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【番外編】太陽の光のふち

  *  本編から約7年後のお話。   *  どしゃぶりの雨をけちらしながら俺たちはその小屋にかけこんだ。  もっとも「小屋」と呼ぶのはクレーレだけで、俺にいわせれば立派な家だ。レムニスケートの所領の湖を見下ろす山荘で、子供のころから家族で休暇を過ごしていたというクレーレにはせいぜい小屋にしか見えないようだが(なにしろレムニスケートの領地にある本宅は途方もなく立派な屋敷なのだ)階下は大きな暖炉がしつらえられ、石材と木組みの壁は重厚な壁掛けで覆われている。  激しく雨が屋根を叩く音がする。  俺もクレーレも文字通り水のしたたるいい男――になっていたが、おたがい冗談を飛ばすような雰囲気ではなかった。とっくに日が暮れ、おまけにこの天候だ。建物の中は真っ暗だった。クレーレはまず手近なランプを灯してびしょ濡れの上着を脱ぎ、戸口の釘にかけた。まっすぐ暖炉へ向かい、ひざまずいて火を入れはじめる。  炎に照らされて、精悍で端正な横顔がこわばっているのがわかった。  俺も黙って上着を脱いで掛け、ブーツの紐を解きはじめた。濡れて固くなった結び目にいらいらしながら片足ずつ引っこ抜く。ありがたいことにブーツの中は濡れていない。雨は上着の内側までは濡らさなかった。俺は靴下も脱ぎ、はだしで鞍袋をひきずりながら石の床からなめらかな木の床、そして敷物の上へとあがった。ここには誰も住んでいないが、レムニスケートの使用人が居心地よく整えてくれていて、俺も何度か訪れているのでどこに何があるかはだいたい知っている。  暖炉の前でクレーレが立ち上がった。火が薪をなめてのびあがり、パチパチと心地よい歌をうたいはじめる。俺は棚から乾いた布を引っ張り出すとクレーレに投げた。 「拭けよ」  クレーレは黙ってうけとめると、無言で俺をにらみつけるようにしたが、眼をそらして頭をふきはじめた。髪から滴った水で首や肩がつめたいのは俺も同じだ。嵐で急激に外の気温が下がったから暖炉の前は魅力的だが、今のクレーレのそばには近寄りにくかった。  クレーレは人前で滅多に怒りをあらわさないし、簡単に不機嫌にならない。部下の騎士が馬鹿な真似をしでかしたり、失敗したときであっても、クレーレは単純に叱りつけたりしないらしい。たまに俺に愚痴をこぼしにくる騎士たちも、しごきが厳しいとぼやくことはあっても理不尽な怒りを向けられたとはいわなかった。この態度は上に対しても同じで、王族や貴族のお歴々が無茶ぶりをした場合も彼はまずはおだやかに話を聞く。だがどんな人間を相手にしても、厳しい態度が必要なときはそれをはっきりと示す。  上に立つ人間としては出来すぎなくらいだが、レムニスケートは往々にしてそんな逸材を出す家系らしい。  そのクレーレが怒っている。  クレーレは怒ると口数が減る。加えてとにかく雰囲気が悪くなる。見るからに表情がけわしくなるのだ。彼が滅多に怒ることがないのは周囲にとって幸いだろう。  しかも怒っている原因はわかっている。俺だ。  しかし俺の方にもクレーレに対して頭に来ることはあったのだ。本来、ふたりしてこんな気分のときに小旅行になど出るべきではないのだろう。だがここしばらく俺もクレーレも忙しく、これは久しぶりの――ほんとうにおたがい久しぶりの休暇だったから、予定を変えるのはどうかと思ったのだ。それにこの山荘には何かといい思い出もある。  そんなふうに考えたのは、もしかしたらクレーレも同じだったのかもしれない。しかしおたがいの目論見はどうあれ、何もかもがあまりいい方向へ転ばなかった。王都を出たときから天候は怪しく、季節外れの嵐が近づいていた。最近のいさかいもあって、馬の背に揺られた道中、俺たちの会話は弾まなかった。雲行きはどんどん怪しくなり、雨が降りはじめ、だんだん激しくなった。ずぶ濡れになる前にどこかで宿をとるか、それとも今日のうちに強行突破するか。  いつも慎重なクレーレは宿を探そうといったが、俺は亭主と交渉したり、他人に囲まれて飯を食ったりするのが面倒で、とにかく進もうと言い張った。というのもここしばらくの間、俺はある仕事のために屋敷か師団の塔にこもりきりだったので、ごく普通の生活に必要なやりとりすら苦手になっていた。正直いって仕事以外のなにもかもが面倒だった。  クレーレは俺のこんなところにも腹を立てているのかもしれなかった。今回のいさかいの直接の原因はほかにあったが、何年つきあっても、たがいに理解できない部分というのはあるものだ。  俺は彼のうしろから声を投げる。「晩飯はどうする」 「もともと今日来ると伝えてあったから、食料庫に何かあるだろう」  クレーレは暖炉の方を向いたまま低い声でいった。俺は黙って髪をごしごし拭き、鞍袋の水滴もぬぐう。中身をたしかめて、油紙の包みが無事なのを見届けてほっとする。濡れた前髪が眼にささって痛い。伸びすぎているのだ。  俺が髪を切ろうと思うたびにクレーレが切るなといい、なんとなく先延ばしにしているうちに耐えられなくなって俺は髪を切る。するとクレーレが残念そうな顔をするので、俺はなんだか申し訳ない気分になり、またしばらく放置する。そして切ろうと思うとクレーレが切るなといい……  俺の髪について、俺たちは何年も同じやりとりを繰り返していて、進歩がない。ちなみに騎士であるクレーレの頭はいつも短く刈られてすっきりしたものだ。なんだか不公平な気がする。  食料庫には燻製肉やチーズ、林檎や穀物など十分な量がおさめられていた。これなら籠城できるな、と俺は思う。外は相変わらず雨音がひどく、窓もあけられない。どうせ湖は霧に覆われてみえないだろう。  クレーレが穀物を煮て粥を作った。騎士はまめなのが多い、とは仕事仲間のテイラーの弁だが、実際クレーレはこの手のことが得意だ。一方俺のような回路魔術師はというと、回路以外の事は何もできない人間が多い気がする。まあ少なくとも俺とテイラーはそうだ。俺とテイラーが仕事部屋をあまりにも散らかし、混沌の状態へ陥れるので、年に数回、同僚のルベーグと俺たちの攻防戦が繰り広げられる。俺は家のこともほぼひと任せだ。  俺たちはワインをあけ、肉やチーズを切り、粥を食べた。蜂蜜をかけた粥は甘くてうまかったが、俺たちは無言で食べていた。たまにクレーレと口論したりして、気まずい雰囲気になったあとで口火を切るのはたいてい俺なのだが、今日は俺は言葉を見つけ出せなかった。雨が激しく屋根を叩いているせいかもしれない。なんだかひどくみじめな気分だった。俺は鞍袋の中の包みのことをぼんやり考えていた。 「アーベル」  クレーレが呼んだ。俺はぼうっとしていて、反応が遅れた。 「どうした?」  俺は首をふる。 「何でもない」 「アーベル、例の件だが――」  俺は手をあげてクレーレの言葉をさえぎった。 「今はやめてくれ」という。  クレーレの表情は硬かった。 「その気はない、ということか」 「……そうじゃない」 「それなら――」 「今はやめてくれといっただろう」俺はいらいらと続けた。「雨が――うるさいからな」  クレーレは黙り、俺は後悔した。だがとりつくろう言葉もみつからず、黙って残りの食べ物を消化した。  食事を終えてまもなく俺たちは上へあがった。煙突の熱で部屋は温まりつつあり、俺の体もワインと食べ物でやっと熱を取り戻しつつあった。俺は服を着たまま上掛けの下にもぐり、横を向いて体をまるめた。クレーレの重みが隣にのってくる。ランプが吹き消されて暗くなった。暗がりで雨と風の音だけがはっきりと聞こえる。 「どうしてもだめか」  突然クレーレがいった。  俺は唾をのみこみ、何かいおうとした。 「クレーレ、俺は――」  低いが強い声がさえぎった。 「無理強いはできない。だめならそれでいい」  俺は気づかないうちにため息をついていた。あおむけになると、できるだけ落ち着いて話をしなければ、と思う。 「あの屋敷は――伯父から俺が継いだものだ。子供の頃に暮らしてもいて、だから俺は――あそこに住んでいたい」  クレーレの方からもため息が聞こえた。 「アーベル、別に引き払えというわけじゃない。研究所としてずっと使えばいい。それに毎日屋敷に帰っているわけでもないだろう。今も忙しいときは師団の塔で寝泊まりしているくせに」 「でもあそこは……」俺は口ごもった。「俺の家なんだ。家だと思えるようになるまで、かなり時間もかかった」 「それはわかってる」クレーレは天井をみたままいう。 「でも……だから俺とは暮らせないと?」 「ちがう!」俺は口走る。 「だったらなぜだ」 「おまえと暮らしたくないんじゃない。でも……」  俺はためらったが、ついに吐き出した。 「――騎士団長の屋敷は俺のいる場所じゃない」  クレーレがながく深い息を吐いた。  このいさかいの発端は、数週間前、クレーレの昇進が決まったことにはじまる。  もちろんクレーレはこれまで何度も昇進していた。家柄と能力が揃っている上に世継ぎの王子も買っているとあれば誰も文句はつけなかった。そして来春、その世継ぎの殿下がついに即位すると決まったとき(王が早めの引退を表明したのだ)そのついでかどうかは知らないが、クレーレも最年少で王立騎士団の長となることが決定した。さすがに破格の抜擢だと思うのだが、アルティン殿下がずっとクレーレを右腕同然に扱っていたせいか、誰も文句をつけなかったようだ。  俺は最初素直に喜んだ。クレーレにはその重責に耐えるだけの能力があるのだから当然だろう。だが俺の屋敷で、騎士団長についてくるオマケについてクレーレが話したとき、俺は素直に喜んでばかりもいられないのがわかった。 「騎士団長は王城の屋敷に住むことになっているらしい」 「そりゃすごいな」と俺はのんきに答えた。 「王城にくっついたあれだろう、立派なやつ。さすが違うな」  今のクレーレは近衛隊の隊長で、年齢から考えるとこれでも地位は十分高いのだが、暮らしているのは近衛隊の宿舎の一室である。騎士団長の屋敷というのは隊員宿舎とは全く別物で、要するに貴族の屋敷と同じものだ。なお貴族の屋敷というのは俺が伯父から継いだ町屋敷とはまったく別物で、庭園から家政をみる執事までくっついている。 「ああ。そういう決まりということだ」 「おまえまた、宮廷のなにやかやで忙しくなるな」  昇進はめでたい。だが心のどこかにかすかに残念な気持ちもあって、俺はそれを表に出さないようにいった。「あまり無理するなよ」  またクレーレと会える機会が少なくなるに違いない。俺たちがつきあいはじめてから7年以上経つが、俺は王城の端っこの師団の塔でちまちまと回路をいじっている魔術師で、クレーレはというと花形の近衛騎士だ。俺はだいたい塔か自分の屋敷で研究をしていて、クレーレは王宮の警護や王家の行事や舞踏会の護衛などなどでひっぱりだこである。  クレーレは暇があれば俺の屋敷へやってくるが、社交界シーズンは数週間会えないこともざらだった。回路魔術師というのは完全な裏方なので、クレーレがいるような場所にはお呼びでない。以前はふたりで長い旅をする機会も何度かあったのだが、クレーレが順調に出世するとそれも少なくなった。  旅をしているあいだは四六時中一緒にいられるが、王都ではそうもいかないのだ。  するとクレーレはいきなり改まっていった。 「それでアーベル、話がある」  若干気がせいたような、あるいは熱がこもったような口調だった。きっと今度の昇進で興奮しているのだろうと俺は思った。これまでクレーレは自分の地位が上がっても、周囲のおべんちゃらや世辞など意に介さずクールに受け流していたが、騎士団長ともなるとさすがに話が違うらしい。 「なんだよ、いきなり」 「一緒に住んでくれ」 「え?」  俺はぽかんとした。たぶんさぞかし間抜けな顔だったと思う。クレーレは真面目な顔で続けた。 「騎士団長の屋敷で、俺と暮らしてくれ」  俺はしばらく絶句していた。まったく頭が回らなかった。 「アーベル?」 「――クレーレ」やっと声が出たが、裏返ったおかしな響きになった。 「それは無理だ」  それから俺たちはぎくしゃくしている。ここに至ってもぎくしゃくしたままだ。ふたりして同じ寝台に横になり、雨の音を聞きながら天井を眺めている。すぐそばに温かい体があるのに、何かがつながっていない。俺たちふたりとも、ずっと黙っている。黙って横たわっているのにまったく眠くならず、暗闇に緊張がただよって、まるで眼にみえるような気がする。どちらかが口を開いたが最後、世界が崩れて何もかも水浸しになるんじゃないかと俺は思う。 「――どうして騎士団長の屋敷はだめなんだ」  ついにクレーレがたずねた。  低く深い声だ。胸の厚いがっしりした彼の体にふさわしい。おだやかな口調だった。 「どうしてって……」  それを説明するのがどうしてこんなに難しいのか、と俺は思う。どうして俺はこれを声に出して説明しなければいけないのか、とも思う。  たぶん俺がクレーレに腹を立てていたのは、ひとつはこのせいだ。 「クレーレ……考えてもみろ」俺はようやく、ぼそぼそと答える。 「俺はどうしてそこに住めるんだ。どんな権利で? 騎士団長はもう単なる騎士じゃない。王宮の一員じゃないか。おまえはもともと貴族だが、こうなれば単なる貴族以上だ。その屋敷にどうして俺が――ただの魔術師の俺が住めるんだ? まあ俺だって以前爵位の端くれみたいなのはもらったが、俺はおまえの……公式の伴侶でもなんでもな――」 「アーベル」クレーレがいきなり俺の方を向き、話をさえぎった。 「まだ貴族だなんだと気にしているのか?」  俺はカッとなった。 「そりゃあ気になるだろう! おまえはどんどん偉くなるし、公式には独身だからそれこそいろいろ誘惑が――」  あわてて口をとざす。俺はとんでもないことを口走っている。 「なんでもない。だからその……」 「アーベル」  クレーレの声がすぐそばで響いた。 「俺はそんなに信用ないのか?」 「そんな話じゃなくてだな――」 「おまえは俺の生涯の伴侶だ。俺はそのつもりだった」 「俺だってそれは――」  俺はぼそぼそつぶやいた。頬が熱くなった。 「俺も……そのつもりだが」 「だったらかまわないだろう」クレーレの息が耳にかかる。 「公式とか非公式とか気にするな。俺は宮廷ではただの朴念仁だ。俺はただできるだけ同じ時間を過ごしたいだけなんだ。そのためなら何でもするし、邪魔をしたりつまらんことをいうやつらは馬の餌にする」  本気でいっているように聞こえて、俺は思わず笑った。 「それは馬が気の毒だな」 「アーベル」  頭のうしろを手で抱きこまれ、クレーレの方を向かされた。胸と胸がふれあい、クレーレの長い足が絡んでくる。 「城下の屋敷が大切な場所なのはわかっている。仕事に必要なのも知ってる。だが、もっと一緒の時間を増やしたい。そうでないと俺が困る」  俺は暗闇のなかでクレーレの顎をさぐった。髭が指にざらざらとあたる。 「どうして困るんだ」 「俺がおかしくなるからだ」 「おまえが?」俺は笑う。 「いつも真っ当に物事をあつかうと評判で、温厚で、健全なおまえが?」 「それは勘違いだ」クレーレの声は笑っていなかった。 「俺はそんなにまともじゃない」 「誰もおまえのことをそうは思っていないぜ」 「他の連中の眼はおかしい。アーベル」  クレーレの手が俺の頭をひきよせた。吐息がすぐ近くに感じられた。 「会えないと俺はおかしくなるんだ。だから一緒に暮らしてくれ。そうでないと困る。公式の伴侶とか、そんなのどうでもいいだろう。もしそんな称号が必要ならそれこそアルティン殿下にかけあって――」 「いい! それはいらん!」  俺の焦りように、今度笑ったのはクレーレの方だった。 「それなら、一緒に暮らしてくれるか?」  俺の顔のすぐ近くでささやいている。片手が俺の腰にまわり、ひきよせてくる。クレーレの体温のおかげで俺の体はぽかぽかと温まっていた。 「ああ。わかった」俺は答える。  俺たちはしばらくじっとしていた。雨はまだ降り続けている。明日は太陽がみえるだろうか。以前ここへ来たとき、すぐそばの湖に太陽の光がさすと、白と金色のさざなみが光の織物をひろげ、湖に日の光がとじこめられたような錯覚をおぼえたことがあった。太陽をじかにみることはできないが、この湖がその光を反射する姿はいつも俺を感動させた。  あの景色をまた見たいと思う。湖がひかりのふちとなる。 「あいつ――エヴァリストは少なくともひとつは正しかった」  突然、クレーレが意外な人物の名前を出した。俺はびっくりした。 「何が?」 「俺のことに関しては、おまえがすぐ地位だなんだとつまらないことを気にしがちだから、気をつけろといったんだ」 「あの野郎、いつの間にそんな話をしているんだ」 「ずいぶん前だ。大陸に行った時だ」 「そうか」  俺は昔の相棒のことを思い浮かべる。金髪、長身の美貌の男。ここ三年ほど会っていないが、いったいどうしているのだろうか。 「たしかに気をつけるべきだった。だがあいつの忠告が役に立つなんて……」  腹立たしげにクレーレは語尾をにごし、俺は微笑んだ。クレーレもエヴァリストのことは気になるらしい。それはよくわかった。いろいろな意味であの男は気になる存在になりうるのだ。  俺はというと、大陸でやつとふたりで組んでいるあいだひと財産稼いだのに、どうにも合わない部分があった。それはたとえばやつがすぐ他人を支配したがり、商売のためなら時に人を人とも思わず、物騒な連中にもすぐ首をつっこもうとすること、などだ。結局これらがつもりつもって、俺たちの道は分かれたのだろう。  しかしエヴァリストにはおかしなぐらい義理堅く、また筋を通したところもあった。それにあのころの俺とエヴァリストにはよく似た部分もあったはずだ。たとえばあの頃の俺たちは、一カ所に留まりたいなどといっさい考えなかった。  やつはいまだに放浪しているのだろうか。 「アーベル」クレーレがいきなり俺の耳をつまんだ。 「あいつのことなんか考えるな」 「おまえがいったんだろ」 「失敗した」  その口調がすこし子供っぽくて、俺は思わず笑った。クレーレの指が俺の耳の裏から首筋をたどっていく。ぞくっと背中が震える。  そのとき突然俺は鞍袋のことを思い出した。 「そういえばおまえに見せようと――渡そうと思っていたものがあるんだ」 「明日じゃだめなのか?」 「明日――でもいいが……」  クレーレが腕を離したので、俺は起き上がってランプを灯した。階下から油紙の包みを持ってくると、クレーレが怪訝な表情でみつめた。注視されていると気恥ずかしかった。中身はただの本だからだ。  ただし、俺の本だ。 「これをやる」  俺はどんな顔をしたらいいのかわからず、だからそっけなくいった。 「おまえの仕事には関係ないし、興味もないと思うが」  クレーレは茶色の革に金の箔で押された文字をみつめた。眉が驚いたようにあがる。 「もしかして最近ずっと上の空だったのは……これを書いていたのか?」  上の空か。俺は内心舌打ちした。そうかもしれない。 「ここに来る直前に製本が終わった」とだけ答える。  クレーレは表紙をひらいた。表題をめくり、さらに次のページで手をとめて、じっとみつめていた。それから残りのページをざっとめくって本を閉じると、横の台にそっと置いた。 「おまえにやる」  俺はもう一度くりかえし、上掛けのしたにもぐりこんだ。どうせ中に書いてあるのだから、いまさらいわなくてもいいのかもしれない。  たちまち温かい腕がのびて俺をがっしりと包みこんだ。クレーレは俺の上にのしかかり、胸と胸を擦りあわせるようにして俺を抱きしめる。長い指が俺のあごをつかむ。 「アーベル」 「ん?」 「おまえにキスしたい」 「何度もしているだろ」  暗闇の中で俺たちは唇をあわせる。まだ雨が伴奏のように響いている。 「明日は晴れると思うか?」と俺はきく。 「晴れるさ」クレーレは断言する。

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