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【第2部 ローブと剣】第5話
「なにをそわそわしているんだ? 近衛騎士は大広間では大事な飾りなんだから、落ちつけよ」
グラスを傾けながらエミネイターがいった。
羽織ったローブの下に見え隠れする軽やかな男装と尖った美貌が、きらびやかな夜会の中でもきわだっている。この場にいる回路魔術師は彼女ひとりだが、臆したふうもない。クレーレは装飾の多い騎士服――近衛隊の準礼装――を着て、みばえのいい鞘におさめた剣を下げ、大広間を歓談する華やかなドレスと礼服のあいだを透かし見る。
今夜、郊外の一等地に館をかまえる貴族の夜会には、王族も含めた未婚の男女や付き添い役、大商人にギルドの重鎮、めずらしいことに精霊魔術師のローブまで闊歩している。真夜中の約束で頭がいっぱいで、あまり遅くならないうちに王城へ戻りたいと願うクレーレを裏切って、たいへんな盛会だった。いまは護衛中の第三王女が奥で休憩しているところで、近衛騎士は全員大広間へ戻されている。これも目的のひとつなのだとエミネイターが笑った。
「王族を呼ぶと近衛騎士がついてくるからな。みんな箔をつけたがる」
「あなたのそばにいると目立ってしかたない気がするんだが」
「逆だよ。むしろ付き添ってやってるといってほしいね。従弟殿」
姓こそ違うがエミネイターはクレーレの従姉だ。しかも彼女は回路魔術師団の幹部として、年の離れたクレーレの父と公然と仕事上の対話をかわす――あるいは文句と要求をいいあう仲だった。クレーレも公的な場所でこそ敬称をつけて呼ぶものの、本来はきまり悪くなるくらい直截にものをいう姉のような存在だった。とはいえ、彼女がアーベルの直属の上司だと知ったのは昨年のシャノンの事件のときである。
アーベルの方で彼女がレムニスケートの親族だと知っているのかどうかはわからない。自分は彼に話しただろうか、とふと思う。
アーベルとふたりでいるときは、城下の庶民の噂や景気のこと、外交にいたるまで、さまざまな話をした。アーベルは観察が細かく、ささいな物事にすらクレーレが思いもしなかったような視点を返す。一方でアーベルは、レムニスケートの動向も含む貴族のゴシップについては無関心だった。ときにあまり快い話題ではないとも感じているようだったから、自然とクレーレは話さなくなった。
だがいま、王都の社交界は浮足立っていて、ゴシップには事欠かない。王族の結婚にまつわる公式行事が控えているなか、貴族の夜会は回数を増している。アルティンの婚約というよき知らせにあてられて結婚を夢見る若者もいれば、この機会に乗じて他家と有利な婚姻を結ばせたい年長者もいる。宮廷にはさまざまな思惑が渦巻いている。
警護を名目に駆り出された近衛騎士もこの渦と無縁ではない。なにしろほぼ全員が貴族の子弟で、未婚の者も多い。そしてエミネイターは完全に物見遊山の見物気分らしい。
「第一王子のおかげで一足早い社交シーズン到来なんだ。近衛隊で独身です、浮いた噂もありませんなんて男がいれば、何もしなくても蛾がひらひら寄ってくる。私のそばにいるくらいの方が安全だろう」
「未婚というなら、あなたも」
「私は回路魔術師だからな。誰も本気にはしない。魔術師になることの利点のひとつさ」
そううそぶくエミネイターは、どこまで素なのか演技なのか、既婚未婚問わず、貴族の女性が安全にもてはやせる美青年の役どころをずっと担っているのだった。ときどき「女装」することもあり、それはそれで相当な美貌なので、社交界に疎い人間はますます混乱するのだが、なぜ彼女がそんな道化のような役割をあえて引き受けているのか、クレーレにはわからなかった。子供のころからこの従姉は自由奔放なふるまいで知られていたが、宮廷の複雑な力学と関わる今は、なにか事情があるのかもしれないと感じていた。
公にできない秘密の恋人がいるのではないかと勘繰るときもある。急に聞いてみたくなった。
「エミネイター。前から聞きたかったんだが、魔術師というのは――精霊魔術師も回路魔術師も、結婚しないものなのか?」
「うん? そんなことはないよ。とくに精霊魔術師は学院で早々に出会って出来上がるのが多いらしいな。連中はまあ、あれだから」
エミネイターは独特の雰囲気を漂わせながら広間に佇んでいる白いローブをみやった。
「彼らは生家が貴族だろうが庶民だろうが気にする必要がないんだ。そもそも魔力が釣り合わないとやりにくいらしい。回路魔術師だって幹部連中はたいてい結婚している。しないのは個人的な事情があるから」
精霊魔術師のはなつ魔力の気配は人を惹きつけると同時に近寄りがたくさせる。もっともクレーレ自身は精霊魔術師にあまり感銘を受けたことがない。自分は魔力の気配にかなり鈍感なのかもしれなかった。アーベルはあきらかに敏感なので、逆に自分の鈍感さを自覚するようになっているのだろう。当のアーベルはというと、クレーレが魔力にあまり反応しないことを気にしているふうでもないのだが。
ほんとうに、なにかにつけて考えるのはアーベルのことばかりだ。
早く塔に行きたいのに、いつになったらこれは終わるのか。
「あなたも、個人的な事情が?」
「まあね。さすがに従弟殿にも話せないが、私の事情はどうでもいいだろう――私はレムニスケートじゃない。だが従弟殿は、レムニスケートである以上、ずっと蛾がついてくるぞ」
エミネイターはにやりと笑った。魅力的な笑顔だが、未婚の男は並びたくないだろう。なにしろ通りかかる女性はまず彼女を憧れのまなざしでみつめ、次にそばにいる男に視線を移すのだ。ただしその男があまりこういう場に出ないレムニスケートだとわかると、すぐに紹介を求める者の列ができる。
男女問わず、レムニスケートだと知ると積極的に話しかけてくる者は多い。社交界でレムニスケートは珍獣のようなものだ。珍しくて貴重。そして男女問わず、クレーレに決まった相手がいるのかどうかを知りたがる。
もっとも今夜のエミネイターは人を寄せつけない雰囲気で、寄ってくる者をさりげなくかわしていた。むしろ、手持無沙汰にしていたクレーレをみつけるとさっと横に陣取ったから、自分に用事があるのだろうと予想はついた。クレーレに話すあいだも、遠巻きに見ている人々とは会話の聞こえない距離を保っている。
そして前触れなしに爆弾をおとした。
「アーベルをレムニスケートの事情で動揺させないでくれ。めったにいない逸材なんだ。貴族との色恋沙汰で失いでもしたら、大変な損失になる」
クレーレは凍りついた。
「……いつから知ってた?」
「最初からさ! 従弟殿の行動はわかりやすい」
それは何もかもお見通しといいたげな口調で、クレーレはむっとする。
「レムニスケートの事情など、俺とアーベルに関係ないはずだ。だいたいどうしてあなたに関係がある」
「関係あるさ、私の部下なんだ! うちの師団は暇じゃない。彼が王宮勤めで忙しい騎士と都合をつけるために消耗するんじゃ、目も当てられない」
思ってもみなかった言葉だった。クレーレははっとする。アーベルに逢うために自分は必死になっていたが、アーベルがどうしているのかを考えたことはなかった。しかしクレーレが彼に逢おうとしたとき、実際に逢うことができたのは、もしかしたらアーベルの方でクレーレを探していたからなのだろうか。
王城は広く、回路魔術師の仕事の範囲も、初めて知る者は驚くほど広い。
「消耗するって……そんなことがあるのか?」
「魔術師ってものを甘く見ないでほしいね。私たちは繊細なんだ。ましてや従弟殿が彼に飽きたりした日には、どうなることか」
「そんなことはありえない」
瞬間的に腹の中が沸き、クレーレはあごをあげる。それをじっと見ていたエミネイターはわざとらしく眉をあげ「そうか?」と続けた。
「今の従弟殿ならそうだろう。でも考えてもみろ、従弟殿はこの先、彼と宮廷で並んで立てるわけでもないし、ましてや結婚できるわけでもない。しかもレムニスケートで近衛騎士という将来有望株だ。今日だって従弟殿目当ての連中があちこちにいるが、これを永遠に追い払うのか? 宮廷には出せない非公式な恋人がいるからって? ずっとそうやって続けられる自信があるなら、たいしたものだな」
「――何がいいたいんだ」
「王宮勤めになって逢えないことでアーベルをやきもきさせているくらいなら、そっちが振られたほうがまだましだといってるんだ。私は彼を失いたくないんでね。嫌なら何か考えろ。腐っても前向きなレムニスケートなんだろう」
――その言葉が意味するものを呑みこむまで、時間がかかったように思う。
ふいにぼうっと押し黙り、耳まで火照ったクレーレにエミネイターが目をむく。
「……おい、なんて顔をしているんだ。もしかして、アーベルが従弟殿にべた惚れなの、知らないのか?」
「――そんなにあなたにわかりやすいくらい?」
「……まあ、私直属の部下の中では公然の秘密だな。計算の途中で観測箱をみにいくなんて、ほんとうはやめてほしいくらいなんだが、気の毒な気もして――なにをにやにやしている、気持ち悪い」
「いや、その……うれしくて」
「犬みたいな男だな。ルベーグなんて、変人のくせにこの点アーベルにずいぶん気を使ってるんだぞ。ただ私たちは宮廷には知られない方がいいと考えているから、注意はしているが」
ふたたび、エミネイターの言葉が意味するものをクレーレは噛みしめるように考えた。いつのまにかすっかり意識から抜け落ちていた周囲の宴の喧騒に一度注意を戻す。結論はすぐに出た。誰も近くにいないのを確認してから、慎重に口に出す。
「それなんだが、俺としては――公式に表明してもかまわないのではないかと、思っている」
一呼吸おいて、言葉をつなぐ。
「このままではアーベルとほとんど逢えなくなってしまう」
昼間アルティンにつかまって墓穴を掘った御前試合の件を簡単に説明すると、クレーレは続けた。
「近衛隊にいればこんなことがこの先も増えて、忙しくなるばかりだ。レムニスケートである以上義務を放棄するつもりはないが、アーベルに信用してほしい。彼と離れるつもりはない。アーベルは俺を……信じていない。だから、公にして認めてもらうのがいちばんだと思う」
「だがなあ、クレーレ。従弟殿。たしかに宮廷は騎士団内部の友愛関係なら黙認しているし、なかには認められているも同然の連中だっているさ。でもアーベルは回路魔術師だ――我々の師団は、王宮での地位なんて、ただの便利屋以外のなにものでもないんだ。そのくせ、防御魔術すらろくに信用しない輩もいる。聡明なことで有名な第一王子だって我々の仕事をろくにわかっちゃいない。公にしたら従弟殿はよくても、アーベルに負担をかけることになりかねないぞ」
そこには一理あった。王宮で回路魔術が不当に低く扱われているのはよく感じている。書記のような専門職ですらない、雑用係のように思っている官吏もいるのだ。アルティンについても、回路魔術の認識はたしかにその通りだった。
「ああ。ありうるな」
「私だってほんとうは従弟殿がアーベルに振られればいいなんて思っているわけじゃないが」
「――そのいい方はやめてくれ。不吉だ」
「とにかく慎重にやるんだ」
わかった、と答えようとしたその矢先だった。
侍従が階段を転げるように駆けおりて、あたりをきょろきょろみまわす。混雑した大広間のなかで喧騒から離れて立つクレーレの騎士服をみとめると、足がもつれる勢いで走り寄ってきた。
「騎士殿――上階に賊が出ました! 来てください!」
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