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【第3部 荒野に降る】第27話
「アーベル、怒るなよ」
「怒ってませんよ」
俺はエミネイターに背を向けたまま馬の背中を撫でた。初夏のような気温だが、走ると気持ちいいだろう。
「それなら拗ねているだろう」
「拗ねてもいませんよ、子どもじゃあるまいし。あらかじめ教えてくれてもよかったのにとは、思っていますが」
鞍帯を締めなおし、荷物の中身をたしかめ、巻いた毛布を吊る。旅装用のマントを着るのは久しぶりで、懐かしさと慣れなさがまじっておかしな感じがした。鐙の長さをざっと調整する。
エミネイターは俺の背後でまだ何かいっている。
「だから拝謁の礼を特訓しただろうが。あれで悟れよ」
「そんなの無理ですよ。もとより儀礼なんて知らないんですから、叙勲用の礼があるなんて知るわけないでしょうが」
「でもよかったじゃないか。これで師団に恩を売ったことにもなるから、今後はもっと自由に動けるぞ。城下の屋敷にも頻繁に帰れるし」
「だから怒ってませんって」
「アーベル」
すでに馬上の人となっているクレーレが頭の上から声を投げた。
「その人につきあってやるな。きりがない」
「失礼だな。従弟殿は」
「そんなに心配しなくても、休暇が終われば帰ってきますよ」
「当たり前だ」
俺はふたりのやりとりを横目に鐙に足をかけて鞍にのぼる。俺の馬は濃淡のある栗毛でクレーレはいつもの愛馬だ。やはりこの国の馬は優美で性格がいい。片手で手綱を軽く握り、空いている手をエミネイターに挙げる。
「アーベル勲爵士。当主によろしく伝えてくれ」
エミネイターは俺の新しい称号とともにどきりとすることをいうが、俺は曖昧にうなずくにとどめた。最近ようやく理解したが、彼女は俺に対して過保護な傾向がある。今も気をもんでいるのだろう。自分がこんなふうに気にかけられているのは、こそばゆい。
空は透きとおった青色で、うすく筋雲が走り、ゆるく風が吹くが水の匂いはしなかった。幸先のよい天気で、これが目的地まで続けばいい。
俺たちはレムニスケートの領地に向かっていた。
叙勲という不意打ちのせいもあり、王宮の舞踏会の感想はというと、俺の内心ではさんざんなものだった。隅で暇をつぶしながら貴族を観察していればいいくらいに思っていた当初の目算が外れたからだ。
俺のあとに拝謁したのはクレーレだった。彼にはアルティン殿下から御前試合の勝者を記念した勲章が与えられ、俺たちはそのあいだ、なぜかふたり並んで周囲の見世物になっていた。儀式的なやりとりがやっと終わると本格的な舞踏の音楽がはじまり、踊れない俺はなんとか失礼のないように姫殿下やご婦人方を断ったが、壁に沿って隠れていようとすると今度は知らない騎士や貴族など男連中が話しかけてくるので、じっとしていることもできない。
ひとりでいると手持無沙汰にみえるのだろう。しかし俺がうかつなことを口走っても大丈夫な相手ときたら、ここにはクレーレとエヴァリスト、それにエミネイターしかいない。そして三人ともそれぞれの事情で忙しいときている。クレーレは優雅に踊っているし、ちらりとみえたエヴァリストは誰かをつかまえて話しこんでおり、エミネイターはなぜか女性を周りに集めている。
近づいてくる商売っ気丸出しのギルドの商人たちはいいとしても、あからさまに誘ってくる者もいた。周囲の反応はわかりやすくて、ほとんど面白いくらいだ。頭では知っていたつもりだったが、権力や称号はこんなに人の態度を変えるのだ。自分自身を材料にしてこれを目の当たりにさせられると、皮肉な笑いがこみあげてくる。
もともと身分がある人々は俺ごときがここにいても何とも思わないだろうが、下級貴族出の近衛騎士やギルドの上層部のような層には重要な話なのだろう。これまで眼中になかった魔術師が自分たちの中に入ってくる、ということが。
そんなわけで酒もうっかり飲めないまま、年上の貴族の露骨な誘いを断っていると、ふいに相手が黙った。気配を感じて首をまげる。威圧するようにクレーレが見下ろしている。
「レムニスケート当主が、勲爵士に用があるとのことで」
「――ああ。それは仕方ないね」貴族は手を差し出して、握手を求めた。「また会えるといいね」
俺はひきつった笑顔で手を出したが、すかさずクレーレが俺の腕をとったので、貴族の手はそのまま空を切った。
「申し訳ない、閣下がお待ちなので」
クレーレは早口で貴族に弁解しながら俺の肩を押す。俺はありがたくそのまま進み、クレーレは俺の腕をとったまま黙って当主の元へ進む。剣呑な気配だった。
「おい、そんなにカリカリするな」
見かねて俺がいうと「そんなことはない」とむすっとつぶやいた。人をかきわけてやっと当主の前にたどりついたとき、俺はほっとした。――あとで思うと、王族をのぞけば第一の権力者であるレムニスケート当主の前に出てほっとするのもおかしな話だったが。
その当主は俺をみとめると眉をあげ、開口一番こう告げた。
「アーベル。ずっと王都を出ていないらしいじゃないか。休暇がもらえるという話をきいた。レムニスケートの所領へ滞在しなさい」
それはすでに要請ではなく、命令に等しかった。
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