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【第3部 荒野に降る】第19話

 扉を叩く音がきこえて我にかえる。返事をするべきか迷っているうちに向こう側から開いた。入ってきたのは初老の大柄な男で、白いものが混じりはじめた髪はきれいになでつけられ、みるからに上質な服と、よく磨かれた靴を履いている。  俺はあわてて立ち上がった。男はどこも悪いようにはみえないが、杖を持っていた。立ったものの、気の利いた言葉が出るでもなく、俺は男をみつめていた。ひたいと鼻筋がクレーレに似ている。細い目は切れ上がって、眼光がするどい。しかし、発せられた声は意外にも布にくるんだようで、やわらかかった。 「貴殿がアーベルか?」 「レムニスケート……閣下でしょうか」  俺は馬鹿のように突っ立ったままいう。 「ああ。だが、初対面とは思えないな。たしかに息子と殿下から貴殿のことを聞いていたが――前から、似ているといわれたことはないかね」 「それは誰に……でしょう」 「ナッシュだよ。回路魔術の創始者だ」  座りたまえ、と男はいった。堂々として威圧感はあるが、おちついて思慮に満ちた様子だった。この部屋はじつは私の個人的な応接室でね、といいながら壁際へ行き、戸棚をあけて瓶を取り出す。 「飲むだろう」  俺は恐縮してグラスを受けとった。立ったまま当主が口をつけるのを待って、すこし舐める。いぶした樽の匂いにかすかに甘さがまじった、強い蒸留酒だ。喉を焼きながら流れ落ちる。体に溜まった重苦しさがたちまち消し飛んだ。 「たしかにあの男に――似ているといわれました」 「あの男?」 「死んだ男です」  当主はうなずいた。 「ゼルテンはそれほど貴殿に似ていなかった。先祖返りだな。貴殿の能力も先祖返りかね?」 「俺は――いや、わかりません」 「ナッシュの一族はみな王城にとどまらなかった。エミネイターは貴殿を手放すまいと必死だがな」  なぜか申し訳ない気分になり、俺はつぶやいた。 「すみません」 「もちろん貴殿が謝るようなことではないが」  当主はグラスを片手に俺の前に座る。 「すこし防備についての話をしたい」 「防備……ですか?」  ああ、とうなずいて、男は話しはじめる。 「先手先手をうつのが我々のやり方だ。将来起こりうる紛争も、芽のうちに摘み取っていれば、対策も簡単だ。医術が効果を発揮するには病人が死ぬまえ、手遅れになるまえに対処することが必要だ。同じように我々も備えなければならない。防衛もしかり」  なぜこんな話になっているのかわからないまま、俺はうなずいた。 「この国を侵略できると考える者がいるとしよう。たとえば、隣国にね。侵略を考える者はたしかに我々の敵だ。だが国を、侵略から守れると思わない者もやはり敵だ。そんな敵はつねに、内部にいる。守ることは他人任せにはできないし、自国の安全は自国で守るのが当たり前だ。そうではないかね?」  当主はグラス越しに俺をじっとみている。意図があいかわらずつかめなかったが、俺は黙ってまたグラスをなめた。酒はうまかった。こんな上等なものを飲んだのは久しぶりだった。 「レムニスケートはある時点から、武人の家となってね」当主は話を続ける。 「我々の考えでは、戦いに訴えねばならない場合に、自国の民からなる軍を持っていない国や――指導者は恥じて然るべきだ。そんな軍隊を持たないのは、べつにその国に兵を使える者がいないということではない。ただ、民に自国を守るために立ち上がる気概を持たせられなかった、ということを、国外に表してしまうことが問題なのだ。だがゼルテンは、この考え方が嫌いだったようでね」  当主はなぜか、にやりと笑った。 「先手先手をうちたいあまり、彼は究極の防衛を備えることで、逆に軍隊すべてを無効化することを夢見たのだと、私は思う。――もちろん我らの剣は、そうはならなかったわけだが、以来、レムニスケートは、回路魔術師をうろんなものと考えるようになった。息子はそうは思わなかったようだが」  意図はみえてきた気がするが、と俺は思う。どう答えたものだろう。この当主、俺とはくらべものにならない絶対的な権力者は、俺にこれを首肯してほしいのだろうか。それとも否定する言葉を聞きたいのか。  俺は唇をなめた。酒が小さな傷にしみる。 「俺が思うに、ゼルテンはこう考えたのでしょう――戦うしか能のない者たちを常に抱えておくこと以上に、国を治める者にとって危険なことはない。戦いがない時は自分の本来の持ち場でそれぞれの仕事を喜んでするような、そんな兵から成り立つのが理想的な軍です。職業的な軍人は――彼らは、戦いが起きれば真っ先に戦場へ投入され、そのまま死ぬことを仕事とする。死ぬための道具となるしかない者たちをつねに抱えるのは為政者にとって危険なことです。平和になったとき、彼らは何をすればいいのか」 「なるほど。貴殿は祖父のゼルテンのことは、よく知っているのかね?」 「いいえ。この国の学院で魔術を修めた魔術師の方が、よく知っていると思いますよ」  そうか、と当主はうなずいた。 「大陸から戻ってきた目では、この国をどう思う?」 「この国ですか? 平和で、安心できて……」  ときどき息がつまりそうだ。  言葉を俺は飲みこんだ。なんということだ、と思った。これが俺の本音なのだった。当主は一瞬のためらいを見逃さなかったようだった。 「ずっとこの国にいたいかね?」 「――わかりません。旅が好きなので」 「この国ほど安全な場所はないだろうに」 「ええ。わかっています」  それにこの国にはいまや手放したくないものもあった。俺はエミネイターやルベーグ、テイラーの顔を思い浮かべる。俺の仕事仲間で、おそらくは友人でもあるものたち。  そしてクレーレ。  だが、もしも彼と一緒に行けるなら、俺はいつでも旅に出るだろう――そうも思った。  当主は空になったグラスにまた酒を注ぐ。こんなことをさせてしまうのはずいぶん礼を逸しているのではないだろうか。それでも俺はありがたく受けとる。当主はさらに城を守る魔術と警備隊の連携について技術的な問いを発し、そこから俺たちはいつのまにか、騎士が城を守る仕組みはどうあるべきか、熱のこもった議論をたたかわせていた。  思うに、疲労困憊の中で強い酒をすすめられ、俺はすこし酔ってしまったのだろう。そのうち当主は笑いはじめ、俺はというと、まさかこんなに話してしまうと思っていなかったので、我にかえって驚いていた。なにしろ現役の騎士であるクレーレともこんな話はしていないのだ。 「楽しかったよ」  しまいに当主はそういって立ち上がり、俺にも立つようにうながす。  この奇妙な会合はやっとおひらきになるらしい。扉の前で俺に向きなおった。 「アーベル。これだけはいっておきたい。支配者の存在しない世界はあったためしがない。重要なのは、支配する者が力を濫用しようにもできないような制度を整えておくことだ。この国にいれば、我々レムニスケートも貴殿のような魔術師も、その制度の一部になる。それを否といったとしても、どこにでもこれはある。だから――」  奇妙なことに、いきなり当主の表情がクレーレの照れくさそうな笑みとだぶって、俺はめまいがした。 「自分の心を置いた者をみつけたら、そこにとどまるのも悪くはないだろう」  扉をあけると当主は外にいる者に声をかけた。急に立ち上がったせいか、強い酔いが回った俺にはききとれなかった。彼はそのまま出て行き、俺は開いたままの扉の前で躊躇する。扉の外からぬっと腕が伸び、俺の手首をつかんだ。俺の肩を抱いて引き寄せ、ひたいに唇をつける。 「アーベル、戻るぞ」クレーレが俺にささやく。  当主と話していたときの気力は酔いの自覚とともにどこかへ飛んでいき、思考があやふやになっていた。俺は思わず口走る。 「どこへ」 「師団へだ。ほかにあるのか?」 「わからない」  俺は何も考えていなかった。口が勝手に動いていた。 「おまえのそばに居たい」

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