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【第3部 荒野に降る】第7話

「ほらほら、絵姿だよ! アルティン王子と姫君の絵姿、どうだいきれいだろう」 「ふたりにあやかってお兄さんも彼女に告白するなら、贈り物にこの首飾りは……」  露天商が威勢のいい口上で人を呼び集めている。商魂のたくましさにおもわず笑いがもれた。けっこうな数の人がたかっているのも可笑しい。有名人の絵姿は需要があるし、安ピカの装飾品も露店に並ぶと輝いてみえる。きっと眺めているだけで気持ちが浮きたつのだろう。  たったいま、隣国のお姫様が乗った馬車の行列が城門を通った。以前使節が来たときと同様、見物の庶民で城下の中心街はたいへんなにぎわいだ。出迎えの騎馬の近衛隊にはクレーレが加わっていた。先頭にいるわけでもないのにそれとわかるのが不思議だが、礼装で乗馬するクレーレは堂々として見栄えがする。  昨日は昼間、王宮のアルティン王子に呼び出されたかと思うと、その後クレーレの私室で腰が立たなくなるまで泣かされてしまった。俺はあらぬことを何度も口走り、クレーレはクレーレで馬鹿なことばかりのたまい、あげくのはて風呂まで使うことになって、最後は泥のように眠ったが、師団の塔へ朝帰りするところをうかつにもルベーグに捕捉されてしまった。  穴があったらもう二度と出てこれないところだ。  しかし、今日ついに殿下の婚約者となるお姫様が入城したから、これからは行事が目白押しである。式典の準備に関しては、俺たち回路魔術師の仕事は一段落しているので問題はない。いちばん最後に行われるのが例の御前試合で、この日はまた忙しいことになる。  反対に、警護や儀仗にたずさわる騎士団はこれからが本番だろう。夜も連日晩餐会や夜会が開かれるという。クレーレは、近衛隊は夜会の飾りにすぎないとよくぼやいていたが、華やかな場で彼の礼装はさぞ映えるだろう。  俺には縁がない世界だった。しばらくは顔も見られないかもしれない。だから昨日のクレーレはしつこかったのかもしれないが、詳細を思い出すと羞恥で固まりそうなので、俺は記憶に蓋をする。  行列をフードの下から見送ってから俺は逆に町はずれの方へ向かった。久しぶりに屋敷に帰るのだ。城下の浮かれた雰囲気を反映してか、街角に立つ警備隊はいつもより多い。 「アーベルさん!」  見覚えのある隊士に声をかけられる。俺は軽く会釈した。 「隊長が行列にいるの見ました?」 「ああ」 「俺も見ましたよ! 近衛隊の騎士服カッコいいですよね!」  俺はくすぐったい気持ちになる。クレーレが城下の警備隊にいた頃の部下たちはいまだに彼を「隊長」と呼び、年齢が若いほど憧れの目でみているようだ 「このあたりで困ったことがあったら声をかけてくださいよ。警備隊はいつでも駆けつけますから」 「気を使うなよ」 「だめです。アーベルさんに何かあったら俺たちの方がマズイんで」  なんだそれは。真顔で問い返そうとしたとき雑踏でスリを追う声があがり、隊士は一礼して飛び出していった。  屋敷の庭では、城に缶詰になっていた間にアカシアの花が満開になっていた。無数の小さなボンボンのような黄色い花が房になって枝についている。といっても、黄色みがかった葉も旺盛にしげっているからあまり目立たない。  窓や扉をあけはなって風を入れ替えていると、隣近所の住民がやってくる。彼らはささいな修理を頼みにきたり、逆に前回の礼だと差し入れをくれたり、俺が苦手な家事の手伝いをしてくれた。子供たちもやってきて庭で遊んでいいかと聞く。花のついたアカシアの小枝を切ってやると大喜びで、みんな、ちいさな黄色い花をたいまつのようにかかげて走りまわる。  俺は木陰で突っ立って、奇妙な感慨にふけっていた。まるで俺がこの屋敷にはじめて来たころのようだ。伯父と伯母が生きていて、この屋敷に人がたくさんいた時期の音が、多少ではあるが戻ってきていた。加えて最近、隣近所の人はかつて伯父がやっていたような役割を俺に振っているらしい。それは市井の魔術師――といっても、得体のしれない不気味な存在ではない、町の便利屋としての役割だ。  これも悪くはないかもしれない、と俺は考える。いずれ師団をやめて、ここで好きな研究をしながら、多少人の役に立つ。そしてときどき、旅に出る。  旅に出る。  それを考えたのは――とてもひさしぶりで、ひさしぶりだということに俺は驚いていた。  旅に出る。馬に積めるだけの荷物で、まだ見たことのない場所へ行く。もう一度行きたい場所でもいい。思い浮かぶのは大陸の、足元にひびわれたような深い淵が横たわる荒野だ。凍える朝に野営地で目を覚まし、震えながら火を熾す。遠くに森の影をみて、まだ自分の身体が息をしていることに驚きながら、熱い飲み物をすする。  実際のところ、移動のほとんどは興奮するような体験とは真逆で、退屈でつらい日ばかりだ。毎日天候を気にして、寝床をさがすのに倦む。雨に降られたときのみじめさや肩にくいこむ荷物の重さ、歩きすぎて痛む腰や足をうらみ、襲ってくる虫や動物、野盗に終始ぴりぴりして、ささくれた自分の神経にうんざりするのだ。  それなのに、大陸にいた十年のあいだ俺は頻繁に移動していた。季節が変わると落ちつかなくなり、どこかへ行きたくなるのだった。エヴァリストと組んでからはその傾向に拍車がかかっていたかもしれない。  昨年王都に戻ってからというもの、俺はまったくそんな風に思わなかった。とくにクレーレと出会ってからは。  クレーレと旅に出ることがあるだろうかとふと思う。ふたりで王都の外に出たのは一度、遠乗りへ出た時だけだ。あいつと旅に出るのはどんな感じだろうか。野盗を恐れずにはすみそうだ。冷静で決断も早いから、道連れとしては悪くないだろう。いや、悪くない以前に望みが高すぎる。  クレーレが王都を離れて――レムニスケートの義務を離れて俺と旅に出るなど、あるはずがない。  それとも俺が望めば―― 『アーベル、おまえの望みは?』  あのとき俺は何と口走ったのだったか。  考えに沈んでいたので魔力の気配に気づくのが遅れた。馴染みがあり、魅惑的で、他の誰ともちがう気配だ。顔をあげるとそいつはすでに路地の入口にいて、邪気のない様子で手を振っている。一目で上質だとわかる仕立ての良い上下揃いに、よく磨かれたブーツ。めずらしい、まじりけのない金髪は俺の記憶にあるより長かった。  俺は門の手前で、屋敷を守るように立つ。 「やあ、アーベル。探してしまったよ。やっぱりここだったね」 「エヴァリスト、あんた――どのツラ下げてここへくるのかよ」  アーベルはあいかわらず口が悪いなあ、とエヴァリストはニコニコ笑った。完全に罪悪感のかけらもない軽薄な調子に毒気を抜かれそうになる。いつもそうだった。 「ええ、どのツラって、このツラ」 「何しに来た」 「もちろん旧交をあたためにだよ」 「あんたとあたためるものなんてない」 「いや、僕にはいろいろあってさ」 「俺にはないっていわなかったか?」  押し問答じみた調子になった。エヴァリストはクレーレより細身だが、同じくらいの上背がある。俺を覆うように立って、光をさえぎる。  子供たちの遊ぶ声がやんでいた。  トコトコと足音がきこえ、俺のうしろで「アーベル?」と小さな声が呼ぶ。 「ねえ、アーベル。その人だれ?」  俺はローブの裾をつかんで心配そうにみつめる眸を見下ろす。この子は魔力に敏感だから、怖がらせたくなかった。笑いかけて「大丈夫だ。昔の――知り合いなんだ」とこたえる。 「誰か呼んでくる?」 「いや――」  視線をもどすと、エヴァリストはほほえみを浮かべて立っていた。まったく、立っているだけなら何の問題もなさそうにみえる。それがまさに問題なのだ。  俺は門扉をあけた。 「入れよ。ただ、あんたのろくでもない話にはのらないからな」 「つい一年前まで組んでいたのに、つれないなぁ」 「壊したのはそっちだろうが」  子供たちには遊んでいてかまわないと声をかけるが、彼らは顔をみあわせ、委縮した様子だった。俺は屋敷へ向かい、エヴァリストは飄々とついてくる。言い表しがたい自由な空気をまとった男だ。一年前に別れたときから、まったく変わっていなかった。

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