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【第2部 ローブと剣】第10話
数日後の正午、クレーレは城壁で観測箱を確認していたアーベルをつかまえた。例によって後ろから抱きしめる。肩口まで伸びた彼の髪をわけ、耳朶に息を吹きかけると、腕の中の体がびくりとして、それからもがいた。
「ちょっ……おまえ最近ちょっと……」
横からのぞきこんだアーベルの顔が赤く染まっている。
「なんだ?」
「大胆すぎるだろう……こんな…」
「もう遠慮しないことにしたんだ」
「遠慮しろよ!」
そむけられた顎をそっとつかんで口づける。アーベルはキスに弱い。クレーレはそんな彼を堪能する。口腔をていねいに舐めて歯の裏までゆっくり刺激すると、我慢できなくなったアーベルの方から求めてきて、しまいには舌を絡めあい、唾液を交換する濃厚なキスになる。この観測箱の場所――回路魔術師たちが管理する場所――には警備隊もほとんど来ないのを知っているからなおさらだ。
やっと唇をはなして、「午後は非番だから、食事に行こう」と誘う。
「その格好で?」
近衛隊の騎士服を着たままのクレーレをアーベルがねめつける。
「なにか問題が?」
「目立つだろう」
「かまわない。むしろ目立ちたい」
「俺はかまう!」
「いいだろう。どうせ目立つのはこれだ」
とクレーレは自分の騎士服をゆびさした。
「一緒に食事をしたいのに、よくわからない遠慮をする意味はない」
「クレーレ、おまえちょっと、性格変わってないか……?」
「もとからこうだと思うが」
「――そうかな」
「食事なんて警備隊のときはよく行っただろう。なにも特別なことはない」
「――っあの頃はまだ」
アーベルはいいかけて口を閉ざした。
「まだ?」
「――なんでもない」
アーベルは唇をかみ、頑なにうつむいた。その横顔をみつめて、クレーレはかわりに続きを言葉にした。
「――俺たちは恋人同士じゃなかった」
とたんにアーベルの耳まで赤くなり、クレーレの中で嬉しさが風船のようにふくらむ。
「……くそっ、エミネイターやテイラーにからかわれるだろうが……」
アーベルは下を向いたまま口の中でぶつぶつ呟いた。
「アーベル、俺は一緒にいたいし、それを恥ずかしいとか、他人に見られて嫌だなんて、少しも思わない」
「――おまえな」
「俺が特別だといったのは、アーベル、おまえだ。だからかまわないだろう。食事にいこう」
アーベルはため息をつき、クレーレを見上げ、さらに逡巡したが、結局うなずいた。
アーベルを連れ歩こうとするクレーレの強引さ――一種の開き直り――はたちまち王宮で噂となり功を奏した――あるいは、クレーレが狙った通りになった。特定の回路魔術師に「クレーレが」つきまとい、仲睦まじくしている、ということが、である。
やがてこれは第一王子アルティンの耳にまで入ったらしく、ということは当代のレムニスケートであるクレーレの父にも当然届いているだろう。回路魔術師の王宮派遣とひきかえにエミネイターが出した交換条件については、最終的に父に聞かなければならないことだ。しかしそれよりもアルティンに「クレーレ、妹が真相を知りたがっているんだが」と呼びとめられる方が先だった。
アルティンの妹とはつまり、第三王女である。
「真相とは何でしょう?」
アルティンの執務室の入り口でクレーレは直立する。楽にしてくれ、と王子は手をふる。
「貴下に意中の誰かがいるのか、ということらしい。妹は例の夜会のせいで、貴下のことが気になっていたようでな。最近噂が流れているだろう」
「私はその噂が正確にどういうものか、知らないのですが」
そうか、とアルティンは机に肘をつく。彼の執務室は高所に位置する王宮のなかでも上層部にあり、窓からは騎士団の訓練場までみわたすことができる。
「噂はふたつある。ひとつは、貴下には秘密の恋人がいて、最近よく一緒にいる魔術師――アーベルといったか――彼と秘密を共有している」
「はあ」
「もうひとつは、その秘密の恋人というのも実は隠れみので、実際は貴下とその魔術師が恋人同士なのだ」
「……ええと、ずいぶんややこしいのですが」
いったい秘密の恋人ってどこから出てきたんだ、とクレーレは内心思ったが、口には出さなかった。噂話というものは複雑怪奇だ。
アルティンは肘をついたままクレーレを見上げる。
「誤解されたくないからいうが、私はもともと貴下の恋愛事情に興味はない。だがクレーレ、貴下はずいぶん、王宮で人気があってな……家名のせいもあるが、知っていたか? 貴下は近衛隊の中でも圧倒的にファンが多い」
「はあ」
今度はいったい何をいいだすのかと、クレーレは我ながら間が抜けた声を出した。
「それも妹や侍女たちだけでなく、使用人全般に好かれている。――わからないでもない。貴下は誰に対しても、態度がまっすぐだからな。おかげで皆がこの噂を気にしている」
「――申し訳ありません」
「いや、謝るようなことではないし、私の方で……真相を問い質すつもりもない。王家だろうと、そんな権利は持っていない。ただ妹の手前、ふたつほど聞いておきたい。かまわないか?」
「どうぞ」
「貴下には意中の相手がいるのか?」
「はい」クレーレは何のためらいもなく即答した。
「その相手とは結婚できるのか?」
この質問には即答できなかった。クレーレはわずかな時間、考えをめぐらせる。
「――その人と結婚はできませんが、ずっと共にいることはできます。そのためなら、私は何でもするつもりです」
「騎士団の中には、同輩と強い友愛関係を――結婚しても一生つづく関係を持つ者がいるが…」
「騎士団とは関係ありません。単に私が私であるだけです」
アルティンは興味深げに眉をよせた。
「ふうん、わかった。レムニスケートというのはやはり面白い家だな。それとも、貴下が面白いのか? ところで、回路魔術師を王宮に置くべきだという貴下の主張について、近衛隊長から聞いたが?」
突然変更された話題に、今回眉を動かしたのはクレーレの方だった。
「はい。いまは師団にも話を通そうとしているところです」
「どうしてそんなに回路魔術師にこだわる? あの手の魔術は、いうなれば――城の礎石や狭間窓のようなものだろう。精霊魔術は魔術師がいないとできないが、回路魔術はそうではない」
このような質問は予想できたものだ。クレーレは静かにアルティンを見返した。
「この王城はとても古い。城の礎石が朽ちないように、窓がふさがれないようにするために、どれだけの努力がされているか、ご存知ですか? レムニスケートは知っています。では、城の回路魔術を維持するために魔術師が何をしているか、ご存知ですか? 知っているのは彼らだけです」
そうか、とアルティンはつぶやいて視線をはずした。執務机の文鎮をもちあげておろし、また窓の外に目をやる。
「なるほど、ありがとう。妹には貴下に意中の恋人が確実にいると伝えておこう。それから、秘密の恋人がどうとかいうのは間違いらしいと」
「殿下、私にとっては――」
いいかけてクレーレはためらったが、いまさらアルティンに取り繕うのも仕方がないと思った。彼はすべてを正確に察しているにちがいない。
「皆が目にしたものを受け入れてくれれば、それでいいのです」
「皆が皆、見えるわけではない」
アルティンは冷静に答える。
「ひとは見たいものしか見ない。ともあれ、私は貴下の味方だ。なんといっても、次の世代のレムニスケートを味方につけておきたいだろう?」
「――ありがとうございます」
行ってよし、と王子は手を振る。
クレーレは執務室を辞した。
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