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【第2部 ローブと剣】第6話
侍従に場所を確認し、手早く指示をいくつか与えてクレーレは裏階段を駆けあがった。階下の音楽やさざめきが表階段の方から響いてくるだけで、上階は物音ひとつしない。侍従は閉じられた主人の寝室で不審な物音を聞いたという。扉をあけたところで侵入者を目撃し、即座に駆けおりてきたらしい。
物盗りならすでに逃亡にかかっているはずだ。正面階段と館の庭園には別の騎士が急行している。庭か、正面か、こちらに来るか。階段の天辺で正面から気配を察した瞬間、クレーレは剣を抜く。
見えてすらいなかったが手ごたえはあった。切りつけられてひるんだ瞬間を押し切ろうとするが、相手の剣の突き返しにさえぎられる。賊は自分より背は低いが肩幅は広い。階段から跳びあがり、廊下を後ずさる相手に突きをいれるが、意外に巧者らしくすばやく体勢を戻してきた。振り下ろされる刃と刃を数回切り結ぶと剣尖が腕をちらりとかすめる。気にせずそのまま突き進み、相手のバランスが崩れた隙を見逃さず足払いをかける。
後ろに倒れた相手にのしかかり、首筋に剣をあてて圧迫した。背後で別の近衛騎士が庭にいた賊を捕縛したと叫んでいる。クレーレは息をつく。ほんの数分の切り合いにすぎなかった。
捕まえるよりも、他の近衛騎士と一緒に賊を拘束する方が時間がかかった。騒ぎのあいだ混乱した夜会を鎮めて事態を収拾することにも。もっとも賊が捕縛されたとわかると騒動はしだいに落ち着き、やがて城下から到着した警備兵が賊を連行した。
エミネイターはいつの間にか姿を消している。危険はなさそうだったが、第三王女はいそぎ城へ戻ることになり、クレーレは安堵した。
賊は最近郊外の貴族の館で荒稼ぎしていた一味らしい。夜会で油断している隙に侵入し、宝石類を盗んでからひそかに逃走するのが常套手段だが、発見されても力技で逃げ切っていた。クレーレが捕縛した剣士は賊の護衛役として一部に知られていた男だ。
「隊長が城下の警備隊にいればね。もっと前に捕まえられたかもしれないのに」
偶然、夏に部下だった警備兵が当番だった。疲れた顔でクレーレに気安くぼやく。近くにいた近衛騎士が序列を気にしない口調を聞きとがめて目をむくのがわかったが、クレーレは気にしなかった。
「今回はたまたまだ。まぐれだな」という。
まだ隊長と呼ばれるのがクレーレには面映ゆかった。近衛騎士の仰々しい服装でも、城下の兵士の対応が変わらないのがなぜかうれしい。
「まぐれで捕縛はできませんよ」と兵士は笑った。
王女の馬車を囲んで王城へ戻り、報告を一通りすませたころには夜もすっかり更けていた。控えの間では待ち構えていた第一王子のアルティンと近衛隊長に報告をし、やっと解放されたが、時はすでに真夜中だ。
約束の時間だが、もう遅れている。万難を排して行くと請け負ったのに、悔しさで胸がつまる。でもどうということはない――急げばいいのだ。
足を速めるクレーレの後ろで、他の騎士たちはいまだ、今晩の事件について興奮気味に語り合っていた。近衛隊の騎士のほとんどは城下の警備兵よりもこの手の事柄――盗みや強盗のような、王都の治安を乱すケチな犯罪――になじみがないのだ。一時のことであれ城下の警備隊を指揮していたクレーレにはいささか奇妙に感じられる。とはいえクレーレがこの年齢で警備隊の小隊長を務めていたのは、レムニスケートの一員ゆえの特別扱いでもあり、だから他の貴族に経験がないのを責められはしない。
宿舎に戻って服を着替えると剣がかすった傷からの出血は止まっていた。打たれた跡が騎士服の下で黒いあざになるのはわかっていたが、訓練中につくものと大差はない。
精霊魔術師が治癒を申し出たのを断ったのは時間が惜しかったからだ。今になって鈍い痛みが響くが、師団の塔へ行かなくてはならない。アーベルが待っているはずだ。クレーレは外套をはおり、慌ただしく部屋を出ようとした。
――突然、腕に不自然な振動が走り、腕が勝手に揺さぶられる。
はっとして袖をまくった。ずっと左手首に巻き付けていた革のバンドの、銀の模様がたしかに薄く光っている。
おそるおそる手首を持ち上げて耳にあてた。
バリっと短く雷が落ちるような音がして、人の泣き声とも獣の唸り声ともつかない音がらせんを描くようにぐるぐる回るように響くと、急にひとつにまとまる。
『クレーレ?』
呼ぶ声がした。耳というより、頭の中にじかに鳴り響いた。アーベルの声だ。クレーレは驚きにみたされて手首を耳から離し、薄い革のベルトをみつめる。
「アーベル?」
とたんに頭の中で『クソっ』と悪態がつかれた。
『悪い、クレーレ? 聞こえるか? いや、意味ないか。いまどこにいる? いや……そうじゃなくて』あわてたような、ひとりごとのような早口がクレーレの頭の中でまくしたてられ、背後で堅い紙をくしゃくしゃに丸めるような音ののち『聞こえているなら、手首につけた回路の真ん中の結節――丸い印があるだろう。その上を二回、指で叩いてくれ』
とても奇妙だった。自分以外誰もいない部屋で、頭の中にアーベルの声が響くのだ。腹の底がひっくり返りそうなのに、こちらの声は聞こえていないらしく、それがひどくもどかしい。ともあれクレーレは指示の通りに手首の革に描かれた模様――回路の中心のしるしを叩いた。
『うっ』うめくような声が返る。
『悪い、強すぎる。もっと弱くていい。二回叩いてくれ』
頭の中で響くアーベルの声は、まるで霊魂だけの存在のようだ。今度は軽く撫でるようにして、クレーレは二度しるしを叩く。
『了解。つながってるな。聞いてくれ、クレーレ』
幽霊のアーベルがしゃべりつづける。
『おまえがいまどこにいるにせよ、これから双方向実験をやる。クレーレ、なんでもいいから、頭の中で言葉を作ってくれ。なんでも――俺にいいたいことでいい。こっちの魔力で強制的におまえを同期させる。成功すればおまえが考えた言葉が俺に伝わる。通じたら俺は声に出して繰り返すから、それで正しければ二回叩いてくれ。間違っていたら三回だ。わかったら二回、叩いてくれ』
クレーレは二回手首を叩く。
そして今夜ずっと思いつづけていたことを頭の中で言葉にした。一度で足りず、何度も声に出さずに繰り返した。まるで祈りのようだと思う。
『――いまから逢いに行く』
アーベルの声が聞こえると同時に手首のしるしに二回触れ、宿舎を出て全力で走った。
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