10 / 85

【第1部 馬とピザと】第10話

 この国の魔術師は呪いや死霊を信じない。魔力は誰にでも備わるものだからだ。しかし魔力が多い精霊魔術師は、自分の声と体だけで〈力のみち〉をつくることができる。その力はふつうの人間には見えない遠くや、先行きが不明な未来を読んだり、体の内側で血をせき止めるものを壊したりできる。  一方で回路魔術師は、回路を使って〈力のみち〉をつくり、増幅する。回路を使えば、物を動かしたり、腐るのを防いだりできるし、決して壊せない錠前や、動かない落とし戸をつくることができる。  精霊魔術師も回路魔術師も呪いとは関係がない。人に悪さをする呪いや死霊はおとぎ話に属するもので、その根は個人的な恐怖にあるのだと、魔術師をめざすものは教えられる。恐怖は人間の心を殺すものだと俺たちは教えられる。それは本来あるべき〈力のみち〉に対して人を盲目にするのだ、と俺たちは教えられる。  恐怖は心を殺すもの。  それがいま足元から俺の背中を這いのぼる。  ここ数か月というもの、すっかり馴染みぶかくなった震えがうなじの毛を逆立たせた。金臭い匂いが鼻をつく。深く呼吸しようとするが、背中が硬直してうまくいかない。伯父が張りめぐらした回路の魔術が壁や床で抑えられないまま混沌と渦巻いている。回路は俺の魔力を勝手に使っているのだ。  たいした量ではない。魔力が少ない者はめまいを感じるかもしれないが、俺は耐えられる。しかし俺の心はちがう。おかしな具合に曲がりくねった〈力のみち〉が、俺の魔力と心を同時に別の場所へつれていく。  気がつくと俺はローブを着ていない。俺を守る魔術師のローブ、魔術師の道具が入ったローブを。はだしの足が踏むのは寄木細工の床だ。昔はよく磨かれて鏡のように光っていて、あちこちにちらばる節穴は星形の木片で埋められ、魔術によって空の星のように屋敷中で輝いていた。その星の輪郭がぼやけ、みるつもりのなかった像が目の前に結ばれる。  俺は一瞬でたくさんの出来事を体験する。過去の最悪の日々、俺の膝をつかせ、二度と先に進めないと首をたれたときのこと、エヴァリストの裏切りを知った時のこと。伯父の訃報を受け取った日のこと。この屋敷での最悪の日々、俺のことがまったくわからなくなっていた伯母に再会した日のこと、最後に伯母をみつけた日のこと。  雨の音が聞こえる。あの日、雨が降っていた。かたく閉じたままの扉に業をにやし、ありったけの力で鍵を壊してこの家に入ると、天井から壊れた羽目板が俺の上へいっせいに降りそそいだ。鳴りひびく割れた鐘の音と強烈な死の匂いに息をつめながら、施療院から消えた伯母が寝台に横たわっているのを、俺はみたのだった。伯母のドレスはぼろぼろで、変色した爪の間は土だらけだった。そこにいたのは伯母であって、伯母ではなかった。もう遠くに行ってしまっていたのだった。  俺が生きている時間のなかに、体を失った魂は残らない。彼らは淵の向こう側にいる。  俺は目をつぶりたかったが、動くことができなかった。ただ屋敷の記憶を見続けた。〈力のみち〉が俺の内部を通りすぎ、押し流す。  ふと、ピザの匂いがした。  香ばしく焼けたパン、溶けたチーズとハム、そして花の匂いのするワイン。  きつい死の匂いではなく、生きているものの香り。  あれは俺の誕生日だった。  光がゆっくりと戻ってくる。星形の埋木に焦点が合う。自分がまだ息をしているのがわかった。部屋は空虚で、誰もいない。ミレヴァ、と伯母の名を呼ぶ。あなたは俺がわからなかったのに、俺の生まれた日を覚えていた。俺の生まれた日は、祝うべき日なのだと、あなたは思っていたのだ。俺ひとりでは到底食べきれないご馳走まで用意して――  ――そしてクレーレが、ここへ現れたのだった。  俺は空っぽの寝台をみつめたまま、声を出さずに少しだけ、泣いた。  遠くでゆがんだ鐘の音が響き、我に返った。  伯父のつくった回路をめぐる〈力のみち〉は、俺の魔力を盗んで壁の中をいきいきと動きまわっているかのようだ。しかし、いったいどうしてそんなことが起きるのだろう?  俺は大きく息を吸う。ここで何が起きているにせよ、その正体は呪いでも死霊でもない。伯父がここに回路魔術を仕掛けたなら、それは麻痺を患った伯母を完璧に助けるものだったはずだ。たとえ自分がいなくなった後でも伯母を幸福にできるように。  だがその回路は何らかの原因で壊れてしまった。その結果、伯母はこの屋敷でまともに暮らせなくなり、病んでしまった。そして今では、まるで野生のような〈力のみち〉が屋敷を縦横無尽に荒らしている。  まるで野生のような――?  背後で床がきしんだが、魔力に集中していた俺は気づかなかった。ふと〈力のみち〉が静まった。手のなかで、俺が何カ月もかけて設計し組み立てた探知機が強烈に震える。ある一点を示している。あの羽目板のしたに何かが「いる」。俺はそっと足を踏み出し―― 「アーベル」  ――背後からかけられた声に飛びあがった。 「うわっ」 「大丈夫か。驚くじゃないか」 「驚いたのはこっちだ!」  つんのめり倒れそうになった俺の腰をうしろからクレーレがつかまえていた。バランスを崩した俺にひきずられ、そのままふたりもろとも床へ倒れこむ。止まっていた時間が動き出したように〈力のみち〉がめぐりだし、あたりいちめん、床でも壁でも魔術の渦が鳴った。  俺の魔力もまた一緒に流れ出そうとするが、つながれた馬のように俺をとどめているものがある。つよい腕がしっかりと俺を抱きしめている。俺はどうにか自分を魔術の渦から切り離す。羽目板の向こうで〈力のみち〉が不満げにうごめく。俺はおぼれる人のようにやみくもにクレーレの首に手をまわす。会わなかった時間などなかったかのように、まっすぐにみつめる眸が俺を射すくめ、胸の奥に突き刺さる。俺は抗いようもなくクレーレに繋がれている。  だから俺はクレーレの頬に手をのばし――  そして、俺たちはキスをした。

ともだちにシェアしよう!