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【第2部 ローブと剣】第7話
真夜中に王城を疾走するのは物騒きわまりない。クレーレは誰何の声をかけられる前に警備隊へ合図する。当番騎士はクレーレの顔と近衛隊の徽章をみくらべ、「あ、隊長!」と反射的な敬礼を返す。以前の小隊の部下だ。クレーレが近衛隊に移ってから、小隊長の職位はデサルグが引き継いでいる。
「何かあったんですか?」
「いや、私用だ。騒がせて申し訳ない」
先をいそぎながら、クレーレは内心、夜の城内を熟知していてよかったと思う。気持ちが急いているためか、かすり傷や打ち身の痛みをいまは感じない。後で剣の手入れをしなければという考えが今更のようによぎる。ふだんなら部屋へ戻って真っ先に、着替える前にすませていることだ。
ゆるい坂道の先の師団の塔までたどりつく。さすがに少し息を切らしている。何も考えずに走ってきてしまった。シャノンの事件でこの塔を訪れたときは他の魔術師連中に連れてこられたが、いまはどうすればいいものか。そう思ったとき目の前の暗い扉が明かりで割れた。
のびてきた手がクレーレの肩をつかみ、扉の中へ引っ張ろうとする。
「クレーレ、この馬鹿」
「アーベル」
安堵で吐息がもれた。
「おまえ、馬鹿だな。無理して来なくていいといっただろうが」
腕にさげたランプの明かりをたよりに、狭い回廊を先導しながらアーベルがささやく。今はローブを着ておらず、肩がより細くみえる。その顔がかすかに赤く、声がかすれているのをクレーレは見逃さなかった。ここまですでに三回ほど馬鹿といわれている気がするが、こんな表情で悪態をつかれても好意の裏返しとしかとれない。むしろ快い。
「まあいい、例のアレは……ちょっと見せてくれ」
彼が何の気なくクレーレの手首をとると、はずみで指が打ち身に触れた。わずかにクレーレはびくりとする。
「クレーレ、怪我をしていないか?」
「たいしたことはない。今夜の警護でかすっただけだ」
「なにかあったのか?」
「とある館で賊が出て、すこし……ほんとうにかすっただけだから」
「何をいってる」
急に険しい声になってアーベルは手を離した。足をとめ「こっちだ」と方向を変える。回廊のつきあたりの扉をあけると、そこは棚に囲まれた狭い部屋で、施療院のようなそっけない寝台がふたつ並んでいた。
ランプを置いてクレーレに向き直る。
「手当てするから、そこに座って脱げよ」
「たいしたことはないといっただろう」
「いいから。治療者でも精霊魔術でもないが、こっちにはいろいろ便利なものがある」
そして背を向けると棚をあけて中をごそごそ探りはじめる。クレーレはあきらめて外套をとると、寝台に腰かけてシャツを脱いだ。
「アーベル、ほんとうによくある打ち身とかすり傷なんだ。大げさなことじゃない」
アーベルは耳に入れた様子もなかった。「剣尖で突かれたな」とつぶやきながら、腕の傷を清潔にすると、上から手のひらほどの大きさの布をあてる。
「少し染みるぞ」
かすかな魔力の気配がして鋭く痛みがさしたが、すぐに引いた。
「剣尖は不衛生だし、何がついてるかわかったもんじゃない。大陸ではうっかり者がこれを放置して、よく腕を失くす」
近衛騎士のくせに何をやってるんだ、と毒づきながら、アーベルはさらにクレーレの上半身に目をやり、黒くなった打ち身に繊細な指をのばして透明な軟膏をぬった。こういうのは精霊魔術が本領なんだが、とつぶやきながら、また別の布をとる。表面に繊細な文様――回路が描かれている。魔力に鈍感なクレーレでもさすがにわかる。布を媒介にアーベルの魔力が染みてくると、鈍い痛みがやわらいでいく。
クレーレは目を閉じ、魔力の感覚に酔ったような気分だった。ふいに「これ、とるぞ」とささやくアーベルの声がきこえ、クレーレの手首に巻いたままの革のベルトが外された。
「正直、ほとんど試験にもならなかったが……まあ成功半分、失敗半分、というところだな」
やや落胆したような響きでアーベルはいう。
「アーベルの声は聞こえた――声というか、頭の中に」
「これは声を届けるというより――むしろ念話の回路なんだ。精霊魔術師がたがいに念で意思を伝えるのを回路でやれないかと思って作ってみたんだが……おたがいの魔力がそれなりに強くて、かつ釣り合えば問題なさそうだが、そうでないときは……」
ひとりごとのようにぶつぶついいながら、アーベルは眉間をこすった。
「さっきはおまえの声をきくために、かなり魔力を消耗してしまった。これじゃまだ実用には厳しいな。ルベーグとはうまくいったんだが……」
ルベーグ、という名にかすかな苛立ちを覚え、クレーレはアーベルからベルトを取り返した。回路の中央にそっと触れる。
「でも、こうやって返事をすることはできた」
「…そうだな。どちらかといえばその線をつめるべきかもしれないな。警備隊が使う煙信号があるだろう。回路から回路への信号をあんなパターンの組み合わせにするんだ。それならふつうの人間でもうまくいくかもしれない」
クレーレの体がぶるっとふるえる。痛みはすでになく、ひんやりした空気に鳥肌が立つ。
「すまない。忘れていた。もう大丈夫だな」
気づいたアーベルがあわてたようにシャツをとったが、クレーレは彼の手をつかまえ、そのまま裸の胸に抱きしめた。
腕の中でアーベルは一瞬固くなり、そしてゆるやかに解ける。
「逢いたかった……」
「クレーレ、おまえ、」
唇がその先をつづけるまえに、顎をつかまえて上に向かせ、唇で蓋をした。
ほんの少し口づけるだけのつもりだったのに、いったん重ねるととまらなくなった。寝台に腰かけ、アーベルを膝に抱きよせた姿勢のまま、彼の唇を吸い、吐息の隙間から舌をさしいれる。歯をなぞり、口腔を犯す。濡れた音をたてていったん唇を離し、あごに漏れた唾液を舐めとり、また噛みつくように口づける。アーベルはクレーレの腕の中でもがき、手を解放すると背中に回した。クレーレは裸の背に食いこむ指を感じ、さらにきつく抱きながらアーベルの舌を吸い、内部の繊細な割れ目に舌をはわせる。なすすべない様子で背をふるわせるアーベルの、髪に指を通し、耳のうしろを撫であげる。首元のボタンをはずし、あらわになった首筋に自分の皮膚をかさねる。
「っあ……」
鼻にかかった声がもれ、それで我に返ったようにアーベルはもがいた。強引に顔をそらしてクレーレの胸から身を離そうとする。
「馬鹿、こんなところで……」
そういいながらも眸が欲望で濡れている。クレーレの胸の鼓動がさらに早くなる。
「こんなところじゃないと逢えないじゃないか」
アーベルはかすかに唇をゆがめる。
「……仕方ないだろう。おまえは王宮勤めだし、俺はこんなはずれにいるんだから」
「もっと逢いたいんだ。離れたくない」
「無茶をいうなよ、いまや近衛騎士様のくせに」
「――そんなもの、どうなってもいい」
クレーレは甘くつぶやく。この腕に彼を抱いていられるならなんでもいいと思う。――だが、唐突にアーベルは体をはなした。
「……そんなことがあるわけないだろう」
怒ったような口調だった。クレーレの腕を振りほどいて立ち上がり、あわただしく乱れた服を直す。垂れてくる髪をうしろに撫でつけた。
「どうなってもいいなんてあるはずがないじゃないか。いまは一介の騎士にすぎないかもしれないが、おまえは王宮の基礎と同じくらい古いレムニスケートなんだ」
あっけにとられてクレーレはアーベルをみつめた。何をいいだしたのかわからなかった。
「……だからなんだというんだ」
「俺にかかわって、もしおまえの仕事や立場に何かあったら、俺が困る。今夜だって……傷の手当てもせずに来る必要はなかった」
クレーレのみぞおちに固いものがおちる。
「アーベル――俺に、逢いたくないのか?」
「そんな話じゃない」
アーベルは首を振り、唇を噛んだ。
「おまえはこれからますます宮廷で重用されるはずだ。ただの騎士ではおわらない。もっと王宮内部に関わるようになるだろう――第一王子がおまえに目をかけてるって、ここまで噂がきこえてくるくらいなんだ。もっと慎重にふるまえよ。おまえは俺みたいな大陸戻りの流れ者でも、便利屋でもないんだ。俺のせいで仕事がおろそかになったり誰かに非難されたらどうする? 目もあてられないね」
「そんなことはしないし、起こさせない。だいたい俺がレムニスケートだから、それがどうしたというんだ。たまたまそう生まれついたというだけじゃないか」
「……わかってないな」
アーベルはため息をついた。腹の底から吐き出すような、深いため息だった。淡々と言葉を吐いた。
「おまえは、自分が特別に生まれついたということが当たり前すぎて、その意味をわかってないんだ。おまえはたくさんの特権を持ってる。貴族の特典はもちろんそうだが、レムニスケートだからこそ備わっているものもある。おまえはそれを空気のように当たり前に使って、そのことに気づいてない。そして、そんな特権を持たないというのがどんなものなのか、おまえにはわからない」
「――アーベル」
「でもおまえの特権はおまえの義務とひとつのものだから、おまえはけっして、自分の義務を忘れることなんてないだろう。俺なんかにかまけて、近衛隊がどうなってもいいなんていうのはだめだ。一時の感情に振りまわされて馬鹿なことをするな」
アーベルは喋れば喋るほど落ちついていくようだった。クレーレの中でかっと熱いものが沸く。
「一時の感情ってどういうことだ?――俺がおまえを想ってることを一時の感情だといいたいのか? 何度……好きだといったらわかる?」
「ひとは変わるからな」
「どうしてそんなふうにいう? どうして――俺を信じない?」
「では、おまえがずっと俺を好きだったとして――それでどうなるというんだ? 都合をつけて逢いつづけるのか――こんな場所で?」
アーベルは目を床におとした。唇の端をゆがめて笑った。さびしげな笑みだった。
「おまえは出世して……そして宮廷で俺のことをなんて説明するんだ? 回路魔術師の友人? さすがはレムニスケートだと宮廷の連中は感心するだろうな……石工から大ギルドまで影響力があるだけあって、交友関係も広いってな……」声がくぐもって、さらに低くなる。「まあ、王宮には、おまえの立場に釣り合う人間が何人もあらわれるだろうし――宮廷の出世は、家や親族とセットだ。そんなものと俺は関係がない。いずれは俺たちはただの友人になるんだ。どうせそれ以外にはないんだから」
「――俺はそんなつもりはない」
アーベルは挑発的な眸でクレーレをみた。
「どんなつもりがあるというんだ」
クレーレの腹の底で、ふつふつと煮詰まりつつあった怒りが沸騰した。アーベルの腕をひき、そのまま彼の体をひねると寝台に縫いとめる。全身で、抵抗する肩と腕、足の要所をおさえ動きを封じると、喉へ喰いつかんばかりに顔をよせる。アーベルが苦しそうに眉をしかめる。その表情にこれまで感じたこともない、暗い抑えきれない所有の欲望を感じた。自分の下の熱い体に対する怒りとさびしさと愛しさでくらくらする。
「俺が特権を持って生まれついた、といったな」
とクレーレはささやく。
「だったらその特権を使って――どうにかするまでだ。ずっと離れないでいるために」
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