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【第3部 荒野に降る】第20話
その後の記憶はあまりはっきりしない。
クレーレの腕をたよりに千鳥足で歩いていったような気はする。朦朧としたまま用を足し、水を飲み、そしてふだんよりずっと上等な寝床に倒れこんだ。
気がつくと暗い中で、人肌の温もりに覆われて寝ていた。シャツの上から背中を横抱きにされ、ハーブの香りがする敷布に埋もれている。がっしりした腕が俺の腹で重なり、首のうしろから寝息がきこえた。俺が寝返りをうつと腕は今度は背中にまわり、そのまま抱きしめてくる。すこやかな寝息をたてたまま、クレーレの顔が俺の肩口に埋められ、のびかけの髭が肌をこすった。
俺はクレーレの首に手をまわし、短い髪に指をからめた。生えぎわの柔らかい毛をまさぐり、ひたいを擦りつける。体は気だるいが心地よく、眠る騎士のぜいたくな重みを感じていつになく平安な気分だった。また瞼が重くなる。
背中にあった腕が腰にまわり、尻が揉まれるのを感じて、夢うつつのまま裸の足をからめた。すぐちかくの肌に唇をつけ、上の方へずらしていくと、ふいに顎に手がかけられ、キスをされた。舌がじんわりと唇をなぞり、離れていく。
突然頭がはっきりして、俺は目をあけた。クレーレの眸がすぐそこにある。
「アーベル」
「……ここは」
「俺の部屋だ」
クレーレの息が顔にあたり、俺は昨夜の醜態を思い出した。
「すまない、酔っていたみたいだ……眠ってしまったんだな」
「いや、あの状態で、たとえ少しでも酒を飲ませた父が悪い」
「あの時点では効いたよ」
クレーレは敷布にひじをつき、覆いかぶさるようにして、俺の頬に指を這わせる。
「すこしはましな顔色になったな」
「エヴァリストがいうには、魔力がひっぺがされたらしい。そろそろ回復するさ」
「――まだ寝ていろ」
クレーレは眉をよせた。
「それから……できればあいつの話はしないでくれ」
「エヴァリスト?」
「腹が立つんだ。取り返しのつかないことが起きかねなかった」
「あいつのこれまでのやり口からいえば、比較的ましなほうだったと思うが――」
「いいから」
いきなり後頭部の髪をひかれ、手のひらで口元を覆われる。
「頭にきて奴に切ってかかるような、馬鹿なことはしたくないんだ」
ささやきながらクレーレは俺の鼻筋からひたいへ唇をよせた。
「あのクラインとやらも、いいたい放題だ」
「……ああ」
俺は気が重くなった。クレーレの手を顔からはがす。すぐ近くにある眸が怖かった。
「クラインのことだから……いろいろ、俺の話をしていただろう」
「まあな」
「――どう思った?」
「嫉妬した」
平坦な声であっさりとクレーレはいった。
「俺が先に会ってたら……あんなやつに触らせなかった」
そして俺のまぶた、生えぎわ、耳元へ唇をつけ、耳朶を甘噛みする。クレーレが着ている肌着と俺のシャツがこすれる音がする。クレーレは髪を俺の首もとに押しつけ、鼻先で首筋をなぞった。犬のようなしぐさだった。俺は思わず笑った。
「笑うな」
「ごめん」
「いや、笑っていい……笑う声が好きだ」
クレーレはシャツの上から俺の胸を撫で、腰へ手を回し、ためいきのような、深い息を吐く。
「うれしかった……」
「なにが」
「そばに居たいといわれたから」
寝台で抱きあっているにもかかわらず、いまさらのように顔がほてるのを感じた。クレーレは体を反転させ、俺を胸に抱えこむようにした。ふたりで子犬のように丸くからまっている。俺はまた夢うつつの浮遊感に襲われた。クレーレが俺の髪をかきまわすようにして撫でる。
「アーベル、まだ早いからもっと眠った方がいい。着替えを持ってこさせるから、このままここで寝ていてくれ」
「おまえは?」
「今日は御前試合だ」
もうそんな日どりだったか? 俺はぎょっとしてクレーレの腕をおしのけようとした。
「今日だって?」
「午前中はトーナメントの最終予選だし、午後の本番は演武からだ。気にしないで休んでくれ」
「いや、そんなわけにも――」
クレーレは子どもにするように俺の肩をさすり、頭を撫でた。
「気にするな。俺は勝つ」
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