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【番外編】きれいな水の流れる川

 腕は正しい位置を維持し、狙った方向へまっすぐ伸びる。  足と腰が完璧に連関し、きびきびと動く。  訓練場の片隅でクレーレが新人に稽古をつけている。簡単な防具のみの彼に相手は頭部と胴をしっかり守る装備で激しく打ちかかるが、クレーレは余裕があり、次に剣が来る場所をつねに読んでいるようだ。  ふたりとも暑そうだなあ、と俺は訓練場を囲む塀の上で呑気に考えていた。久しぶりの王都は日差しがきつく、フードの下で俺は汗ばんでいる。眼下に広がるのはこれまた久しぶりにみる稽古風景で、いつもながら、剣を振るう騎士たちはダンスを踊っているように見えた。全体が俯瞰できる高い位置から眺めているせいもあるだろう。  剣の稽古をつけるクレーレの手首は小気味よく右に左に回転する。なのにその位置はいつも体の芯となる場所にあり、動かないのが不思議だった。両手剣の相手に稽古をつけるため片手を腰のうしろに回している場合は、さすがに右腕の肘を上げた構えとなるが、胸の前にあいた空間に剣を突きつけられるようなヘマはけっして犯さない。遠目にどれだけ美しいダンスのように見えたとしても、この剣は恐ろしいものだ。振りおろされる刃は、ひとの命をたやすく奪い去る。  王都に戻る前、大陸で、この剣をクレーレが実戦で使うのを何度か見た。すべて長旅の道中につきものの物騒な連中相手で、クレーレは必要なときは必ずとどめを刺した。  この国の騎士は王から剣を持つ権利を与えられ、王と国の平安のために存在する。しかし長い年月にわたって他国との戦争が起きていないから、騎士の剣は他国の兵士の生命を奪うのではなく、国内の平安を乱す者を取り締まるために使われている。つまりこの国の「騎士」は大陸風にいうなら憲兵であって兵士ではない。  だからといって、この国の騎士の剣はなまくらではない。俺にはむしろ逆で、無駄に鍛えられている、あるいは実戦に使うには不要な鍛え方をされている、と感じる場合もある。  このままいけばいずれは、この国の剣はひとつの美学の領域に達するのではないだろうか。しかしその頃にはきっと剣ではない別の武装が登場していることだろう。ひとを斬るのはきれいなことではなく、美学とは相いれない。  そして「別の武装」となるのは、もしかしたら俺が使う回路魔術なのかもしれない。 「アーベル、騎士団に見惚れるな。そのレバー、二〇分に一回高速回転の設定だ。気をつけろ」  横からテイラーの声が聞こえていたが、俺は注意散漫だった。見惚れていたかどうかはともかく、王都の平安に満ちた空気に気が緩んでいたのはたしかだ。 「ああ、わかってる」  そう返した、まさにその時だ。  風を切るようなブンっという音がきこえた。ついで、左胸の下に強烈な一撃が入る。 「うっ……」  息が止まるかと思うほどの衝撃だった。塀に仕込まれた装置のレバーがぐるりと回転し、ぼんやりしていた俺に喝をくれたのだ。俺は空気を求めて呼吸し、よろめき、そして足が空白を踏んだのに気づく。  強打した部分の痛みはとんでもなかったが、受け身をとるくらいの余裕はあった。飛び立ちそこねたカラスさながら、俺は塀の下へ落ちた。  半年以上にわたる大陸の旅からこの国へ戻って俺が最初に実感したのは「川の水が青い」ということだった。王都に入る直前、ゆるやかに蛇行する川に沿ってクレーレと馬を並べているあいだ、俺はずっと妙な違和感を感じていた。その正体がわかったのは不在のあいだに完成した橋を渡った時だ。 「クレーレ、川が青いぞ」と俺はいった。 「ん?」 「濁っていない。赤茶色でもない」  クレーレは一瞬何の話をしているのかわからないという顔で俺をみたが、すぐに合点したらしく、うなずいた。 「そうだな。帰ってきたという気がする。それに川を渡るため、腰まで泥につからなくてすむのはありがたい」  俺はといえば、クレーレのような帰郷の感慨ともちがう何か他のものに圧倒されていたが、うまく名前をつけられなかった。思えばそれはこの国全体に漂う平安の空気だったのかもしれない。大陸では大小の国家や部族が覇を競い、激しい戦闘こそ起きていなくても、国境での対立や騒乱が慢性化している地域もあった。この国の穏やかな空気はやはり驚くべきものだった。  川も、いくつも渡った。船でなければ渡れない大河、馬で一気に走り抜けた浅瀬、それにクレーレがいったように、馬を引いて荷物を背負い、泥まみれになって歩いたクリーク。  王城へ報告をすませるとクレーレはまもなく近衛騎士団に復帰した。俺はしばらく師団の仕事を免除され、城下の屋敷で自分の研究をしていたが、それも退屈してきたので何か仕事をくれとテイラーにいったのだ。そしてたいして仕事もしないうちに―― 「自分が設計した装置にやられてるって、間抜けすぎるんじゃないの」  とエヴァリストにいわれているありさまである。  たしかに間が抜けていると思う。が、自分からそれを認めて傷口に塩を塗る必要もないだろう。  エヴァリストには大陸でそれなりに世話になった。顔が広いし、味方につけていれば頼れることは多いのだ。奴はあいかわらず旅ばかりらしく、いま王都に滞在していたのは偶然だった。王立学院と精霊魔術師が所属する王立魔術団のあいだで何やら企んでいるのでは、と俺はにらんでいたが、下手につつくと逆に巻きこまれるので、聞かないでおいた。 「で、なんだって?」  城下の屋敷へやってきては嬉しそうに目を輝かせているエヴァリストへ、俺はしぶしぶ答える。 「残念ながら折れていた」 「へええ。どこ? どこ?」  俺は胸から腹にかけて固定しているバンドを服の上から指さした。 「たいしたことはない。肋骨一本だ。湿布を貼って固定して、二、三週間おとなしくしていればくっつく」 「肋骨折ったのは初めて?」 「骨折自体が初めてだ」 「肋骨のまわりはやわらかい組織が多いからね。下手をすると肺とか大事な内臓が傷ついて出血多量の大惨事になる。ちゃんと診てもらったかい?」 「施療院のまともな治療師に診てもらった。ちゃんと<視て>もらったからな」俺は「まともな」を強調した。「重いものを持ったり、運動しなければ大丈夫だそうだ」 「でも痛いだろ?」  またにやにやしながらエヴァリストがいう。ほんとうに楽しそうで腹が立つが、その娯楽を提供したのは俺の不注意なのでくやしい。 「湿布があるさ」 「それ、すぐに治すこともできるよ? 魔力で骨の修復を速めて…」 「ああ、それも聞いた」俺はエヴァリストの前でひらひらと手を振る。 「ただ治療者の負担も大きいと聞いた。第一どこも人手不足で、大変らしい。おとなしくしていれば治るものをいちいち手間かけてもらうこともないだろう」 「へえ。断ったんだ」 「治療者の人手不足は深刻らしい。治療者になる精霊魔術師を増やすよう、施療院だけでなく王宮からも王立学院へ働きかけているくらいだ」 「ああ、それは知ってる」  エヴァリストはまたにやにやした。腹に一物ある笑顔で美男子も台無しだ。まあこいつの顔は見慣れすぎて、もはや美男子とも思わないのだが。 「だけどしばらく痛いよ?」 「そんなの我慢すればいいだけだろう」 「それに激しい運動できないと困るでしょ」 「俺の仕事はべつに激しい運動なんてしなくてもいいぜ」 「いやほら、夜とか」 「夜?」 「ほら、きみの騎士とさ……」  俺は一瞬ぽかんとして、それから反射的に拳を握った。 「アーベル、ほら運動禁止! それに暴力はよくないよ? きみ平和が好きなんだろ?」  俺はしぶしぶ、振り上げた手をおろす。 「あんたが口をひらくとろくなことがない」 「いやほら、冗談抜きで、僕ならすぐ治せるよ? 全治三週間が全治三日間くらいに」 「断わる」 「どうしてそんなに一刀両断なのさ。僕ときみの仲なのに」  たしかに俺は奴とつきあいが長かった。つまり、奴がこんなふうに笑うとき何を考えているかよくわかるくらい長いということだ。 「――あんた絶対、楽しむだろ」 「え? いやそりゃね、無償で治療するわけだから……」 「本当は痛みなしでやれるのをわざと痛くするとか、こっちの魔力も無駄に使うとか…」 「まあ、無償でやるならそれなりにね、楽しくやりたいじゃない?」 「断わる」 「なんだ、つまらないなあ。きみの騎士に誤解は与えないようにするのに」 「なおさら駄目だ」  駄目なんてものじゃない。きっとろくなことを考えていない。  そういうわけで俺はエヴァリストを追い返した。やつは「あと一週間王都にいるから、もし治してほしければ連絡してくれ。アーベルのためならいつでも馳せ参じるから」とのうのうと抜かし、去って行った。   その晩、クレーレが屋敷へ来た。目ざといので、昼間俺が塀から落ちた場面はばっちり見られていたらしい。ますます自分を間抜けに感じる。  長椅子に座った俺を見下ろし、なだめるように「肋骨は折れやすいんだ。それにきれいに治さないとあとあと響くから、大人しくしていてくれ」という。  俺としても同感だった。昼間エヴァリストに威勢のいいことをいったものの、動いたり咳をするたびに体の左側がずきずき痛むので、大人しくしているしかなさそうだった。固定用のバンドもうっとうしい。 「騎士団では肋骨を折るなんて、よくあるのか?」  そうクレーレに聞くと、「ああ。勤務中だけじゃない。新人がいきがって、防具をつけずに稽古して折ることもある」と答える。 「おまえも稽古では防具をつけていないことが多いぞ」 「新人相手だからな」  クレーレは長椅子に座った俺の肩に手をかけ、かがんでそっとひたいに触れた。そうしながら「どうして塀の上からみているんだ?」という。  俺は意味もなく赤面した。 「テイラーの作業のついでだ。たまたまおまえが稽古していたんだ」 「王都に戻るとなかなか会えないのに」 「今会ってるだろう」 「大陸では毎日一緒だったのにな……」  そんなふうに甘ったるくいわれると拒絶できない。ひたいから下りてきた唇と唇が触れ、俺たちはキスをする。最初は軽い触れるだけのキスだが、繰り返し重ねるうちにだんだん深くなる。クレーレの腕が腰にまわり、俺を抱き寄せようとする。 「っつ……」  とたん左側に痛みが走って、俺は体を緊張させた。クレーレがはっとしたように力をゆるめる。 「すまん。大丈夫か?」 「ああ。問題ない」  俺は思わず笑い、そのせいで走った痛みに顔をひきつらせた。クレーレは真剣な眼で俺を見下ろす。 「俺が悪化させたりしたら、とんだ笑い者だ」 「大丈夫だって」  俺はそういったが、子供のように髪を撫でられた。 「しばらく……駄目か」  つぶやく声に俺はエヴァリストの言葉を思いだし、急に真っ赤になった。 「そんなこというなよ」 「なぜ」  ますます聞くな、と思う。 「そういえばエヴァリストが――」  と、奴の名前を出したとたんクレーレは眉をひそめた。 「あいつが何か?」 「いや、その、もし良ければ滞在中に治してやるって……ほら、奴は治療もできるから、魔力で骨の修復を早める――」 「駄目だ」  クレーレは言下に否定した。「あいつには触らせない」 「たしかに奴の治療は癖があるが、全治三週間が全治三日に――」 「駄目といったら駄目だ」クレーレの顔がもっとけわしくなり、それからふっとゆるんだ。 「いいんだ。キスはできる」  そして俺のあごをつかまえ、またそっと唇を重ねた。 「アーベル。明日出発するけど、ほんとうに治さなくていい?」  エヴァリストがふたたび屋敷に現れたのは一週間後のことだった。  湿布を貼っているので多少ましだが、俺はあいかわらず胸から腹にかけてバンドで固定し、体を曲げたりねじったり咳をしたり笑うたびに「痛っ」とつぶやき、テイラーはおろかルベーグにまで笑われている始末だった。屋敷にはちょうどクレーレも来たところで、無表情で手土産の酒とつまみをテーブルに並べている。 「あと二週間で治るんだろう。いらん」  クレーレが聞き耳を立てているのがわかっていたので、俺はできるだけそっけなくいう。エヴァリストが絡むとクレーレは面倒くさくなるのだ。 「なんだ、つまらないなあ」  エヴァリストはポーズでなく残念そうだった。 「きみに治療できる機会なんてあまりないのに」 「たくさんあっちゃ困る」 「ほんとにいいのかな? クレーレも」いきなりエヴァリストはクレーレへ話を振った。 「困ってるだろ? ほら、正直に」  クレーレはエヴァリストに目をやり、眉をひそめた。 「どうせけしからんまねをするつもりだろう」と低い声でいう。怒ってはいないが剣呑な声だった。 「そんなことしないよ。大事な元相棒なんだから」 「今は俺の――」 「まあまあ、わかってるから」  エヴァリストは飄々という。 「僕はね、親切でいってるんだよ。これが聞くの最後だよ? いいの?」  その口調に含まれた何かがクレーレを動かしたようだった。エヴァリストにまっすぐ向くと「すぐに治るのか?」と聞く。 「1週間たったし、全治一日まで短縮できるよ」 「それなら……」迷うように俺をみる。「アーベル?」 「あー……」俺はあいまいな声を出した。ここ1週間、思うように体を動かせなくてうんざりしていたので、一日で治るのは魅力的すぎる提案だ。 「そうだな――」 「ちくしょう、やっぱり痛いじゃないか!」 「そりゃあ、折れてるところの骨の生長を魔力で無理やり促進するわけだから――そんな、無意味に痛い思いさせてるわけじゃないよ」 「でもあんた絶対、楽しんでるだろ!」 「楽しむのは僕の特権じゃない?」 「アーベル、大丈夫か?」  長椅子に座りんだままの俺の体から手を離し、同じく長椅子に腰をおろしていたエヴァリストはにこにこしながら前に立つクレーレを見上げる。 「大丈夫だって。ところでひとつだけ、ご褒美いいかな?」  そしてあっと思う間もなく俺の上にかがみこみ、耳の後ろに唇を触れながら小さくささやいた。  俺は自分が真っ赤になったのがわかった。 「エヴァリスト、あんたー」 「おい、離れろ!」 「ごちそうさま、おかわりはいいよ」  この国はほんと、平和で安らぐよ。最後にそういってエヴァリストは去った。  たしかに大陸から戻ってくると王都の平安が身にしみる。この国の川にはきれいな水が流れているのだ。

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