57 / 85

エピローグ

「集団の意志を選ばれた評議員の協議で決定する場合と、全員の参加で決定する場合の違いは……」  庭園の奥で自説を語る兄の声がきこえる。  クレーレは生垣の向こうをすかしみて、東屋のベンチで早口で熱弁をふるう兄と、用意された飲み物にほとんど口もつけずにうなずいているアーベルを発見した。  湖の小屋で翌日もゆっくりすごしたので、本邸についたのは夜も遅かった。一夜あけて今日は、当主がレムニスケート領に戻った時に恒例の、格式ばらない集まりが開かれている。よい天気だからと庭園が開放され、手前のほうでは両親と招待された近隣の者たちが軽食をかたわらにおいて歓談していた。  一方学究肌の兄は、王都では毎日審判の塔にこもって仕事三昧、休暇で自領の本邸に戻っても本に埋もれているのが常で、しかも見知らぬ人間を警戒しがちだ。今日のような集まりでも一応顔をみせはするものの、たいてい奥の方にいる。そんな彼がめずらしくアーベルには熱心に話している。  兄と自分は性格も技能も似ていないのに意外な共通点があるのか、とクレーレは思う。アーベルは持ち前の平静さと好奇心で兄の話に聞き入っているようだし、兄は自分の話にうんざりしたそぶりをみせない聞き手がいて嬉しそうだ。 「大陸にどんな統治組織があるかは、私も書物で読んではいるが、実際に向こうの人間と話せる自信がないのが問題でね……」 「そうでしょうか? 他の言語で書かれた書物を理解する方がはるかに難しいでしょう」 「話せる者はつねにそういうが、私ときたら、隣国の人間と会話するのだって緊張するんだ。ほとんど言語は変わらないのに」  東屋に足を向けながら、クレーレはふと二人の会話に聞き耳を立てていた。 「近くの備えがひととおり終わったこの国では、今後ますます、遠くの諸国とどう関係を作るかが焦点になる。外交は大がかりな使節団からはじまるものではない。民間の貿易、学生の派遣、いろいろなレベルの交流がある。回路魔術師の間でもそういう話が出ているだろう? やっと、自分たちの知識の遅れを取りもどすことを考えているようじゃないか。私もアルティン殿下に意見を求められているが、今の段階なら君のような人が間に立つのが適任だと思うよ。土地に通じていて、複数の言葉もわかる。つてもある。どうだね?」 「仮にそうだとしても、能力だけで選別できるわけではないでしょう。たとえば、王家への忠誠心は?」 「必要なのは観察して記憶し、判断する知性だ。忠誠心なんて犬でも持てる。私の弟をみたまえ」  顔を出したタイミングが悪かった。アーベルが苦笑をうかべてクレーレと兄を交互にみるが、兄はちらっとクレーレに顔を向けただけだ。それどころかすぐさまアーベルに「ほら、犬がきた」という。  クレーレも苦笑せざるをえなかった。 「兄さん。……これでも自分ではかなり人間になれたと思っているのですが」  兄はクレーレの言葉を聞いているのかいないのか、「こんなのでも番犬くらいには使えるから、せいぜい利用しなさい」などとアーベルに畳みかけている。ずいぶん気に入られたものだ。  やっとアーベルを奪い返したが、幸い兄に閉口した様子はなかった。「愉快な方だ」という言葉にクレーレは安堵する。 「そう思ってもらえたならありがたい。ひとりよがりに話をされて、困っていたらどうしようかと思った」 「そうか? おまえによく似ているとは感じたが、ひとりよがりだなんて思わなかった」  兄に似ているといわれることはめったにない。意外な言葉にクレーレは聞き返す。 「どこが似ている?」 「生まれつき責任を負っているところが」 「……そんなふうに考えたことはないが」  アーベルは笑った。 「無自覚だから義務を完遂できるのか? ――いや、いいんだ」  庭園は花の盛りだった。雨の季節はまだ先で、空気はさわやかだ。アーベルは生垣から紅い花をむしり、蜜を吸う。しばし物思いにふけっている様子だったが、クレーレの視線にこたえるかのように顔をあげた。 「なあ、クレーレ。さっき兄上が話していたが……たとえば俺が、この国から他所へ――大陸へ派遣されることになったら、どうする?」 「もちろんついていく」  間髪入れない答えに、アーベルは呆れた顔でこちらをみる。 「おまえ、考えてものをいってるか?」 「考えるようなことじゃない」  生垣にさえぎられ、誰も視界に入らないのをたしかめて、クレーレはアーベルの肩に腕をまわす。今日のアーベルは魔術師のローブを着ていない。鎧のような装備なしに彼がここにいるのだと思うと、クレーレの中に温かいものがわきあがる。 「やっとつかまえたから、もう、離さない」  ささやくとアーベルの顔にさっと朱がさし、焦ったように横を向いた。 「おまえ、ときどき……」  聞きとれないくらいの小声でつぶやく彼にクレーレは顔をよせる。 「なんだ?」 「――なんでもないから、離せ」 「だから、離さないっていったろう」 「――おまえな」  アーベルの指から紅い花びらが落ち、地面に散った。    *  ――規則正しく、なにかを叩く音がきこえる。  しずくが跳ねている。  雨だ。  雨の音をきいている。  目をあけると同時に体は完全に目覚めていた。  クレーレは手を伸ばしてカーテンをめくった。外は薄暗い。上掛けから、かすかに甘い、花のような、香辛料のような、慣れない匂いをかぎわけた。軒先から窓枠へ垂れるしずくが穏やかなリズムをつくっていた。  雨のなかの旅は面倒が多いが、この寝床はここちよかった。隣で眠る温かい体がもたれかかる、その重みもここちよかった。クレーレは腕を伸ばして温もりをひきよせる。  アーベルが眠っている。  顔をクレーレの胸のあたりに向け、背中を丸めて毛布にくるまっていた。安らかで規則正しい寝息がたつ。裸の肩に腕をまわして足をからませても起きる気配はないが、クレーレが背を抱きこむとこちらの首に手をまわし、肩口に頭をのせようとする。そのままことんと眠る様子はまるで子供のようだ。  クレーレは幸福な気分に満たされながらアーベルを抱きしめていた。ふたりで朝を迎えられることに心の底からの満足を感じていた。  春に婚約したアルティン殿下の結婚が、秋のはじめに無事執り行われたあと、王宮と師団の思惑が一致したのである。クレーレとアーベルは二人で使節として大陸に派遣されることになり、いま、クレーレはこの見知らぬ土地にいる。  もちろん王宮も師団も、それぞれの使命をふたりに与えていた。異国の政体のお偉方を訪問するところからはじまるこの職務では、今後何が起きるのかまったく予測がつかない。しかしクレーレにとっては、国にいるときとくらべものにならないほどアーベルと共に過ごす時があるのが喜びだった。一昨日到着し、逗留している宿屋はエヴァリストの手配によるものだが、あの癪にさわる男に手を借りていることも気にならないくらいだ。  眠ったままのアーベルのうなじに指をはわせ、耳のうしろを愛撫し、肌にくちづける。からませた足のあいだで、朝の生理的な反応が抑えがたい。アーベルの首筋からそのまま唇をおろして、胸のとがりをなめる。アーベルはぴくりと動いて、薄く目をあけた。 「……おい、クレーレ…」 「おはよう」  体をずらし、そのまま唇を重ねながら、アーベルの堅くなった中心と己の中心を触れあわせ、腰をゆすった。かさねた唇のはしから唾液があふれ首筋までつたっていく。唇を離して顎の唾液をなめとり、耳たぶをしゃぶる。アーベルの唇から喘ぎがもれ、さらにクレーレを興奮させる。 「馬鹿、朝から――」 「まだ夜明けだ」  言葉とは裏腹に腕のなかの体は従順だ。クレーレは密着させた腰をさらにゆすり快感を高めていく。交換する吐息が荒く激しくなり、ほぼ同時にのぼりつめる。脈打つ胸と胸を触れあわせ、たがいを守るようにからみあったまま、鼓動がおちつくまでそのままじっとしていた。  どのくらい時間がたったのか、ふたたび夢うつつになっていると、突然ドンドンとドアが叩かれた。 「きみたち――そろそろ時間だ。遊んでるなよ」  エヴァリストの声だ。隣のぬくもりがむくりと起き上がり「うるさい、黙れ」と叫ぶ。アーベルはこの相手にまったく遠慮がない。そのことに多少嫉妬めいた気持ちもあるが、クレーレはもう揺らがなかった。  身支度の仕上げにクレーレは剣をつる。アーベルは暗色のローブを身につけ、椅子に腰かけてブーツの紐を締めた。窓をあけると夜明けの雨はやんだらしい。やけにだだっ広く、見慣れない形の葉をもつ木々が点在する、見知らぬ風景が広がっていた。不安とも喜びともつかない気分がクレーレをざわめかせる。  腕にかけられた手に、ふりむいてアーベルの眸をみた。静かで、波立たない湖のようだった。 「行こうか」  短く告げてアーベルは扉へ向かい、クレーレは背後についていく。

ともだちにシェアしよう!