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【第1部 馬とピザと】第9話

 冬祭りを明日にひかえた城下はたいへんなにぎわいだ。広場では人夫が組みかけの屋台に釘を打ち、路面に面した店は飾りつけに余念がない。王都の冬はほとんど雪が降らないかわり乾燥した冷たい風が吹きつけるが、空は高く晴れ、人々の気分も高揚するようだ。  冬祭りは三日つづき、そのあいだ城下の人々は無礼講で羽目をはずす。一方王城では、初日に王宮で儀式が行われるが、その後は多くの使用人に暇が出される。冬祭りは庶民の祭りなのだ。  俺は祭り気分とは到底いえなかったが、エミネイターから強制的に休みを出された翌日は、さすがに工房の扉をあけはなち、朝から掃除をした。すると親切な隣近所が冬祭りの伝統的な飾り、常緑樹の枝を大量にくれたので、おとなしく受け取って門柱に飾った。切り立ての枝のきつい香りが鼻を刺し、ずっと昔の冬祭りの記憶を呼び覚ます。工房には夏にピザを配った家の子供がつぎつぎに現れては家の人に持たされたという菓子の包みや食べ物を俺に押しつけた。 「アーベルがいる! あそんでよ」 「お祭りの夜はうちにおいでって、お母さんが。夏に配ってくれたほど豪華なもんじゃないけど、ごちそうするからって」 「アーベル、なんか手品みせて! まじゅつしなんでしょ?」 「おもちゃが壊れた」 「ローブの下みせてぇぇ……何がはいってるのー」  俺は玩具の馬の摩耗した回路を修理し、プリズムを空中で全方向に回転させて石畳に虹を飛ばし、穴が空いた人形の背中を縫ってやり、ついでにと大人が持ち込んでくる日用品を直し、まとわりつく子供たちともらった菓子を食べた。そうしながら、いつの間に自分がこの辺りの人々に「気にかけられる」ようになったのか、不思議に思った。  たしかに夏が終わる頃から、工房にいるとき、隣近所の住人が動かない回路をもって相談にくれば、直してやったりはした。でも俺は背後にある伯父の屋敷のことだけが気がかりで、いつも上の空だった。近所の住人にどう思われているのかなど、まったく気にしたことがなかった。  子供たちがせがんでくるので、俺は大陸での見聞を法螺まじりに語り、いい加減疲れたと思ったころ、灰色のベールをまとった人がアカシアの下に立っているのに気づいた。 「ずいぶん人気者ね」 「エイダ師。お久しぶりです」  エイダは精霊魔術師で、施療院の治療師でもある。伯父夫婦と古い知り合いで、伯母の親友でもあった。小柄で――俺より頭一つ半は背が低い――精霊魔術師にはよくあることだが、年齢不詳の美しい女性だ。ベールごしにもかかわらず美しさは一目瞭然で、さらに魔力の透明な気配がたちこめる。子供たちのなかでも敏感な者が目を丸くしてみつめている。  伯母が亡くなる前の一連の騒動で俺を助けてくれたのはエイダだった。伯父の急死後、病気で急激に変わってしまった伯母にずっと付き添ってくれたのはエイダで、施療院へ伯母を預けることに同意してくれたのもエイダだった。俺がなにひとつ口にするまえに、俺の限界を悟ってくれたのもエイダだった。 「すみません、ずっとご挨拶にも行かず」  なんとなくみじめな気分で俺はいった。 「いいのよ。師団で活躍しているのでしょう。元気でやっているかしらと思って、寄ってみたの」  お祭りでお城から帰っていてよかった、とエイダはほほえみ、帰らないつもりでいた俺はハイ、と口ごもる。  夏に施療院へ届けたピザの礼をいわれ、王城の仕事についての他愛もない質問に答えているうちに、門の前に精霊魔術師が来たと知った見物がたかりはじめた。虫が光に吸いよせられるようなもので、精霊魔術師は目立つのだ。  エイダは人々の視線を気にしたふりもなく、マントの裾をひく子供たちの頭をなで、俺にむかって「おいでおいで」をした。ベールをあげ、内緒話をするように口元に丸めた手をあてる。聞きもらすまいとかがんだ俺にそっとささやいた。 「ねえ、アーベル。扉を開けなさい。あなたはもう大丈夫だから」  エイダの目線は暗いままの屋敷をさしている。正面扉の上り段に、飾るのを迷った常緑樹の枝が前に置きっぱなしになっていた。 「ミレヴァはどんなときでもあなたを大事に思っていたわ」  ひさしぶりに聞いた伯母の名前に、腹の底が絞めつけられるような気がした。間違いをみつけられた子供のころのように。 「そうはいっても、俺は、怖いんです」  なんとか俺は言葉をひねりだした。 「俺には自信がない」 「アーベル、あなたは自分がどのくらいのことができるか、わかってないだけよ」  エイダは花が咲くように笑った。 「あなたもわたしも、使うものはすこし違うけれど、魔術師よ。だから最初に教わったでしょう。恐怖は心を殺すもの」  冬祭りの最初の日、城下の人々はそろって広場へくりだす。屋敷の周囲は昨日とうってかわって静かだった。一方俺は午後の日差しが傾くまで、工房の寝台でうずくまっていた。  朝からずっとためらい、迷いつづけていた。屋敷を閉じて以来何百回目になるだろうかと思いながら作業台の図面をくりかえし眺め、ようやく意を決して必要な道具をあつめた。羽織ったローブがひどく重く感じられた。  屋敷の閉じた扉の前に立つ。  腹の底からひりひりするような緊張がわきあがる。  俺は鍵に魔力を流し、慎重に解錠した。パチっと火花が散るが、ショートしたわけではない。もともとここの回路は、ある意味で完全に「壊れている」のだ。  扉がひらく。冬の日差しが明るい外に比して、内側はまるで靄がかかっているようにぼんやりと、くすんでいるようにみえる。不自然に静かだった。ローブの内側につるした道具がぶつかりあうかすかな音と、衣ずれしか聞こえない。  記憶にある屋敷はこんなに静かではなかった。いつも音がしていた。伯母の椅子がきしみ、上階で伯父が歩き回る靴音。窓から聞こえる小鳥のさえずり。本をめくる音。暖炉の焔から火花がはじけ、重ねられた皿がカチャカチャ鳴る平和な日常の音楽。さらに屋敷のいたるところで伯父のつくった回路魔術の気配が唸っていた。子供のころ、誰もいない部屋をみつけると、俺はこっそりあちこちの羽目板に手をあてて、自分の魔力に感応する回路をさがす遊びをしたものだった。  だが、伯父も伯母もいなくなったいまは屋敷それ自体が死に、いまも死んだままでいるようだ。静けさのあまり耳鳴りがはじまり、だんだん大きくなる。俺は玄関の広間から右手の寝室の敷居を抜ける。  ふいに頭上で澄んだ鐘のような音が鳴った。敷居をまたぐ者から魔力を引き出し動き出すような回路が組んであるのだ。次の一瞬で、驚くほど急激に屋敷は生気を取り戻した。俺は自分で組み立てた探知器を敷居や壁にかざし、屋敷の内側に回路を使ってはりめぐらされた微細な〈力のみち〉を探した。  突然家のはるか上の方で、もっと大きな音がくりかえし鳴った。  やはり鐘のような音だが、もっとひび割れて、不安な気分にさせる音だ。さらに大きな音をたててどこかの部屋の扉が閉まる。呼応するように厨房のあたりで物がひきずられるような破壊音が響いた。ついで壁に何かが投げつけられるような音。  俺は手のひらにつめたい汗を感じながら、一番近い〈力のみち〉をたどろうとする。以前の死んだ静けさが嘘だったかのようにあちこちで音が鳴りひびく。壊れた回路から妙な魔力が漏れ出ていて、頭が痛くなってくる。  大きな物音を立てて、寝台の脇にあった椅子が突然倒れ、俺はびくっとして立ち止まった。  上階には誰にも触ることが許されなかった伯父の研究室がある。伯父は王城の師団に所属しなかったが、研究室には塔顔負けの設備がある。寝室につながる居間のすぐ横に、上階へ通じる階段室の扉がみえる。  それがゆっくりと動き――閉じた。  何者かがどこかで待っているかのように。  恐怖は心を殺すもの。  俺はまぶたをかたく閉じ、口の中で唱えた。

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