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【第2部 ローブと剣】第11話
門扉にアカシアの枝が重く垂れている。
夜も更けたが、王宮での長い一日は終わった。クレーレがアルティンに王宮の噂についてたずねられてから、何日経ったかもわからなくなるくらい多忙な日々だった。だが今日の疲労は間近に迫ったアルティンの婚約者――隣国の姫君の来訪とそれに伴う儀式のためだけとはいいきれない。
クレーレは気だるい手で馬を引き、枝を押しのけて中に入る。肉体的な疲労以外でこんなに疲弊したことは絶えてない気がしていた。
だが確実に成果はあった。
そこで知ったことや自分の選んだことが、結果として良いことなのかどうか、いまはわからないとしても。
城下のアーベルの屋敷は夜中でも真新しい木と塗料の匂いがした。工房は暗く、正面扉に明かりがついている。アーベルはようやく工房での長い仮住まいを終えて屋敷に移ったのだ。もっとも彼は最近ずっと師団の宿舎で寝泊りしていたから、クレーレがこの場所を訪れるのはひさしぶりだった。
改装後の屋敷は階下が居間と書斎に寝室、厨房や浴室などで占められ、階上は研究室とアーベルが呼ぶひろい空間になっている。さらに上の階の円天井の部屋は、気象の観測室にしたと聞いている。屋敷の正面扉は近づくと勝手にひらき――魔術の仕掛けはあいかわらずだ――クレーレは足音も荒く明かりのある部屋へ入る。
アーベルは長椅子で足を投げ出してくつろいでいた。テーブルにワインと食べかけの料理があり、椅子の上には数冊の書物が積まれている。無言で入ってきたクレーレを見て眉をあげる。
「どうした?」
いつもとちがうクレーレの気配を察したのか、静かにたずねた。
アーベルにはここしばらく、毎日都合をつけて逢いに行っている。最初はクレーレの強引さにぼやいていた彼もいまや何もいわなくなり、周囲の目も魔術師と近衛騎士という組み合わせだろうが、男同士だろうが、慣れてしまったように感じる。
共に過ごす時間がのびるにつれて、クレーレはこの頃、自分の一部がアーベルに取りこまれていくような気がしていた。視線を交わしただけで知られてしまうことがある。
――その一方で、おたがいにけっしてわからないこともあるだろう。
黙ったままクレーレはアーベルの横にねじこむように座り、魔術師の背中に片腕を回した。驚いたようにみひらく目をしばらくみつめてから、その胸にひたいをしずめる。
「おい、クレーレ。なにかあったのか?」
アーベルが困惑した声を出しながらクレーレの髪をそっとなでる。その感触が気持ちよくて目を閉じる。
「――今日、おまえにそっくりの絵姿を書庫で見たんだ」
クレーレは目を閉じたままいった。
「え?」
「ナッシュの絵姿があった。回路魔術の創始者は――」
「それ、俺の先祖だ」
アーベルはあっさり返した。
「俺のひいじいさんだな」
「――そうか」
「それがどうかしたのか? それよりもどこで知った? 俺はあまりこのことは知られたく――」
「レムニスケートの書庫に記録があった」
胸に顔を埋めたまま、クレーレはまたつぶやいた。アーベルの背中に回した手をすべらせて腰を抱く。
「父と少し話をした。回路魔術とレムニスケートの関わりについて聞いたんだ」
「そんなものがあるのか?」
頭上からきこえてくる声はあっけらかんとしたものだった。何の裏もない、好奇心と知識欲にみちたいつものアーベルの声だ。
「――知らないのか」
「ああ。なんだ、深刻なことでもあったのか?」
「いや、そんな話ではないんだが……」
顔をあげると、ワインで少し酔っているらしいアーベルのうるんだ眸に好奇心がきらめいた。
「なあ、教えろよ」
クレーレの頭をなでる手が顎にかかり、めずらしくアーベルの方からやわらかくキスをした。
そのままふたりで長椅子で抱きあう。温かい体がクレーレを求め、腕を背中にまわすのを感じながら、首筋に鼻先をうめて、舌で肌を味わった。ひさしぶりに王城を離れて、アーベルとふたりきりだ。話などせずに抱きしめていたい、と思う一方で、今日はじめて知ったことを話したい、とも思う。
同時に、話すことが少し怖いとも思った。
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