体を拭った。
「アーベル」
「そろそろ帰ろうか」
「アーベル」
立ち上がろうとして、また騎士の腕に抱きこまれた。今度のキスは熱く、長く、また下肢にうずきを感じてしまうほど甘かった。
「嫌いじゃない」
やっとそれだけ声に出す。クレーレの微笑みはまぶしかった。彼は光のなかにいるのだった。
「そういえば、前から不思議に思っていたんだが」
王城まであと一息のところで、クレーレが思い出したようにいう。
「どうして、城下では工房で寝泊まりしているんだ。その、屋敷ではなく」
「ああ……」
どう説明したものだろうか。何しろあの屋敷については、回路魔術師の俺ですら、半分も事態を理解していないのだ。問題は――
「問題は、入れないってことだ」
「入れない?」
「危険すぎるんだ」
「どういうことだ」
「あの屋敷は、回路魔術師の伯父が伯母のために調整していた。伯母は五年前、事故で両足を麻痺したんだが、伯父は、伯母がちょっとばかりの魔力を使えば不自由なく暮らせるように、屋敷にいろいろな仕掛けを作ったんだ。俺が住んでいたころにもそういうのはあったんだが、伯母が事故にあってから、伯父は徹底してやったらしい。伯父が生きている間は何の問題もなかった。しかし伯父は死んだ」
「それで?」
「それから屋敷に何かが起きた」
クレーレは怪訝そうに眉をよせた。
「どういうことだ?」
「実は俺にもよくわからない。たしかに何かの問題は起きたんだが、大陸から戻るのに時間がかかりすぎたせいで、俺が戻ったときは……屋敷はたしかに伯父の作った仕掛けで守られていたんだが、伯母は病気で……錯乱していた。屋敷にも謎が多すぎて……俺は伯母の面倒をみることができなかったんだ。それで一時的に施療院で療養することをすすめた。実際、施療院の治療者もそういう見解だった」
このことを他人に話すのは初めてだった。俺は冷静に話せる自分に少し驚いていた。ずっとこれについて考えていたが、いまのいままで、誰にも話せていなかった。
「手配をすませて、伯母は施療院に入った。ところがそのとたん、文字通り屋敷に俺は入れなくなってしまった。俺だけじゃなく、誰も」
「それはその、扉があかないとか?」
「それだけじゃない。無理やり中に入ろうとすると、もっとおかしなことが起きて……施療院は王城から精霊魔術師も呼んでくれたが、原因がわからない。そうこうするうち、伯母が施療院から失踪した」
「伯母さんは足が麻痺していたんじゃなかったか?」
「まったくその通りなんだが、消えたんだ」
俺は弱々しくつぶやく。自分がどんな表情でいるのか、自信がなかった。伯母に関して、俺はたしかにどこかでまちがえたのだった。俺は遅すぎ、しかもあまりにも心にかけていなかった。俺にとって数少ない肉親のことを。大丈夫なのだと思いこんでいた。いつものとおり俺を迎えてくれるものだと、ずっとそうなのだと思いこんでいたのだ。
俺は致命的に何かをまちがえていた――そう考えるだけで胸がはやがねを打ち、顔が熱くなってくる。
「伯母は最後に、屋敷でみつかった」
「帰ってきたのか?」
「誰にも知られず、いつのまにか屋敷に入っていた。俺がどうにかして屋敷をこじ開けたとき、息をひきとって三日経っていた。病死ということになった。ひとつだけいえるのは、あの屋敷は俺にはわからない回路魔術の仕掛けがあって、その制御方法を知っていたのは伯父と伯母だけだったということだ」
「それで工房にいるのか……」
「あそこはもともと納屋で、あそこで俺が研究したり作業をするようになってからは、伯父夫婦は俺のものとして尊重してくれていた。屋敷の回路を探知する装置は作ったから、きちんと調べて片付ければ、またあそこで暮らせるはずなんだが」
そのはずだ。俺があの中に入る勇気を持てれば。
「アーベル」
「伯父と伯母はとても仲が良かったんだ。理想的な夫婦だった。子供はいなかったが」
「アーベル」
クレーレは俺の名を呼んだまま、黙っていた。馬は人間の感情など素知らぬていで楽しげに歩みを進めている。もうすぐ帰れるのがうれしいのだ。俺は揺れる馬のたてがみだけをみつめ、吐き捨てた。
「そして両親が死んだあと、子供同然に面倒をみてもらったのに、俺は彼らのことが本当はちっともわかっていなくて、いまや俺のものとなった屋敷に入れもしないわけだ。怖くて」
騎士団の厩は南門から遠くない場所にある。受け取った時と同じ馬丁の少年が飛び出してきて手綱を奪いとる。クレーレに背を向けたまま俺は馬を撫で、どちらともなく礼をいった。
「アーベル」
クレーレの手は温かかった。肩にかけられた心地よい重みに俺は眼をとじる。
「アーベル、俺の部屋にこい」
「だめだ」
「なぜ」
「工房に帰らないと……明日からはしばらく戻れないかもしれないし」
「それでもせめて今日は俺の部屋に来るべきだ」
「どうして」
「あの場所で、ひとりで夜を過ごさせたくない」
肩におかれた手を外すと、クレーレは逆に俺の腕をとり、自分の方へ向かせようとする。唇がほとんど触れあわんばかり、俺に顔を近づけてささやく。
「アーベルに責任はない。そうじゃないのか」
胸の内側で心臓がどくどく鳴り、その音があまりにも大きくて、俺は強引に顔をそむけた。
だめだ、と今度は心の中でつぶやく。この後もクレーレと一緒にいたら、俺は二度とあそこへ戻れなくなってしまうだろう。いつも、いつでも、今夜だけ、ただ今夜だけ生きのびればいい。そんな夜をずっと続け、重ねていく毎日と、その結果どうにか、俺の人生というものがつながっていくことに。俺は耐えられないだろう、こんな明るい光を一度でも手にしてしまったら、いつか――生きのびることを断念する夜が来てしまうだろう。
「だめだ」
まぶたの奥が熱く、目をあけられない。
「だめだ。俺は行けない」
そしてクレーレの手を振りはらい、走り去った。
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