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【第3部 荒野に降る】第28話

 だから俺とクレーレは馬を走らせている。レムニスケート領の本邸までは王都から馬車で三日程度、単騎で飛ばせば二日もかからない。本邸まで急ぐ必要はないらしく、クレーレは、遠回りになるが湖をまわる道をいくという。  道のりは平穏だった。眼下に麦畑を眺め、牛に荷車を引かせる農夫を追い越して走り、小さな集落をいくつか抜ける。丘陵地帯に入ったころ行商人の隊列に行きあい、同じ場所で野営を張った。二日目は行商人たちを追い抜いて進み、途中で街道を外れて広葉樹の森に入った。ゆるやかな上りで、道沿いの下生えは刈られ、よく手入れされている。新緑を透かす光がまぶしく、鳥の声が聞こえる。一度だけ木々の隙間にまぼろしのように一瞬鹿の鼻づらがうかび、消えた。  俺は首にかけた磁石と太陽をみて暗算する。すでに俺たちはレムニスケート領の外れにいるようだった。 「この先が湖だ。小屋がある。今晩はそこに泊まる」とクレーレがいう。  以前クレーレと遠乗りに行ったときと同じように、移動の必然に迫られない優雅な旅だった。木立のあいだを行きながら、俺は王都にいるときよりずっと呼吸が楽になったように感じていた。  すこし先で待っていたクレーレが俺をじっとみるので「なんだ?」とたずねると、ふっと口元をほころばせて、首をふる。 「いえよ」 「いや――楽しんでいるならよかったと、思っただけだ」  俺の顔はみっともなくゆるんでいたらしい。 「ああ、楽しいよ。ここは静かだし、美しくて、おとぎ話の森のようだ。いつも……こんなふうだと、すごいな」 「そう思うか?」とクレーレが聞く。 「そうだな。旅や移動というのはふつう、不快で不便でうんざりするものだ」 「それでも旅をしていたんだろう。その方がいいか?」 「汚れて腹をすかして虫に刺されて嫌な気分になるのが? まさか」俺は笑った。 「でもおまえと馬を並べられるなら、うれしいな」  クレーレは急に顔をそらすと馬を前に進めた。 「もう少しだ」  風景がひらけたのは突然だった。  俺は思わず手綱をひく。栗毛がいななくのをなだめて、そして――息をとめて眼下の風景をみた。  眼下は青、青い平面がひろがっていた。宝石のような深みをたたえた青色が緑の森にふちどられ、まるく辺を描いている。俺は湖から少し上に位置するゆるい斜面の空き地に出ていた。正面には薄雲がかかる水色の空があり、湖の濃い青と対照をなしている。太陽は俺のななめうしろにある。  ほとんど無意識のうちに馬の背から降りていた。湖に一歩近づき、青色を凝視する。しばらくすると宝石のような表面がかすかにゆがみ、絹を巻くようなさざなみがたった。水際に映る森の緑色もゆらぎ、くずれたパターンの文様となる。  どのくらいそうやって湖をみつめていたのか。辛抱強い馬がぶるっとふるえて俺は我にかえった。はっとして顔をあげ、クレーレがすぐ後ろに立っているのに気づいた。にやりと笑って、俺の手から手綱をとる。 「気に入ったらしい」という。 「ああ。とても……」俺は言葉をさがして口ごもり、あきらめた。 「この世のものとは思えない青だ」 「水源のひとつだ。こっちだ」  クレーレは道に沿って馬の手綱をひいたが、俺はまだこの場所を離れがたく、湖面と空を交互に眺めていた。クレーレが声をたてて笑い、俺をうながす。 「アーベル、湖はまたあとで眺められる」 「どこまで行くんだ」 「鹿狩りの小屋がある。いまは禁猟期だが」  到着したのは俺が想像していたような掘っ立て小屋ではなく、まともな基礎を置いた石造りの家だった。厩もあり、湖から引いた新鮮な水が桶に流れてくる。俺は栗毛に飼葉をやって背をこすると靴の泥を落として家の中に入った。そろそろ夕暮れだった。奥で旅装を解いたクレーレがひざまずいて暖炉に火を入れている。石積みの壁は複雑な紋様の壁掛けで覆われ、床には敷物があった。  小屋と呼んでいたが、ここはレムニスケートの別宅のひとつだと俺は気づいた。手入れされ、物資が運ばれた跡がある。使用人をつれて滞在するだけのゆとりがある贅沢な空間だった。 「ずいぶん豪華な小屋だな」  俺はマントのほこりをおざなりにはらって壁の釘にかける。クレーレは薪をなめる炎を満足げにみやった。 「両親も兄も、たまにここに来る。子供のころは年に二度、ここに集まる習慣だった。いまでは弟たちがくるのは鹿狩りの時期だけだが」という。  階段を上がるクレーレについていくと、勾配天井に切られた窓から階下に夕陽がさした。登りきったところをクレーレにうながされるままふりむく。がらりと音がして、鎧戸が開け放たれた。俺はふたたび息をのむ。  背後からの夕陽をうけて、紫がかった青に色を変えた湖が窓の向こうに広がっている。空と湖の境目は淡く、手前の方は徐々に黒みがかり、光を受けた波の皺がよる。  クレーレが俺の肩に腕をまわし、耳元にささやく。 「あとでまた眺められるといったろう」 「……ああ、そうだな」  俺はため息のような音をもらしてしまい、クレーレは低い声で少し笑った。 「どうした?」俺が聞くと、肩を抱く腕の力が強くなる。 「俺は子供のころから見ているから、湖をたいしたものだとは思ったことがない。反応が新鮮だ」 「さすが、レムニスケートだな」 「関係ないだろう。父や母はともかく、どんな子供にとっても湖はただの遊び場だ」 「そうかもな」  俺はまだ湖をみつめていた。表面に吹く風でさざなみがたつと、織物が生まれるように光の模様が変わっていく。  湖で遊ぶなど、俺にはまったく経験がなかった。父の幌馬車でひらけた湖畔に野営したことなら何度かあるかもしれない。狼の遠吠えが響くような夜もあり、まんじりともできなかった。ましてや、遊ぶなど。  それにひきかえ、この湖で遊ぶことのできた――遊んでいた子供が、大人になって、俺といまここにいるのは、ずいぶんおかしなめぐりあわせだと感じた。  かすかなさびしさが胸をつらぬく。俺はそんな子供時代を持てなかったし、こんな美しい場所で育った子供のことなど、どれだけともに過ごそうとも、本当には理解できないにちがいない。  彼らの生は、こんなに俺が美しいと思う場所をほとんど気にとめずにいられるほどの豊かさに満ちている。レムニスケート当主の、ゆるぎなく断固として立つ雰囲気が思い起こされた。クレーレのなかにもあるこの確固とした自信を、俺が共有することはけっしてないだろう。  俺にできるのは――ただ、彼を愛していることだけだ。  いつのまにか背後からがっしりと抱きしめられていた。 「大陸にもこういう湖はあったか?」とクレーレが聞く。 「湖はいくつもみた」  背中から腰にかけて、クレーレの体温を感じながら、俺はつぶやく。 「だがこんなに青い湖は、はじめてだ。大陸でみたことのある……恐ろしい青は、湖じゃなかった」 「なんだ?」 「――淵だった。裂け目の底の」 「淵?」 「大地の中にひらく裂け目だ。墜ちてしまいそうな――深い裂け目で……底が青かった。凍るような青だった」 「また……行きたいか?」  腕がほどかれ、俺たちは向きをかえてみつめあい、どちらからともなくキスをした。最初はついばむように、だんだん深くなり、抱きあいながら唇をかさねる。温かい手が俺の髪をまさぐり、うなじから背中をなでおろす。 「アーベル……」  吐息の合間にクレーレは顎をとらえ、正面から射ぬくように俺の眸をみた。 「おまえがどこかへ行きたくなったら、かならず俺に知らせてくれ」  俺の首筋に顎をうずめ、骨に響かせるようにしてささやく。 「ひとりで行かないと誓ってくれ」  クレーレの頭を両腕に抱えこみ、俺は薄闇にしずんでいく湖をみつめている。声を出そうとして、喉がつまった。星がひとつ湖の上の空にまたたき、もうひとつ、とふえていく。 「わかった」  舌足らずな言葉がやっと口からもれた。 「誓う」

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