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【第3部 荒野に降る】第16話

 座面が激しく揺れる。  俺は幌馬車の後部で荷物の間にはさまっている。幌の隙間から光がもれるが、外をみてはいけないといい聞かせられているので、俺は継ぎのあたったひざ掛けに両手をつっこみ、その模様だけをみつめるようにしている。ひざ掛けは赤と橙、緑と黄色の格子模様で、かつてはとてもきれいな色だったが、いまでは全部褪せて薄汚れている。馬車が揺れるたびに俺は座面からすべりおちないように足をつっぱり、揺れにあわせて体がはねるのに対して平衡を保つ。  喉が渇いてひりつく。御者台で手綱を操っているのはおやじだろう。おろしたフードの首筋に汗が垂れている。閉め切った幌の内側は暑くて息がつまりそうだ。何よりも喉が渇いてたまらない。だが今のおやじの様子には水が飲みたい、などといえる雰囲気はない。追われているのだ、と俺は思い出す。はじまりはいつもと同じような旅だった。それがなぜか今はうしろから馬を駆る男たちに追いかけられていて、俺たちは必死で逃げている。  突然ガタッと大きな音がして、座面が大きく傾き、馬車がとまる。俺は固定していない荷物と一緒にすべりおちる。俺は叫ぶ。「とうさん!」おやじに聞こえている様子はない。脱輪で馬車は動かないのに、馬に鞭をふるっているのだ。俺はもう一度叫ぶ。おやじはふりむかない。そのうしろ髪だけがはっきりみえて――  俺は目を覚ました。  塔の医療室の寝台に横たわり、壁に頭をぶつけていた。外は明るく、まだ昼間のようだ。喉が渇いてたまらない。起き上がろうとしたが、意識ははっきりしているのに、背中と首が石になったようにぴくりとも動かなかった。両足の指から少しずつ動かすことからはじめて、俺はしばらく苦闘し、ようやく上体を起こす。ありがたいことに寝台脇の台に水差しが置いてある。おぼつかない指でコップについだ。少しこぼしたが、なんとか喉の渇きはおさまった。  夢の中でも喉が渇いていたのを思い出した。  自分でも奇妙だと思うが、俺はおやじと死に別れたいきさつをよく覚えていない。旅の途中で騒動が起きたのは覚えている。母はそれより前に病気で死んだ。もともと放浪がちだったおやじは母の死以降、一カ所にけっしてとどまらなくなった。俺たちはずっと旅暮らしだった。  俺は物心ついたころからおやじの見よう見まねで回路をいじっていて、自然に魔術の使い方、回路の修理の仕方を覚えた。それらがみな独自の自己流派だというのは、後になってわかったことだ。  王都の伯父の屋敷にひきとられてから、俺は正式に魔術を学ぶために学院へ行こうとしたが、教室についになじめなかった。結局必要なことはみな伯父に教わった。  おやじも伯父も俺に回路魔術を教えてくれたが、自分たちの父親や、その父親――ゼルテンやナッシュの話はほとんどしなかった。ひいじいさんが回路魔術の創始者だと、俺は伯父の書庫の本で知って仰天したのをいまでも覚えている。  そのひいじいさんはどうも、俺に似ているらしい――医療室の飾り気のない毛布をみつめながら、俺はふと思い出していた。以前クレーレがいっていた。どこかに絵姿があるのだと。  あの死んだ男は、最初俺をナッシュと呼んだ。知り合いでもあるまいに。仮に直接知っているとしたら、年をとりすぎている計算になる。  ナッシュは魔術の本を何冊も書いた。それは古典的な教科書だが、すでに時代遅れな文献だ。ナッシュの息子で、俺の祖父にあたるゼルテンも本を書いた。彼らの本を俺は伯父の屋敷で読み、その中身について伯父に教えをうけもしたが、俺の魔術の基本はどちらかというと父から来ているのだと、じきにわかった。子供のころは考えもしなかったが、おやじの魔術はかなり独特な方式をとっていて、万人向きではなかった。  それはもしかしたら、本に書かれることのなかったナッシュやゼルテンの方法だったのかもしれないが、おやじは何もいわなかったから確かめようもない。俺はというと、ひとりで大陸に渡って勉強をするうち、むこうで開発された方法とおやじから受け継いだものを折衷させることになった。俺の魔術はおやじ同様、他にあまり類がないものになり、そのおかげで俺とエヴァリストは大陸でかなりの財産を稼いだ。  頭をふり、俺は寝台からおりる。枯渇していた魔力はすこし回復しているようだ。ふらつくが、用足しにいきたいし、空腹でもある。今は何時だろう。窓から外をのぞき、太陽の位置を目ではかって俺はぎょっとした。  よろよろと廊下に出て手近で用を足し、宿舎に戻って清潔な服に着替え、口をすすぐ。鏡にうつる自分の顔はびっくりするほど頬がこけ、両目の下の濃い隈がうっとうしい。髪をうしろになでつけて、伸びたままのうしろ髪を紐でくくると、俺はまた塔に戻った。  いつもの仕事部屋の把手に手をかけたとたん、扉が内側から開いて、つんのめりそうになる。 「アーベル。起きたのか」  作業台から顔をあげて、テイラーがいった。  目の前ではルベーグが俺の腕を支えている。 「悪かった。ついてやれなくて」と銀髪を揺らしながらもごもごいう。 「ひどい顔だ。まだ寝てなくていいのか」 「いや、腹が減って」  テイラーが俺を上から下まで見下ろして笑った。 「そうだろうな。丸一日寝ていたんだから。何か持ってきてやるよ」  思ったほど調子は戻っていないらしく、俺は椅子に倒れこむように座った。どうもみっともない。作業台の上は慎重に区切られて、例の武装の分解作業が進んでいるようだ。他にあの男が身につけていたと思しき防具も並べられている。よく見知った、だがこの部屋では見慣れない姿が作業台のそばにいる。 「よう、アーベル。大変だったそうだな」  無表情で声をかけてきたのは、エミネイターの直属になる前、隣同士で仕事をしていたクラインだった。彼は最近大陸記法の勉強会に加わっていたが、会話らしい会話はほとんどしなかった。避けられているような雰囲気もあったし、俺にしても親しくしたいわけでもなかった。 「まあな」  俺は生返事をする。実は座ったとたん強烈なめまいが襲ってきて、こらえるのに必死だった。 「アーベル抜きだと人手が足りないってことで、入ってもらった」  俺が何も聞かないうちにルベーグが告げる。クラインのすぐそばにはエヴァリストが威圧するように立ち、彼に「目を離さないでくれないか」と注文をつけていた。  クラインにしてみると災難だろう。回路魔術師としてのエヴァリストには独創的な発想はあまりないが、細部にこだわる細工は正確で、手順の遵守には人一倍うるさい。そして爆薬の解体には手順の遵守がもっとも重要だった。大陸では俺もエヴァリストも何度も似たような作業をやった。  エヴァリストは俺の方へちらりと視線を投げた。ただの視線だ。なんの合図もない。  テイラーが俺に食べものを持ってきてくれた。しかしそのあたりから室内は緊迫して、食事をしていられる空気ではなくなった。分解中の武装から部品が慎重に外される。薬室、起爆装置とつながる管がえりわけられ、吟味のすえ切り離されて、ようやく安堵の雰囲気がうまれた。  全員が肩の力を抜く。  俺は外された基板の回路がどうなっているか、そこに俺の――しるしがあるのか、確かめたくてたまらなかった。一方で俺の体は座りこんだ椅子から立ち上がるのも億劫なほど重かった。スープにちぎったパンをひたして、何口か無理やり飲みこむ。作業台ではルベーグが拡大鏡を調整し、取り外した基板を精査している。 「どうだ?」  テイラーが声をかけると首を振った。 「構造が二重になっている。元になっている基板と、付け足された回路がある。記録を取りながら分解してみないと原理がわからない」 「おい、僕がそれを回収するって、覚えているな?」  エヴァリストが口をはさみ、それをテイラーが断固とした口調でさえぎった。 「どうせこのままじゃ返せないんだ。エミネイターの許可が下りない。とりあえず今はこれで、危険はないか?」 「ああ。危険はないが……」  ルベーグは口ごもった。 「どうした?」テイラーがたたみかける。 「――いや」ルベーグは拡大鏡から目を離し、眉間をもんだ。 「なんでもない」 「俺にも見せてくれ。大陸製の回路なんてみたことがないんだ」  クラインが拡大鏡に近づき、レンズを目に当てる。彼の顔と作業台が俺の視界の中でくるくる回った。吐き気が襲ってきて、俺はうつむく。 「アーベル、大丈夫か?」  俺の視界はモザイクのようにだんだん薄れていき、そのまま真っ暗になって消えた。

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