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【番外編】鏡はみな孤独

 城壁の上に出ると粉雪が舞っていた。  クレーレは手のひらを空へ向けた。革手袋にふわりと切片が落ちる。迷路のような通路をたどるあいだも雪は舞いつづけた。王都では珍しい天気だった。冬祭りの前に降ることはめったにないのだ。  前方に黒いローブが見えた。通路の突き当り中央に設置された観測箱に顔を突っこむようにして立っている。クレーレは足早に近づく。 「アーベル」 「ん」  相手は応答したものの、手は止めなかった。  クレーレは邪魔にならないよう背後にそっと立つ。相手はぶつぶつひとり言をいいながら石板に数字や記号を書きこんでいる。その肩に落ちる雪を払いたい衝動をクレーレは我慢する。とはいえ長い時間待ったわけではなかった。アーベルは手をとめて石板をローブにしまいこみ、観測箱の扉を閉めた。 「どうした?」 「忘れているだろうから迎えに来た」 「何の?」 「仕立屋だ。仮縫いに来る」  アーベルは一瞬ぽかんと口をあけ、そして閉じた。 「そういえばそんな話があったな――たしかに忘れていたが」  クレーレは暗色のローブに手をかける。雪のかけらをさっと払い、ほとんど習慣になった動作でその肩に腕を回す。 「途中でエミネイター師に会ったが、しっかり着飾れということだった。行こう」 「あの人はいつもそうなんだ。俺に着飾れったってな……」  クレーレはぶつぶつ文句をいう肩をもっと強く引き寄せる。耳にかかる髪をうしろへなでつけ、耳たぶに軽くキスをする。 「いいから一緒に帰るぞ」  唇に触れる肌も空から落ちる雪とおなじくらいの冷たさだった。  夕食前にクレーレが酒を片手に衣裳部屋に入っていくと、アーベルは仮縫いから解放されたばかりらしく、シャツのボタンを留めている最中だった。入れ違いに仕立屋が礼をして出ていく。アーベルはクレーレの視線に顔をあげる。 「じろじろ見るなよ」 「……いや」  衣裳部屋なのに、この部屋は数カ月の間になぜか棚のあちこちを書物に占領されている。  クレーレが騎士団長に就任した春から、アーベルは王城に隣り合わせるこの屋敷で暮らしているものの、この場所の格式に合わせて彼が変わるということはなかった。むしろ逆で、この部屋のように屋敷の方がアーベルに引きずられているかもしれない。ここが師団の塔に近いせいか、アーベルはとんでもない早朝や深夜に出入りするし、衣裳部屋は半分書斎のようになり(アーベル曰く、長椅子と棚があって寝室に隣り合わせているから最適とのこと)回路魔術師の徒弟や同僚も頻繁にやってきては議論を交わす。  屋敷の使用人たちは当初、アーベルをどう扱えばいいのかわからなかったらしい。しかし故障した回路魔術の装置をほぼ一瞬で修理してからというもの、アーベルは畏敬のまなざしで見られるようになり、高名な魔術師がこの屋敷を守護してくれている、とありがたがられるようになった。おかげで生来のだらしなさも大目に見られて、その点を苦々しく思っているのは執事のルシアンひとりだけのようだ。  クレーレは片手に酒のグラスを持ったまま、もう片手でアーベルの白いひたいに触れた。いつもと印象がちがうと思ったら、前髪がきれいにあげてある。ひたいから頭のうしろへ髪を梳くように指をすべらせる。 「おい、くすぐったいだろう……もう飲んでるなんて珍しいな」とアーベルがいう。  俺にも寄こせといいたげな口調だったがクレーレは無視した。 「髪を上げるのもいいな」 「俺はイヤだ」返ってきた声は不満げだった。「今日の仕立屋も持ってきたが、あのべたべたするクリームは苦手だ。つけないと落ちてくるし」 「たまにはいいじゃないか」 「だからやだって」  クレーレの手を振りほどくようにアーベルは頭を揺らし、その拍子になでつけた髪が崩れて落ちてくる。ほらな、と微笑みながらアーベルは前髪をかきあげ、上目でクレーレを見た。 「俺にもくれよ」  そのままグラスを渡そうとして、クレーレにいたずら心が生まれた。渡すと見せかけて上にもちあげ、アーベルの手に届かない一番高い棚へ置く。 「おい、まてよ馬鹿――」  最後までいわせなかった。クレーレはアーベルの白い顔を両手でつかまえ、文句をいおうとする唇をふさいだ。腰をひきよせて腕に抱き、薄いシャツの下の熱を感じる。こんな風にキスをするのは久しぶりだ。クレーレは自分の息とアーベルの呼吸が混ざりあうようにキスを深くする。同じ屋敷で暮らしていてもいつもゆっくり共寝ができるわけではない。何年もの付き合いでよく知っている、アーベルの弱い部分をさぐりながらキスをつづけ、背中から腰を撫でさする。アーベルの腕も自分の背中にまわされて、重ね合わせた中心で自分と相手の熱を感じる。 「ん……あ……」  魔術師の細身の体を腕の中にいれたまま、首筋に舌をはわせると小さく声があがった。そのまま肩口を噛むと、はっと体が緊張する。 「やめろって――」 「駄目か?」  見下ろしたアーベルの眸のしたにはほのぐらい影が落ち、それが欲情を示すこともクレーレにはよくわかっていた。 「これから夕食だろ……」 「食前酒だ」  ささやいてクレーレは腰の中心をぴったり合わせた。首筋を舐めあげながらアーベルのシャツの内側に指を這わせる。軽くこするだけでアーベルの胸の突起がかたく立ち上がり、指ではじくとびくりと背中が緊張する。 「何が食前酒だよ、馬鹿……」  今度はアーベルがクレーレのベルトをゆるめた。ひやりとした手がクレーレの下腹部に触れ、下衣がずり落ちる。と、アーベルは床に膝をつき、クレーレの怒張を唇に包みこんだ。 「ああ……」  思わず吐息がもれる。上目でクレーレを見上げるアーベルの視線にさらに劣情を刺激され、黒髪をまさぐる指に力がこもる。快感に身をゆだねるまま、ふと気づくと衣装棚の鏡にひざまずくアーベルが映りこんでいる。唇をすぼめて愛撫を重ねる彼の姿がクレーレをもっと煽った。  視界と舌の感覚双方に追い上げられ、耐えることもできずにアーベルの口の中で達するとその白い顔に一瞬苦痛の色が浮かぶ。こくりと喉が動いて、さらに苦い顔をした。  壁に背中をあずけて射精の余韻に浸りながらも、そんなアーベルの表情がふたたびクレーレの胸の底を煽る。 「――大丈夫か?」 「苦い」  つぶやきながらアーベルは立ち上がった。落ちてくる前髪をかきあげる。 「食前酒としてはいまいちだな。本物の酒をくれ」  グラスを渡すとクレーレが服を整えているあいだにアーベルは残りを飲みほし、手の甲で唇をぬぐった。その仕草にまたもちろりと熾火が点るのを感じ、クレーレはアーベルの顎をとらえる。出会ってから何年も経つのに、暗い色の眸はいまだにクレーレをとらえて離さない。そのよく動く口も、肘をひらめかせて髪をかきあげる動作もだ。 「まだやりたい?」 「続きはデザートだ」  クレーレの手の中で白い顔が微笑み、唇からは二種類の精が香る。 「妙な男が来た?」 「ええ。アーベル様の絵姿をお持ちで、ここで暮らしているのか、と聞かれまして」  夕食後に執事のルシアンが「お耳に入れたいことが」とクレーレに囁き、何かと思えば、そんなことをいう。 「どんな男だ?」 「服装は上等でしたが庶民のもので、生業は見当がつきません。商人にも官吏にも見えませんでしたが、アーベル様の周辺の方とも似ておられません」 「――金髪?」 「いえ、眼も髪も鳶色で、上背はあの方と同じくらいです」  それならエヴァリストではない。それに彼ならアーベルがどこに住んでいるか、わざわざ尋ねなくても知っているはずだった。 「絵姿?」クレーレは問い返す。 「はい。ただずいぶん古いものです。描かれているのはたしかにアーベル様ですが、短髪でいらっしゃって」と執事は答えた。 「その絵、俺のひいじいさんだろう」  その夜寝台の上掛けをめくりながらクレーレがこの話をすると、アーベルは事もなげにそういった。 「最近いるんだよ。俺を探してるやつ」 「なぜだ?」  クレーレはやや剣呑な声を出したが、アーベルは気づいた様子もない。 「わからん。ナッシュの血筋だってんで俺に絡んでくるんだ。塔にも来てる」 「それでどうしてる」 「何も」  アーベルは薄い夜着を羽織っただけの恰好で毛布の下に潜りこんだ。 「例の結界無効銃の男もたぶんそうなんだが、ナッシュはどうも大陸でいろいろやらかしてるらしくてな……俺があっちにいたときも所々で伝説になっていて、何というのか――崇拝者がいるんだ」 「崇拝者?」 「ああ。つまりだな、俺のひいじいさんはモテる。死んでるけどな。だがひいじいさんはもういない。死んでるからな。それで生きている子孫の俺を訪ねてくる、ということらしい」 「それで何もしないとは、どういうことだ?」  クレーレの声はさらに剣呑になったが、アーベルは相変わらず気づかない様子だった。 「ん? やりようがない。あの事件の男とは違って襲ってくるわけでもないし、魔力も普通だ。ただ俺のいる場所を調べてうろうろしているだけだ。うっとうしいといえばそうなんだが、そんなことで一般人を警備隊に突き出すのもどうかと思って」 「しかしアーベル――」 「それに警備隊はどうせいつも師団の塔や俺の周りをうろうろしてるし、テイラーが面白がって新しい弟子を逆にそいつに張り付かせてるから――あ、だから何もしてないわけじゃないのか」  アーベルは小さくあくびをした。やっとクレーレの眼を正面からみて「心配するなよ」という。 「それならいいが……」  そういってクレーレは毛布をはぎとった。  すぐさま「寒い」と抗議するアーベルの上に覆いかぶさり、強く抱きしめる。 「おい、苦しいって……」  つぶやく声を無視してうなじに唇をはわせ、強く吸う。夜着を肩から抜き、膝をつかせて背後からのしかかった。うしろから手をまわして胸を弄るとアーベルの吐息にたちまち甘さがまじる。  潤滑剤から蜜の香りが漂う。ゆっくりと後口をほぐすあいだもアーベルの唇からは絶え間なく喘ぎがもれ、ついにクレーレが怒張を埋め込むと腕の中で高い声があがった。 「ああっ……ん」  二度と危険な目にはあわせない――そう心に誓いながら、クレーレは魔術師の細身のからだを責め立てていく。  アーベルの服が仕上がったのは冬至の三日前だった。冬至の日、王宮では儀式が行われ、その後夜会が開かれる。その翌日からは冬祭りで、今度は城下で庶民の無礼講がはじまる。  クレーレが儀式にも夜会にも出席するのは毎年のことだったが、今年はアーベルも夜会へ招待されていた。それもアルティン陛下じきじきの招きなので、仕立屋を呼んで正装を新調することになったのだ。  当日の朝はここ数年アーベルが公式行事に出席するたびに服装に口出ししていたエミネイター――クレーレの従姉でアーベルの上司で、ファッションについては宮廷の流行をつねに先取りしている――がよこした床屋が屋敷へあらわれ、ちょうど出発するクレーレと行き違いになった。  アーベルは「俺一人で行けるのに」と不満げだったが、クレーレは迎えを出すといい置いて屋敷を出た。夜会の正装は実用性からほど遠いので、近くても馬車の迎えはあるほうが無難だ。  冬至の夜会は王宮の年中行事のなかでもきわだって規模が大きい。クレーレが一介の騎士だった頃は、警備隊でも近衛隊でも、要人の警備にもっとも気を遣う日でもあった。騎士団長となった今も、下から上がる種々の報告は把握しているが、同時に公式の出席者でもあるから、政治や社交にも気を回さなければならない。 「貴下の魔術師はまだ来ないのか」と王がいう。  今年の春、先王の引退と共に即位したアルティン陛下だ。幼い王子と王女がお目付け役の近くで眼をきょろきょろさせている。 「子供たちが会いたがっているんだ。私など及びもつかない、世紀のおもちゃを出してくれる偉大な魔術師をな」 「迎えを出したのでもう到着しているはずなのですが」  クレーレは答えた。先ほどから広間にアーベルの姿が見えないのを訝しく思っていたのだった。と、そのとき近衛騎士が近づき、王に一礼してクレーレに耳打ちした。 「――なんだと」  囁かれた内容にクレーレは思わず気色ばむ。 「現在馬車の行方を追っているところです。騎士団の紋章をつけた、そっくりの馬車だったということで」 「ん? どうした?」  王が椅子に座ったままクレーレに視線を向ける。 「アーベルが拉致されました」  クレーレの声は腹の中と裏腹に平静だった。しかし近衛騎士はかすかに息をのみ、体をひいた。 「うーん、いつものローブを着ていないのか……」  珍しくテイラーが真剣な声を発している。 「ローブを着てないなら、今日のあいつの服装ってどんなの?」 「上着は銀糸で全面を刺繍したびろうどで……飾りボタンは銀箔で覆った貝製で、裏地は繻子の――」  夜中に騎士に叩き起こされた仕立屋がしどろもどろに話しているところへ「こういうやつだ」と声が響いた。エミネイターがつかつかと歩いてくる。やはり刺繍をほどこした豪奢なチュニックで、男装だった。 「そのデザインは私が監修したからな」 「そりゃあずいぶん、めかしこんだもんだね」とテイラーが呆れたようにいう。 「正解だ。そうしないとアーベルは全身ただの黒しか着ない」  長い銀髪を暗色のローブの肩に落としたルベーグが合いの手を入れる。  いつもながら回路魔術師たちのペースは常人であるクレーレには読みとれなかった。とはいえ彼らが事態を真剣に受け取っていないはずはなく、クレーレは余計な発言を押しとどめる。もっとも彼らに慣れない近衛騎士はそうは思えないらしく、さっきからいらいらと扉を指で叩いている。クレーレがアーベルを迎えに行かせた騎士なのだから無理もない。騎士団長の屋敷へついたら、もう迎えが来てお出かけになりました、と執事に告げられたのだから。 「回路魔術で追えないのか」とクレーレは魔術師たちにたずねる。 「いつものローブを着ていればなあ。すぐわかるんだけど」 「そもそも、いつものローブならもう戻ってるだろう」 「道具箱兼武器庫みたいなもんだからな」  話を聞いた近衛騎士が眼を回している。実際、聞きようによってはいらぬ誤解も生みかねない話だ。 「最近アーベルの周りをうろうろしてたあいつ、あれに探知機をつけていればよかったな」とテイラーがいった。「どう考えても怪しい」 「弟子を張り付かせてるとか、アーベルがいってたが――」  そうクレーレが問いかけると、テイラーは「いやあ、祭りだろ? 休みを出したんだよ。でも練習にもなるし、やっとけばよかった」とはっきり答えた。  いったい何の練習だ、とクレーレは思ったが、今はそれを気にしている場合ではない。 「こうなったら王立魔術団に頼る方がいいんじゃないか」とテイラーがいう。 「探し物が得意なのがいるだろう?」 「そういえばシャノンは今、暇をとってるらしい」とエミネイターがいう。  シャノンは若いがいま頭角を現しつつある精霊魔術の使い手だ。かつてクレーレの隊の騎士だったが、彼の才能が見出されたきっかけは師団の塔にある。なのでこの国の、仲がよいとはけっしていえないふたつの魔術団では特異な立ち位置にいるのだが。 「王都にいない?」 「なんだ――あいつならアーベルを知ってるから探しやすいのに。うーん……」  テイラーがひたいをもんだ。 「じゃあ仕方ない。ルベーグでいいんじゃない。できるでしょ」 「できなくはないが……最近あまりアーベルと仕事をしていないからな。もう少し近い時間の記憶がある方が……」 「ああ、わかった」テイラーが手を打った。 「騎士団長を<視させて>もらおう。」 「ええ?」ルベーグはかたちのよい眉をひそめた。 「いいのか? しかし……どんなものが視えるかわからないし――」 「何の問題が?」話がみえず、クレーレは尋ねた。「たったいまも警備隊が探しているが、冬祭り前とあって時間がかかりすぎる。手っ取り早く探せる方法があるならそれでいい」 「ほら、いいだろ」とテイラーがいった。 「騎士団長」ルベーグの人形のように整った眉間にしわがよる。 「何を<視て>も恨みっこなしですよ」  まったく意味が分からず怪訝な顔をしたクレーレの手首をルベーグが握った。と同時に、テイラーが告げる。 「団長、一番記憶に残っているアーベルの顔、思い浮かべてもらえます? ものすごく鮮明なやつであなたの気持ちがこもってるとなおいい」  とっさにクレーレの頭に思い浮かんだのは昨晩のアーベルの様子だった。むろんというべきか、寝台のなかで表情をゆがめて――  とたんにルベーグが真っ赤になり、ついで思い切りむせた。 「そこをまっすぐ」感情の読めない声でルベーグが指示を出す。「次の角を左。その次も左。その先」  真夜中の城下を馬車と騎馬が走る。松明に照らされてあちこちに冬祭りの飾りである常緑樹が浮かび上がる。冷たい空気の中に刈られた木の香りが漂い、樹脂が燃える匂いと混ざりあう。  建物が密集する街路を抜け、街道に至る前のまばらな地域を馬車は走った。ずっと先に小さな鉄の門が見えたところでルベーグが「あの中だ」といった。クレーレは合図をして馬を止める。警備隊長がうなずき、静かに騎士団が夜の闇に散開した。 「私は――」といいかけたルベーグを無言で制して、クレーレも馬車を下りる。警備隊のひとりが無言でクレーレと入れ替わり、馬車の警備についた。  鉄門の先にあるのは、放置され荒れ果てた古い町屋敷だった。塀の内側に木が生い茂り、玄関へ通じる道を枯れ草が覆っている。クレーレはずっと以前、アーベルに出会ったころの城下の屋敷を思い出した。夏だった。熱気のさなかでのび放題の木の枝が地面に濃い影をおとし、そんなときにも魔術師は暗色のローブを着て、静かに笑っていたのだった。  周囲を偵察した騎士が警備隊長に内部の明かりを確認したと耳打ちする。突入すると目顔で語る隊長にクレーレはうなずいた。  騎士たちは静かに扉を破ると内部に踏みこんでいく。  警備隊長のさらに後ろでクレーレは待っていた。本当は自分も突入したいところなのに、立場上できないのがもどかしい。しかしあまり時間はかからなかった。まもなくぱたぱたと足音が鳴り「地下室です! 発見しました」と声が響く。 「ご無事です!」  クレーレの肩から緊張が抜けた。 「犯人は?」と尋ねる警備隊長の声に「確保!」と別の声があがる。 「状況――」  報告を聞く前にクレーレは走り出していた。屋敷の正面を抜ける。警備隊がランプをいくつも灯し、内部は明るい。外見ほど荒れていないが人が住まなくなった建物独特の荒廃が漂っている。正面階段横の扉から地下室への通路に入り、螺旋階段を駈け下りて、底にひらいた戸口へ走りこむ。  と、クレーレは足を止めた。  顔があった。  壁じゅうに顔が描かれている。無数の絵が掛けられているのだ。すべてアーベルの顔だ。  アーベル――いや、少し違う。似ているがこれは―― 「悪いな。迎えに来てもらって」  聞きなれた声がする。  眼の前に本物のアーベルがいた。銀糸の飾りをびっしり刺繍したびろうどの服を着て、赤いびろうど張りの椅子に座っている。 「俺としたことが、すっかり騙された」  クレーレは椅子の前に膝をつき、アーベルの顎に手をかける。髪が短くなっていることをのぞけば、顔には何の傷もない。ただし両手首にいましめの跡がある。擦り傷を検分し、さらにかがんで足首を持ち上げる。靴がない。 「おい、何をされて――」 「何もされてないないないない」アーベルは早口でいった。 「あー悪い、何もないというのは嘘だ。正確にはこの椅子に手と足を縛られて髪を切られてやつの繰り言を聞かされながら絵のモデルにさせられていた以外は何もない。だから落ちつけ」 「俺は落ちついている」 「そうは見えん」  そうかもしれない。  アーベルはかがんで足首をさすった。「あいつ、靴をどこへやったんだ」とつぶやく。「これだから正装っていやなんだよ……いつものブーツがあればこんなちゃちな縛りなんて……」 「こちらにありました!」  タイミングよく警備隊のひとりが飾り帯のついた靴を持ってきて、アーベルは飛びつくように受けとった。立ち上がった瞬間ふらりとしたものの、すぐにバランスを取り戻す。 「大丈夫か?」 「ああ。しかしひさしぶりだ。こんなの。それに強盗か誘拐かと思ったら、ひいじいさんの信者ときているし」 「ひさしぶり?」  クレーレの眉があがる。アーベルは逆に、ん?と問いかけるようにクレーレを見返し、ああそうか、とうなずいた。 「大陸は物騒なんで昔はいろいろあったんだよ。当時組んでたのがあのエヴァリストだし。でもなあ、拉致られたことはあっても絵のモデルになったことはない」  もう我慢できなかった。クレーレは腕を伸ばしてアーベルを抱きしめる。 「おい、他の騎士が見て――」 「心臓が止まるかと思うだろう」  黒髪をかき回すと、手のひらが覚える感触よりはるかに短い。壁に眼をやる。描かれた顔はみなアーベルそっくりだが、みな短髪だ。クレーレの知っているアーベルではなかった。  地上に戻ると犯人はすでにつながれて馬に載せられていた。馬車で待っていたルベーグの顔が輝く。 「あー犯人だが」  ルベーグに問われてアーベルは呑気に答えた。 「名前はエスト。魔術マニアというやつだ。魔力はないが魔術好きで、俺のひいじいさんが彼のアイドルらしい。大陸で出回ってる絵姿を集め、自分でも描こうとしてきたらしいが、ここに至って生身のモデルが欲しくなり、子孫を求めて海を渡ったと」 「それは全部、本人がしゃべったのか?」とルベーグがたずねる。 「あー」アーベルはうんざりした顔をした。 「そう。それだけじゃないが。おれのひいじいさんがどれだけ凄くて、カッコよくて、偉大で、自分にとって大切で、愛しているかを延々と何時間も……俺の前で絵を描きながらしゃべっていた。絵の具は匂うし、ひいじいさんの顔は見下ろしてくるし、いったい何の拷問かと思った」  何でもないといいはしたが、明らかに興奮が醒めないのだろう。アーベルはまだ話し続けている。その様子を眺めながら、クレーレはこれまで知らなかった彼にはじめて出会ったような気がしていた。王都に戻る前、大陸で様々な経験をしたとはこれまでも聞いていたが、拉致されたことがあるなど初耳だ。 「まったく、早く見つけてくれて助かったよ。あいつが絵筆を置いたら何かしようとは思っていたんだが、予備の回路も持ってなかったし。だから俺は仕立屋なんか呼んで服を作るのに反対だったんだ……それにしてもどうやってみつけたんだ?」  とたんにルベーグが顔をそむけた。  クレーレは不思議に思いつつも「ルベーグに<視て>もらった」と答える。 「そうか、精霊魔術……」アーベルが得心した顔をする。 「よくわかったな。ルベーグ、ありがとう。最近あまり会ってないのに――」 「アーベルのことは騎士団長どのが詳しいからな」  ルベーグが小さい声でいう。 「ちょっと記憶を貰って探したんだ」 「――どういうことだ?」  アーベルは怪訝な顔をし、そしてはたと思い至ったように「まさか」とつぶやいた。 「どうした?」とクレーレはたずねる。  馬車は外に掲げた松明でわずかに照らされているくらいだが、それでも見返したアーベルの頬に朱がのぼったのがわかった。 「何でもない! ルベーグ、わかってると思うが――」 「いわれずとも忘れる。覚えていたくない」 「そうだよな、それはそうだよな……」 「にしてもきみたち、こんなに長いつきあいでも相変わらず仲がい――」  突然どかっと馬車の床を蹴る音が響き、驚いた馬が後ろ立ちになった。御者が慌てて鎮めたものの、馬車は王城をめざして全速力で走り出した。  冬至をすぎて冬祭りになったとたん王都の寒さは一段落した。城下は庶民で大賑わいで、王宮は反対に静かになった。 「回路魔術の創始者には謎が多いんだ」  と、のんびりした口調でエミネイターがいう。  つい三日前の拉致事件について、しかもさらわれたのは直属の部下だというのに、まるで暇つぶしか娯楽を語るような口調だった。とりあえず深刻さはかけらも感じられない。  アーベルといい、回路魔術師の感覚はやはりどこかズレている――とクレーレは思ったが、うなずくだけにした。アーベルはというと、王子と王女にせがまれてバルコニーから王宮の庭園へ下り、足元にまとわりつかれている。夜会に出席できなかった彼を王が直々に召したのだ。  召された方は恐縮したが、夜は子供たちをあまり出してやれないのでむしろ昼の方がよいとまでいわれてしまい、結局穏やかな冬の午後に呑気に遊んでいるわけである。 「謎が多いので、調べてハマる連中がいるらしい。それとナッシュの書いた本にはどうも、鏡のようなところがあるので」とエミネイターは言葉をつなぐ。 「なにしろ創始者は思わせぶりなことばかりいうから、深読みするうちに自分自身を反映して読んでしまうんだ。それでも魔力のある人間にとっては実践の書でしかないんだが、魔力がない人間には――なんといえばいいのか、自分をするどくいい当てた神秘の書に思えるようだ。それでナッシュを崇拝しはじめる」 「だからって子孫を拉致してどうこうというのは……」 「もちろん。やりすぎだ。当人は愛だというが。実際、絵はなかなか上手い」  アーベルの誘拐犯を警備隊は尋問したが、結局アーベル本人が聞き出した以上の動機も意図も聞き出せなかった。しかしこれ以上エスカレートするとまた何かしかねないということで、精霊魔術師の監視のもとで審判の塔へ送られた。 「鏡は向こうからは何もしてくれない。それにハマってしまうと自分自身の罠――檻に入ってしまう」  エミネイターは両手をポケットにつっこむ。 「こんな珍妙な事件はそうそう起きないと思うが、例の結界無効銃の件もあるからな。覚えておいてくれ」  クレーレはうなずいた。  騎士団長に就任してから、クレーレは騎士団と回路魔術師団の塔、それにレムニスケート家との連携を強化する策をいくつか提案した。回路魔術は王都の防衛と同義であり、築城以来、王城の防備に携わってきたレムニスケート家もまた同じだ、という理屈で三者の協力を緊密にしたのだ。具体的には師団の塔への予算の増額で、おかげで回路魔術師の王城での地位も上がりつつある。精霊魔術を使う王立魔術団は不満げではあるが、クレーレは意に介さなかった。  庭園でアーベルは何をしているのか、いきなりローブの裾をからげて走り出すとこちらに向かってくる。子供たちがあとをついてくる。 「そういえばあの絵……」クレーレはつぶやいた。 「どうなるんだ?」 「さあ。ナッシュの絵姿なんてひとつあれば十分だからな。審判の塔がどうにかするさ」 「いやナッシュじゃなくて」  そういいかけるとエミネイターがふいに爆笑した。 「そうか! いやそうだよな。ナッシュじゃなくてアーベルの絵の方。あれ、欲しいのか?」 「いや、そんなつもりで――」 「ていうか他の人間にあれを渡したくないだろう。じゃあ私が手を回すから、届くようにしとく」 「いえその、」 「心配しなくてもアーベルには内緒にする。まあまあ従弟どの、貸しにしとくよ」  バルコニーの下まで戻ってきたアーベルにエミネイターは手を振った。焦るクレーレをそのままにして回廊を行ってしまう。 「何を話してたんだ?」  アーベルは石段を上りながらたずねた。短く切られた髪は床屋にきれいに整えられて、細い顎の線がきわだつ。思わず無言でじっとみつめると魔術師は怪訝な眼つきをした。 「クレーレ?」 「たいした話じゃない」とクレーレは答える。 「鏡のことだ」

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