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【番外編】混沌の意匠

「きみたち……前から思っていたが――」  もう我慢ならない、といいたげに体を小刻みに揺らしながら、ルベーグがいった。  ルベーグはなんというか、繊細な感じの美人だ。体も顔もたしかに男性なのだが、それでも美人だと十人中九人にいわしめてしまうような姿かたちをしている。彼ほど「絵に描いたような」人間はそうそういないのではないかと思うくらいだ。  ――その、ものすごく腕のいい画家の手になるような理想的な弧を描く眉がひそめられると、すごく迫力がある。 「――床にカオスをつくるのは許さない」  俺はテイラーと顔を見あわせ、ついで俺たちの前に積まれた雑多なモノと、机の周囲の床に積まれた雑多なモノを見回した。 「えーっと……」まずテイラーが口をひらく。 「僕にはそれほどカオスは見えないんだけど……ねえ、アーベル」  この部屋はルベーグと俺、それにテイラーの三人で使っている、師団の塔の一室だ。最近は研究室と呼ばれることもある。誰がいいだしたのかはわからない(俺たち三人ではない)が、実際「執務室」というより研究室の方がふさわしいだろう。回路設計と試作品のために必要な道具と、紙と、若干の文献と、それを使う俺たちのための部屋だ。俺たち三人の上司であるエミネイターの机もあるが、そこは基本的に彼女が食事をとってだべっていくだけの場所だから、彼女がいないときはここの全員がお茶を飲む場所として使っていて、ポットとお菓子の置き場と化している。  さて、俺とテイラーが見回したもの――積まれている雑多なものの大半は、まず紙である。床に積まれた雑多なものの多くもそうだ。しかしそこにはもちろん描きかけの回路だけでなく、部品の屑もまじっているし、食べ物の屑もたぶんあるし、空の酒瓶もあるし、なぜそこにあるのかよくわからないものもある。靴の底だけとか、犬の首輪とか、きれいな包装紙やリボンとか、何のためのものかわからない木型とか。  テイラーの言葉をきいて、完璧な眉をひそめたままルベーグはいった。 「へえ。カオスに見えないのか。アーベルはどう思う」  俺はテイラーとルベーグを交互にみて、あいまいにうなずいた。 「ああ、まあ……まあな。まあ、美しいとはいえないが……」 「でも臭ってはこないし。ねえ、アーベル」すばやくテイラーが口をはさむ。 「ルベーグ、きみがカオス、つまりごちゃまぜだと思うものと、僕がごちゃまぜだと思うのは違うと思うんだ。僕はだいたいどこに何があるかわかってるし、第一わかってなくてもどうにかなる。きみにとってはカオスかもしれないが、僕にはそうじゃない。ねえ、アーベル」 「あらましで同意だ」  俺は反射的にそう答えた。もっとも実際はテイラーのいったことにほんとうに賛成したわけではなかった。つまりその――俺が思うに床はたしかに、誰にとってのごちゃまぜとか、そういう段階はおそらく通りこしていたからだ。  しかしテイラーは明晰なのに面倒なやつで、それをいうならルベーグもだが、つまりこのふたりがこうやって話しはじめると俺はすごく面倒な事態に巻きこまれかねない。そしてだいたいにおいて、物事をいいかげんにかつ適当に乗り切っていきたい俺からすると、ふたりのちょうど中間地点でうなずいているくらいがいいのである。 「テイラー。アーベル。ポイントはそこじゃない!」  びしっとルベーグがいった。 「世界にはつねにカオス――混乱や騒乱、混沌が存在する。これは世界の必須条件だが、一方秩序も重要だ。秩序の部分とカオスの部分は拮抗していなければならない。だがカオスは秩序よりも力が強い。ある閉鎖空間でカオスが閾値を超えると、秩序はカオスに対抗できない。――いまのこの部屋がそうだ」 「あ――ルベーグ」俺とテイラーは同時に声を発した。 「そんなおおげさな」 「おおげさじゃない! きみらの周囲の床をみろ、床を! 足の踏み場もない」  俺とテイラーは今度は足元をみた。足の踏み場はまったくないわけではなかった。少なくとも通路になる程度の隙間はある。それで思わず俺はよけいなことをいった。 「足の踏み場くらいはあるぜ、ルベーグ」 「――アーベル」  俺はよく思うのだが、ルベーグのような美人がにやりと笑うと、迫力あるだけでなくすごく怖い。こういうのを「凄惨な笑み」というのだろうか。 「は、はい?」 「もうすぐクレーレと大陸へ出発するんだろう。ひょっとしてそのときこのカオスを残していくつもりだった?」  今度は、ルベーグは唇の端をかすかにあげて微笑みをつくる。なんだろう、天使の笑み? 悪魔の笑み? 「――あ……いや、そんなことは……」  ないです……と語尾にいたって蚊のなくような声で俺はこたえる。  5日後に俺はクレーレと出発するのだ。使節および調査の名目で大陸行きの船に乗ることになっていて、そのためにまず隣国の港へ行かなければならない。今日、ルベーグにこういわれるまで、俺は自分の机やその周辺を片づけていくなど考えもしていなかった。しかしいま俺はまったく突然に考えを改めた。もちろん片づけていくべきだ。それが人間の正しい生きざまというものだ。たぶん。  よろしい、とルベーグは微笑みを顔に貼りつけたままうなずく。 「それでは、まずこの小さな世界に最初の秩序を生むための二分法を与えることにする。テイラー、アーベル、いまから何をするかがわかるか?」  俺とテイラーは床をみつめたまま無言だった。なんだか教師に怒られている気がする。俺は教師が苦手なのだ。教室も苦手だ。だから学院へ通うのをあきらめたくらいだ。しかし相手はルベーグだ。友人であり、同僚である。彼が我慢ならないというなら相当なものなのだろう。――というわけで、俺とテイラーは次の言葉をまつ。  託宣が下る。 「床には不要なものをおきたまえ! これから先、この執務室で床にあるものはゴミであり塵である。必要なものは床以外の場所、机の上、棚の上、椅子の上、何でもいいから床より上へおきたまえ」  俺とテイラーは同時に顔をあげ、ルベーグをみる。美人は怖い、とふたたび俺は思う。美人は怒らせるものではない。いつも物静かにさせて、ときおりつまらない駄洒落で笑わせておくくらいにしておかないと、この世が滅びかねない。 「こうするとまず、床とそれ以外の空間二分法が完成する。その次は床にあるものを拾って捨てる。こうして床からカオスをとりのぞく。くりかえすが、床にカオスを作るな! 作るんじゃない!」 「ルベーグ、落ちつけ」俺とテイラーはふたたび合唱した。 「落ちついているが?」とルベーグは胸に手をあてて俺たちをみる。 「床からカオスを一掃したら、次は上に置いた「必要なもの」を「こちら側に置くもの」と「あちら側に置くもの」でニ分する。これをくりかえせばいいだけだよ。簡単だろう? 所要時間は――」  ルベーグは窓の外をみた。塔の外は晴れて、午後の日差しでまぶしいほどで、差しこむ光に彼の銀髪が輝いている。そして予言した。 「この作業は日が暮れるまでに終わる」  言葉の力、予言の力はすごい。ルベーグのいう通り、俺たちは日暮れまでにほぼ部屋の片づけを終了させていた。  掃除というのはやってみるものだ、と俺は思った。きっと多くの人にとっては掃除などたいしたことではないのだろうが、俺には掃除はいつも困難な事業だ。そもそも俺にとって掃除の何が問題かというと、なかなか手を付けるまでいかないことなのだが。  というわけで俺は言葉だけでなく掃除の威力も実感した。すごかった。床からも机の上からも実にいろいろなものが出てきた。俺がずっと前に失くした石板(とっくに終了したプロジェクトに必要なことが書いてあった)知恵の輪(遊ぼうとしたらルベーグに取り上げられた)空の酒瓶もたくさんでてきた。おかしな話である。ここは仕事をする部屋のはずだが、酒瓶がごろごろ出てくる。机と壁の隙間とか、紙と紙のあいだとか。 「俺たちこんなにここで飲んでいたか?」  俺が聞くとテイラーが「仕事が終わって一杯はけっこうやった気がするな」と答える。 「でもどうしてこんなところに入りこんでいるんだ」 「自分で入ったんじゃないか」  ルベーグが冷たい視線を俺たちふたりに投げた。「そんなわけあるものか。きみらが置いたんだ。酔っぱらいめ」  テイラーはかまわずおしゃべりを続けている。仕事中も比較的よくしゃべる男だが(しゃべりながら考えるタイプなのだ)今はもっとひどい。手も止まりがちだ。 「なあ、アーベル。きみの屋敷っていつも片付いているじゃないか。本人はこれなのに、どうしてそうなってる?」 「近所のおばさんに掃除を頼んでいるんだ。それにク――」俺はあわてて言葉を切った。「何でもない」  しかしすかさずテイラーに突っこまれる。「何だって?」 「何でもないよ」  俺の否定をテイラーは聞いてもいなかった。 「あれか。どうせクレーレが片づけたりするんだろ? 騎士はマメなやつが多いからな」 「――まあな」あきらめて俺はボソボソとこたえる。  クレーレはいつも格好良く騎士服を着こなし、磨いたブーツを履き、剣の手入れを怠らず、彼の部屋の毛布ときたらいつも角をそろえてきっちりと畳んである。なんでも新入りのころに宿舎で訓練されるらしい。そんな彼は俺のところにきても、とっちらかっているのが我慢できないらしく、長椅子に寝っ転がっている俺を尻目に床のゴミを拾い、飲んだグラスや皿を片づけ、あげく俺のローブにまでブラシをかけようとする。ローブはさすがに、俺が脱いだり脱がされたりしている場合にかぎるが。 「いいねえ」  口笛を吹いてテイラーが横目をむけるので、俺は反撃材料を探した。そうだ、あれだ。 「おい、また出てきたこれ、テイラーのだろう」  俺はしゃがんで丸まった橙と紺の縞の靴下の一方を拾い上げる。合わせれば何足目だろうか。さっきからなぜか酒瓶にまじって出てくる靴下はすべてテイラーのものだった。 「いちいち聞くな、アーベル。テイラー以外にここで靴下を脱ぐ人間などいない」とルベーグがいう。  反射的に俺はテイラーの足元を見る。ローブの裾に見え隠れするのは片足が黒、片足が灰色の靴下と革のサンダルだ。 「今は履いてるけどな。左右の色がちがうぞ」  テイラーはけろっとしていった。 「願掛けだよ願掛け。僕の人生の目標が達成できるまで毎日色ちがいの靴下を履くって決めてる」  俺は思わず突っこむ。「目標ってなんだよ」 「秘密だ。誰かにいうと無効になるんだ、こういうのは」 「だけどここでその願掛け靴下、脱いで放置してていいのか?」  真顔できくとテイラーは「そうなんだよなあ」と首をかしげた。 「うっとうしいからすこしのあいだ脱いだだけのつもりなんだ、いつも。で、そのへんに置くんだが、いつの間にかなくなってる」  こいつの「人生の目標」とやらはいったいなんだろうか。テイラーには実は謎が多い。よくしゃべる男で、あけすけにものをいうようで、実は仕事と私生活の区別が山と海ほどにはっきりしている。こいつの「私」の部分は海の底にあり、要するに俺にはまったくわからない。とはいえ、人間なんてもともとそんなものかもしれない。  それで俺はこういう。 「そのへんに置いたものがどうしてこんな隙間に入ってるんだ?」 「さあ。世界の七不思議ってこういうもんだろう、きっと」 「安易な七不思議もあったもんだ」 「じゃあアーベル、どうしてモノはすぐごちゃごちゃになってしまうのか、靴下が隙間に入ってしまうのか、そこら中に酒瓶がおちているのか、そして掃除をしているだけの僕らの考えもすぐごちゃまぜになるのかを答えられるか?」 「とりあえず、モノがごちゃごちゃになる理由は簡単だろ」  話しながら俺はかがんで机の下の紙くずを拾い、これで最後だろうと思った。部屋はみちがえるほどきれいになっている。すべてのものが整頓されたわけではない。ルベーグのテリトリーは素晴らしく片付いているが、俺とテイラーの机の上はあいかわらずごちゃごちゃだし、作業台の上だって塵ひとつありませんというわけではない。しかし床によけいなモノがなくなると、それだけで室内の印象はすっかり変わった。この狭い室内世界だけの話だが、カオスがほぼ殲滅されたような気がする。  なるほどこれがルベーグのいう「秩序を生むための二分法」であるわけだ。 「モノがすぐごちゃごちゃになってしまうのは、俺たちがごちゃごちゃだと感じるような配列の方が、ごちゃごちゃでない、秩序立って感じる配列よりも多いからだ。たくさんある方が起こりやすいに決まってるんだから、モノはすぐごちゃごちゃになる」 「へえ。なるほど。じゃあ、僕たちがごちゃごちゃだと感じる配列もすべて秩序として捉えることができる何者かがいれば、そいつにとっては世界に混沌は存在しないのかな?」とテイラーがいう。 「そんなのがいるなら、きっと全能だな」俺は反射的に答えた。「世界に謎はなにもないことになるだろう。でもそんなことが可能なんだろうか? カオスなしの世界なんて?」  自分で口に出した問いをどうおさめようかと思ったとき、黙って話を聞いていたルベーグが口をはさんだ。 「カオスも視点しだいで美しくみえることもある。一種の――意匠のように」 「それなら多少部屋が混沌としたっていいんじゃないか?」  テイラーの言をうけて、ルベーグは静かにいった。 「でも制御できないんだ。制御できない魔力がどんな結果を引き起こすか、わかるだろう?」  俺たちはたがいに顔を見合わせた。俺はテイラーとルベーグが何を思いおこしているか、手に取るようにわかる気がした。俺の――伯父の屋敷で精霊動物が引き起こしていた混乱。大陸から来たあの男がもちこんだ回路が引き起こした魔力の暴発。それは俺自身を窒息させるところだった。 「たしかに混沌の意匠は魅力的だ。いずれもっと研究したいと思ってる」  とルベーグが言葉を続ける。 「でも――アーベルとテイラーにいいたいのはだ、そこら中に酒瓶が落ちていたのは、いったいそんな摩訶不思議な世界の法則によるものかってことなんだが――」 「お、きれいになったな――みちがえるようじゃないか」  いきなり予想外の声が振ってきて、俺たちは三人そろって扉の方を向いた。  敷居には男装したエミネイターが立っていた。颯爽とした美青年にみえるが、俺たちの上司である。両手に重そうな袋をさげている。中身はどうも酒瓶らしくみえる。この上司は男装すると完全に美麗な青年に化けるが、両手に酒瓶をさげてにやにやしているとただ怪しいだけだ。その怪しい美青年はつかつかと入ってきて、袋を空いた作業台に置いた。ゴトッと重そうな音がする。 「ルベーグ、どうやら片付いたじゃないか。じゃあ、はじめようか」  ルベーグはうなずいた。 「なんとか間に合いましたよ」 「さすがにあの有様じゃ狭すぎたからな。とくに床が」  完全にしめしあわせているらしいふたりに、俺はあっけにとられた。 「何をはじめるんです?」  エミネイターとルベーグが俺をじろりとにらむが、理由がさっぱりわからない。 「もちろん、5日後に出発するおまえの壮行会だよ、アーベル。決まってるだろう」 「いいですねえ」  聞いてないよ、と叫ぶ俺の内心をよそにしらっとテイラーがいった。こいつ知っていたのか。 「とりあえずワインとブランデー、塔の地下にあったのを貰ってきた。ストークス師のおごりだ。レムニスケートが後でクレーレも差し入れるそうだ」  これまたしらっと告げるエミネイターに俺は思わずつぶやく。 「差し入れって、ひとを食べ物みたいに……」 「壮行会といっても、おまえとクレーレを肴に飲むようなものだからな」 「あー……ひとを肴にする癖はやめたほうがいいんじゃないですか?」  テイラーがまのびした声でいって立ち上がり、てきぱきと洗ったばかりのグラスを並べはじめる。この部屋の掃除に取りかかったときとちがい、今度の行動はすばやかった。 「とりあえずは僕たちだけで乾杯といきますか」  俺たちは台のまわりに集まって各々の飲み物を手にとる。テイラーはなみなみと酒をついだグラスを片手に首をかしげた。 「最初は何に乾杯しますかね」 「まずはアーベルの旅の無事を祈ったりするんじゃないか」とエミネイターがいうが、テイラーは首をふった。 「それはレムニスケートから肴が到着した後がいいんじゃないですか?」 「それなら――」俺はぼそぼそとつぶやく。急にひどく照れくさい気分になっていた。こんな会が計画されていたとはまったく知らなかったのだ。「この部屋が片付いたことにでも」 「いいね」とテイラーがいい、ルベーグがうなずいた。 「アーベル。音頭とってよ」  テイラーにうながされ、俺は一瞬考える。 「俺たちのカオスと秩序に――混沌の意匠に、乾杯」  グラスとグラスが触れあって、透明な音が鳴る。

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