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【第1部 馬とピザと】第11話

 クレーレは革と手綱と切りたての針葉樹の匂いがした。かみつくような性急な口づけにはじまって、俺たちはたがいに舌をさしだし、からめあい、吐息を交換しあっている。触れ合う肌と粘膜の熱さに背中がふるえ、俺はかたく目をとじて、クレーレの錨のように堅固なたしかさの中に溶けた。クレーレは口づけを続けたまま俺の背中を支えて抱き起こし、耳元でささやく。 「アーベル、大丈夫か」 「ああ。どうしてここへ?」 「塔にいないと聞いたから会いに来た」  何のためらいもない答えに俺は思わず小さく笑いをもらした。 「どうやって屋敷に入った?」 「物音がするので正面扉へ行ったが、どうやっても開かないのでしばらくそこにいたんだ。そうしたら突然内側から開いたが」  俺はクレーレの額をなぞった。薄赤いコブができている。 「もしかして、何かぶつかったりしたか」 「入ったとたん、天井からかたいものが落ちてきた」 「悪い」 「アーベルのせいじゃない」 「まあ、そうなんだが……」 「それにしても、ここはいったいどうなっているんだ?」  多少あきれた声に聞こえたが無理もない。外見よりずっと屋敷の中は荒れている。魔術が勝手にあばれだし、通る人間を威嚇したり攻撃したりするせいだ。  そしてやっと、今になって俺はその原因に思い至っていた。大陸にいたときと同様に、観察した物事をそのまま素直に受け取っていれば、もっと早くわかったかもしれない。自分はいまこの国にいるという常識にとらわれて気づかなかったのだ。  俺は苦笑し、それをみたクレーレは何を思ったか、俺をもう一度引き寄せて抱きしめた。  埃だらけの床の上で、腰にまわるクレーレの腕が心地よい。どんな言葉を返せばいいのかわからないまま、俺はその温かさにひたっていた。屋敷の静けさはいまでは生きた静けさだった。  クレーレの脈と鼓動のひびきに聞き入っていたのは一分かそこらだったはずだ。でもとても穏やかで、とても長く感じられた。  ふとクレーレの肩が緊張する。 「アーベル……後ろをみろ。何か光っている」  俺はそっとクレーレの腕をはずし、床のローブをつかんだ。急激な動きをさけ、ゆっくり体の向きを変えながら立ち上がる。  羽目板の奥に猫のような金色の眸があった。  それが大きくなり、細くなる。  やっと出てきたな。俺はつぶやく。クレーレが小声でたずねた。 「あれは……なんだ?」 「精霊動物だ。この国にいるとは知らなかった」  あちらにはよくいるんだが、と内心でつぶやきつつ、俺はローブの内側から金属の糸と銀箔をとりだした。いま思えば、あらゆるしるしが精霊動物をさしていたのに、準備はないときていた。これで間に合うかどうかは怪しいが、やってみるしかない。あれが驚いているあいだに仕掛けてしまわなければならない。  指がからまりそうな速さで両手にくぐらせて糸を編む。ひろげた銀箔のうえに模様を垂らす。すべての糸が複雑な模様を描き終わると鉛で留めた終端をローブの内側につなぎ、できあがった回路の前に膝立ちになると回路の中心へ指を垂直にたらす。  空気を媒介に、じかに魔力を流す。 「こいこいこい……さあ」  祈るような時間が過ぎたあと、ふいに羽目板の中の眼が動いた。つぎの瞬間、細長いからだがみえないほどの速度で部屋をつっきり、糸の模様めがけてまっすぐに飛び込んでくる。思ったよりも大きい。イタチかカワウソのような胴体に三角の顔がついている。それは俺が飛び退るのとほぼ同時に模様の中央へ入り込み、くるくると回転したあと、とぐろを巻くように丸くなって、落ちた。その隙を逃さず、俺はローブにたくしこんだ糸を引く。  一瞬で銀箔の回路は精霊動物を内にとじこめた丸い金属糸の毬になった――が、みるからに不安定な毬だ。中身が狂ったように暴れていて、どのくらい保つものか。ほとんど野良猫のようだ。  ふつうなら精霊動物がいるところには使い手がいるはずだ。こいつの飼い主がどこにいるにせよ、さがすのはあとまわし、まずは屋敷から出さなければならない。せめて精霊魔術師がいればと願う。動物に回路魔術は合わないのだ。 「クレーレ、どいてろ!」  俺は毬から伸びた糸を握り弾ませるようにしながら、いちばん近い開口部、つまり庭に面した両開き窓へ駆けよった。毬はものすごい力で俺の腕をひっぱり、やみくもに逃げようと暴れまわる。俺は窓を蹴破って外へ飛び出し、庭に着地した。門脇につながれたクレーレの馬がいななきを発し、そのとたん毬がはじけた。  金属糸と銀箔がはらはらと空中に飛び散った。なめらかな毛皮の、イタチめいた生き物がくるくると空中でサーカス芸人のように何回転もまわり、地面に飛び降りる。俺は手のひらに残された糸の球を威嚇するように振りまわす。生き物はびくっと後ずさると一呼吸する間もおかず、稲妻のように敷地から飛び出し、門のすぐ外で消えた。  やはり逃げられた。俺はちぎれた糸をひろいあげる。  精霊動物は魔力に寄ってくる。あれは伯父が作った回路魔術や、研究室に残存する魔力を喰っていたのかもしれない。いや、そもそも屋敷の回路魔術が壊れた原因はあれかもしれない。管理されていない精霊動物は大陸では害獣あつかいされている。しかしそもそもこの国に精霊動物が棲んでいるなど、俺は聞いたことがない。 「血が出ている」  いつの間にかクレーレが隣に立ち、俺の頬に指をあてる。触られるとひりひりした。窓を破ったときのガラスでかすったらしい。 「たいしたことはない」  俺はローブの内側から清潔な布を取り出したが、拭うまえにクレーレの手が取りあげ、俺の頬にあてる。なぜか恥ずかしさに顔が火照った。 「あれは何だったんだ」とクレーレがいう。 「精霊動物だ。正体は俺もよく知らない。動物が精霊化した生き物……かな。本来、大陸の先住民の守り神でね。あっちでは金持ちのペットだったりもするが、連中、動く水がだめなんだ。船も嫌う。だからこっちにいるとは思わなかったが、もし持ち込まれているなら厄介なことになる。誰も精霊動物のことなんか知らないだろうし……もっとも、ここみたいに回路魔術だけでびっしり守られている屋敷はそうそうないだろうが……」  話しながら俺は手早く金属糸を編むと、屋敷の周囲を歩き出す。手ごろな場所に糸の網をまいておくのだ。すでに糸の罠に一度かかっているので、今後はたとえ近くに来ても匂いで寄りつかなくなるだろう。とはいえ精霊動物が棲みついていたなら、伯父の屋敷は見た目以上に傷んでいるにちがいない。 「結局、内側から全部、やりなおさなくてはならないな。住めるようになるのは当分先だな」  屋敷を見上げて俺はため息をついたが、気分はこれまでになく晴れていた。少なくとも最初の一歩にはなったという気がした。  もう俺はここを恐れなくていいだろう。 「冬祭りのあいだに片づけて、屋敷で眠れるようにするつもりだったが。どうみても無理だな。まあいいか」 「アーベル、よかったら――」  クレーレが何かいいかけたとき、突然俺のローブの下で鋭い音が鳴り響いた。  耳障りな金属音が長く三回、短く四回。 「なんだ?」 「警報だ。城の――」  その瞬間俺はこの音が意味することを理解し、すべてがつながったのを知った。警報はルベーグのちょっとした仕掛けが作動すれば鳴る。鳴った理由はもう明らかだ。明らかでないのは……。 「頼む、急いで城に行きたい。馬を貸してくれ」  だがクレーレはもう手綱を取っていた。 「俺も一緒に行く。前に乗れ」

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