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【第2部 ローブと剣】第9話

 回路魔術は王城だけでなく王宮をあまねく覆っているのに、回路魔術の存在を王宮にいる者が感じることはめったにない。同様に回路魔術師の存在も、王宮ではほとんど気にかけられていない。  輝くような白いローブで王宮を闊歩する精霊魔術師と対照的だ。彼らは会議や上層部の打ち合わせの席に頻繁にいて助言をもとめられる。王宮の窓からは彼らの居場所――回廊に囲まれた王立魔術団の塔――も見ることができる。近衛隊に入ってからクレーレはシャノンを精霊魔術師の回廊でみかけた。これまで二度ほど話したが、今は『無言の行』なる修行の最中で、クレーレと話ができないらしい。  精霊魔術は奇妙な力だとクレーレは思っている。アーベルによると彼らは心だけで〈力のみち〉をつくることができるのだという。アーベルが精霊魔術を語る口調はいつも憧れの色を帯びていたが、じつをいうとクレーレには彼のいう〈力のみち〉も含めて、よく理解できなかった。おそらくクレーレは一般人に比べて精霊魔術への尊崇の念が薄いのだ。魔力に鈍感だからかもしれない。  とはいえ精霊魔術師は、ふつうの人間なら遠慮して目をそらすようなときでさえ、見透かすような目でみつめてくるから、多少の苦手意識はあった。回路魔術師にそんな印象を受けたことはない。強いていえばルベーグは精霊魔術師にすこし印象が似ているが、ふるまいは真逆だ。  王立魔術団の精霊魔術師たちは、王宮の諮問会議にかならず出席した。しかし回路魔術師の上層部が王宮に来ることはめったになかった。特定の目的の集まり――レムニスケートのお家芸である城の設備や建築に関することなど――に師団長のストークスが呼ばれる場合があっても、レムニスケートの親族であるエミネイターさえ現れたことがない。  それなのに、暗い色をした回路魔術師のローブをクレーレは王宮で日に一、二度はかならず見かけた。王宮だけではない。回路魔術師は王城のさまざまな場所に現れる。そのほとんどは人目にふれない場所で、城壁の点検通路や門の脇、庭園の蔦に隠された小屋などだった。いったんその暗色のローブに目を留めるようになると、これまで気づかなかったのが不思議なくらいである。  防御を担う装置は定期的に点検や調整をしなければならない。以前アーベルがそう話したのをクレーレは憶えている。暗色のローブ姿は王宮の庭園や扉の脇で彼らの仕事をしているのだ。しかしまるで透明な存在であるかのように、彼らは王宮の住人――王族や官吏、侍従、近衛騎士たち――には見えないのだった。  回路魔術師がこんなにも王宮で透明なのは彼らがあまり重要だと思われていないからだ。王宮の住人に「見えない」者はたくさんいる。小姓や格の低いメイド、厨房や洗濯場で汚れ仕事をする雑役夫、必要なときだけ呼び出される書記ギルドの筆記番。  むろん直接かかわった者なら名前を憶えている場合もあるだろう。クレーレは騎士団の厩にいる馬丁の少年なら全員わかるし、蹄鉄を修理する鍛冶も顔なじみで、頼まれれば便宜をはかることもある。だが基本的にこのような「見えない」存在は、呼べばどこからかやってくる、いくらでも取り換えのきく、名前のない者にすぎなかった。  そして回路魔術師も同様に名前のない、取り換えのきく存在だと思われている。  クレーレにとっては衝撃的な認識だった。警備隊にいた間も、回路魔術師が王城でどういった立場なのかをきちんと考えたことがなかったのだ。だが、もし城下の屋敷でアーベルと最初に出会っていなかったら、たとえ王城でアーベルに遭遇したとしても、自分は彼に気づくことができただろうか?  思い起こすと自信は持てなかった。王城で働いているアーベルに出会っても、自分は何とも思わなかったかもしれない。彼を見なかったかもしれない。  もしそうだとしたら、城下の屋敷でアーベルと出会うことができた自分は幸運なのだ、とクレーレは考えを新たにする。あの日たまたま出会えたからこそ、自分にはアーベルの魅力がわかったのだ。もちろん回路魔術師たち、ことにエミネイターやルベーグには魔術師としてのアーベルの価値がわかっているだろうが、彼がほんとうに魅力的なときを知っているのは自分だけだ――  そんなことを思いながらクレーレは顔を赤くし、目の前にいる当の本人に「どうした?」と問われる。 「なんでもない」 「なんか、いやらしい感じだぞ、おまえ」 「なんでもないんだ」 「かまわないが……」  アーベルは眉をひそめた。師団の塔の入り口でクレーレに呼び出されたのだ。  ふたりにはあちこちから好奇の視線が注がれている。クレーレの近衛隊の制服が目立つのだが、呼び出した方は気にしていなかった。 「エミネイター師に面会したいんだが」とクレーレはいう。 「また?」 「ああ」 「それで、またご機嫌伺いか? それとも説得か? 近衛隊が日参とはご苦労なことだ」  今日のエミネイターはドレス姿だった。大きな机には書類が積み重なっている。ドレスを着ているといってもローブを羽織っているために裾しか見えないし、仕草のせいか姿勢のせいか、しとやかにも見えなかった。いつもながら、何を着ていても勇ましく美しい従姉である。その口調には明らかにからかいが含まれていたが、クレーレはなんであれ動じなかった。近衛隊の職務がらみで塔に来て、ついでにアーベルをつかまえられるのなら、何の問題もないというものである。 「もともと助言してきたのはあなたの方だろう。で、どうだろう?」 「御前試合のあいだ警備隊が手薄になるというのはわかるし、こちらも対策を用意しているところだ。ただこの機会に王宮内に分所を作って人を派遣するとなると別問題だ。回路魔術の最大の利点は作動時点で魔術師がいらないってところにあるし、うちはいつも予算と人材が足りないときている。だからストークスだってはいそうですかなんて、簡単にはいわない。私もいわない」  この発端は第一王子のアルティンが思いついた御前試合――城下の警備兵も含め、騎士団全体のトーナメント試合となった――から、最終的に警備計画の見直しが入ったことにあった。ありていにいえば師団の仕事をふやすしかなかった。  以前警備装置の更新のためにアーベルが騎士団に協力を要請したように、今度はクレーレから師団に協力を要請するのが妥当だとクレーレは近衛隊長へ買って出た。その際、王宮内に師団の分所を新設することを提案したのである。なにしろ王宮から師団の塔は離れすぎているのだ。  しかし、レムニスケート家の威光を使った王宮内の根回しはともかくとして、師団本体はクレーレの予想より融通がきかなかった。この件でエミネイターに会うのは三度目である。 「――回路魔術師なら王宮内でも毎日みかけるぞ」とクレーレは応答する。 「ほう。気づいているのか」 「ああ」  エミネイターはどこか猫を連想させる顔でにやっと笑った。 「これもアーベルのおかげか? 騎士団以外のことはさっぱりだった従弟殿が成長するのはありがたいね」  クレーレは無視してたたみかけた。 「前も話したが、どうせ師団の誰かが点検に回っているのなら、ひとりくらいずっと王宮内につめていればいい。存在感が出るし、ストークス師団長に諮問会議で相談にのってもらうにも連絡が速くなる。なにより、王城を回路魔術で防備することについて、上の方の認識が変わるだろう」 「では、従弟殿のレムニスケートがこれまでそう考えなかったのはなぜだと思う? レムニスケートこそが王都の防備の要で、なんでも仕切っているのに」 「それは――」 「回路魔術とレムニスケートはどういう関係にあると思う?」  返事につまったクレーレにエミネイターはまたニヤニヤした。 「レムニスケートは王城と同じくらい古い。王家すら持っていない資料を師団に公開できるか? なぜか歴代のレムニスケート当主はこれにうんといわない。もともと防備の要を回路魔術に置いたのはレムニスケートなのに」 「それは――あなたにも?」 「私はレムニスケートじゃないからな」  自分が当たり前に受け入れてきた事柄が特別だと知るのは奇妙なものだ。何度目になるのか、内心でくりかえしながらクレーレは塔を出る。外は明るい。春がすぐそこに来ている。  

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